少年プリズン

まさみ

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四十一話

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 『リョウちゃん、なんでそんな悪い子になっちゃったの』
 赤毛をポニーテールに結わえた若い女が部屋の真ん中で泣いている。
 しどけなく膝を崩してすわりこんだ女の手には、毛のほつれたテディベアが。
 この後ろ姿、知ってる。
 幸薄そうななで肩、肉の薄い背中。とても子供ひとり産んだとはおもえない、スレンダーな体。
 『ママがジャンキーだから、しょうもない女だから、ママを見て育ったリョウちゃんも悪い子になっちゃったの』
 めそめそ泣きながら、手に握り締めたテディベアに顔を擦りつける女。
 僕はこの人を知ってる。
 世界でいちばんダイスキな人。世界でいちばんタイセツな人。
 僕が世界でいちばんダイスキな人は、鼻にかかった甘ったるい声で嗚咽をあげている。膝に抱いたテディベアを時折思い出したように撫でながら、目尻からあふれた涙でメイクが溶け流れるのもかまわず小さい女の子のように泣いている。
 『ちゃんとリョウちゃんの手の届かないところに鍵をしまって、リョウちゃんが手を出せない引き出しのいちばん上にお薬しまっておいたのに』
 どう見ても二十代前半にしか見えない童顔の中、涙で潤んだ垂れ目をしばたたきながら、その人は繰り返す。
 哀しげに哀しげに。おなかを痛めて産んだ子供ひとりちゃんと育てられなかった自分の非をなじるように。
 『なんで引き出しがからなの?なんで注射器が消えてるの?』
 それはね、ママ。僕が自力で開けたからだよ。
 こう、針金の先にちょっと細工してね、引き出しの鍵穴にさしこんで手首を回すんだ。最初はうまくいかなかったけど、何度もやってるうちにコツが掴めてきてね。やっぱり手首の角度と集中力が大事なんだ。コツさえ掴めちゃえばあとは簡単、引き出しのいちばん上の隠し場所からバレないように注射器とお薬をちょうだいするだけ。
 ……バレないようにやったはずなんだけどなあ。
 部屋の真ん中で泣きべそかいてるのは、僕が世界でいちばんダイスキな人。テディベアに頬擦りして涙を拭いて、いやいやするように首を振る。
 『ママがこんなんだから、リョウちゃんもジャンキーになっちゃったんだ。ママがフシダラなばっかりにリョウちゃんまで……』
 僕がふしだらなのはママのせいじゃないよ。そりゃ家庭環境とかも要因のひとつにはあったけどさ、僕がふしだらなのは天性の素質というか……うまくいえないけど、とにかくママのせいじゃないよ。
 そう声をかけてあげたいのに、ママは僕の言葉に耳を貸さない。僕の存在そのものに気付いてないのか、ぐすぐすとすすり泣くばかり。 僕はママのことがダイスキだし、女手ひとつで僕を育ててくれたことにも感謝してる。
 たしかにママは娼婦でジャンキーで毎晩男に殴られて青痣作って帰ってきてもへらへら笑ってるような頭の足りない人だったけど寝る前には必ずおやすみなさいのキスをしてくれたし、それに……
 ママの膝の上にちょこんと座ってるのは、テディベア。
 小さい頃、独り寝を嫌がって駄々をこねた僕のためにママからプレゼントされたテディベア。
 『ごめんねリョウちゃん』
 膝の上に乗せたテディベアに向け、ぼんやり放心した横顔で語りかけるママ。
 『ママがもっといいおかあさんだったら、リョウちゃんも―……』
 リョウちゃんも?
 その先は聞こえなかった。僕の瞼の裏に鮮明に焼きついたのは、膝の上のテディベアに向け、純粋で愚直な子供のように真剣に語りかける女の横顔。
 
 儚い横顔は、泡沫のようにはじけて消えて。

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 絶叫。
 もんどり打ってベッドから転げ落ちたのは、僕と同房のビバリー。
 寝ぼけ眼をこすり、毛布を剥いで上体を起こす。床に転げ落ちたビバリーが両手で口を押さえ、涙目で悶絶している。
 「Good morning」
 さわやかに挨拶する。
 「グッモーニングじゃねえっス、朝っぱらから何さらすんですリョウさん、舌、舌、したあああ!?」
 「目の前にいるのが悪いんだよ。つい条件反射でフレンチキスしちゃったじゃないか」
 床に足裏をおろす。
 外にいた時のくせで、目の前に顔があるとつい条件反射でフレンチキスしてしまう。外にいた時は隣で人が寝てるのが当たり前の生活をしてたから、当時の習慣がまだぬけないらしい。うーんとのびをしてふと見ると、洗面台にかじりついたビバリーががらがらとうがいしてた。しつこいくらいくりかえしくりかえし。
 「やなかんじ。いいじゃん唇くらい、減るもんじゃないし」
 入念に口をすすぎ終えたビバリーが、恨めしげに僕を振り返る。
 「……あれ嘘っスね、体は売ってもキスはしないのが娼婦の鉄則っての」
 「娼婦はどうだか知らないけど僕は娼夫だから」
 青ざめた顔で洗面台にもたれてるビバリーを邪険にけりどけ蛇口を奪い、洗顔を済ます。タオルで顔を拭いて振り返った僕の足もとで、ビバリーは膝を抱えておちこんでいた。
 「童貞奪われた気分だ……」
 「じゃ、僕がビバリーの初めての人だね」
 ふざけてまぜっかえすと「気色悪いこといわないでくださいっス!」と噛みつかれた。やれやれ、冗談なのに。ビバリーは僕より二ヶ月後輩のはずだけど、ちょっとばかし見目のいい囚人や生白くて線の細い囚人ならレイプされるのがもはや年中行事と化してる東京プリズンの環境にいまだに染まらないでいるなんて珍しい。そろそろ免疫ができてもいい頃合なのに口に舌いれられたぐらいでぎゃあぎゃあ騒ぐなんてとんだ腰抜けだ。
 「それで?なんでビバリーくんは朝っぱらから僕の上にまたがってたのかな、シュチェーション的に誤解されてもしかたないと思うんだけどー」
 膝と膝の間に頭をたれて悲嘆に暮れているビバリーの上にタオルを被せ、肩に手をまわしてささやいてやる。本気でショックを受けてるのか、僕の腕を勢いよく振り払ったビバリーが陰気に打ち沈んだ声で呟く。
 「リョウさんところにお客さんがきたから起こそうとしただけっス」
 「お客さん?」
 緩慢に顔を起こしたビバリー、その視線を辿って正面を向く。開け放たれた鉄扉の向こう側に立っていたのは。
 「ラッシー!」
 「その呼び方はやめろ」
 大手を振って房からとびだした僕を見て、ラッシ―こと五十嵐看守は泣く子も黙る渋面を作った。手入れされてない無精髭とくたびれた制服、アルコールの過剰摂取で黄色く濁った覇気のない目。年は三十路半ばくらいに見えるけど、髭を剃ったらもっと若いかもしれない。
 東京プリズンの看守にはタジマを筆頭にろくな奴がいないけど、例外は存在する。その数少ない例外に分類されるのが僕の目の前のラッシ―こと五十嵐だ。
 ラッシーはタジマのように暴力で囚人をおさえつけようとしない稀有なる人種だけど、まるっきりの聖人てわけでもない。その証拠にアル中だ。十年来連れ添ってきた奥さんとの痴話喧嘩が絶えなくて精神的に参ってるらしく近頃寝つきがよくないと、看守間の噂を聞きつけて僕のところに睡眠薬をもらいにきたのが縁でお近づきになった。
 身も蓋もない言い方をすれば、人間失格一歩手前のアル中のダメ看守だ。 
 「ほら、約束のブツだ」
 看守服の尻ポケットをまさぐり、なにかを取り出すラッシー。ラッシ―の手にぶらさがってるものを見て、快哉をあげる。
 「ありがとうラッシ―!」
 ラッシ―の指先につままれていたのは、鍵屋崎から預かっていた例の眼鏡。レンズが粉微塵に割れて弦がひしゃげてフレームが変形したあの眼鏡がいまやもとどおり、いや、前以上に完璧な姿かたちを得て僕の手元に戻ってきたではないか。
 「俺が直したわけじゃねえ。眼鏡屋の腕がいいんだろ」
 興味もなさそうな口ぶりでラッシ―がつけたし、あくびを噛み殺す。ラッシ―に修理を頼んで正解だった。仮にも僕は囚人だし、外界との連絡手段はごく限られてる。鍵屋崎のメガネは一見修復不能に見えたし、素人には手におえない。それだと専門の職種に頼むっきゃ方法はない。
 「やっさしーね五十嵐さん、僕のおねがい聞いてくれたんだ」
 ラッシ―はアル中のダメ看守だけど、強面の見かけによらず人がいい。ラッシ―の手を介して「外」に修理にだされた眼鏡も無事戻ってきたことだし、鍵屋崎が提示した交換条件は消化済み。あとはナオくんの頑張りに期待ってね。
 すこぶる上機嫌の僕の前にずいと手が突き出される。紺の長袖につつまれた腕をさかのぼると、五十嵐の仏頂面に行き当たった。
 「見返りは?」
 ……そつがないなあ。
 「しかたないなあ、特別サービスだよ」
 眼鏡をズボンの尻ポケットにすべりこませ、五十嵐にすりよる。五十嵐の顎に手をかけ、唇をー
 「なに考えてんだよこのませガキ!!」
 「ご褒美のキス」
 怒髪天をついた五十嵐に突き飛ばされ、壁に衝突して肩を痛める。ビバリーといい五十嵐といい冗談が通じないんだからやんなっちゃう。僕をくびり殺そうと一歩を踏み出した五十嵐に、やれやれと肩をすくめてみせる。
 「ジョーダンだってジョーダン、マジになんないでよラッシ―てば。ほら、約束のブツ」 
 あらかじめ用意していた錠剤のシートをぽいと五十嵐に投げる。反射的に腕を突き出してシートを受け取った五十嵐がほっとする。五十嵐に突き飛ばされて痛めた肩をさすりながら、一応、使用上の注意ってやつをつけくわえる。
 「念のため言っとくけど。その睡眠薬は日本じゃとっくに使用禁止になった奴だから、バレないように持ち歩いてね。ウィスキーとか強いアルコール類といっしょに飲むのはご法度、死ぬ危険性もある。一度に三錠以上服用するのは絶対ダメ、心臓止まるから」
 「でも、効くんだろ」
 それが一番重要だといわんばかりに、五十嵐が太いため息をつく。
 「ばっちり」
 「ならいい」
 錠剤のシートをいそいそとしまいこみ、用は済んだと踵を返す五十嵐。
 「今夜はぐっすり眠れるといいね」
 「ああ」
 肩越しに手を振って廊下を去ってゆく五十嵐、その背中に目を細め、わざと大きな声で叫ぶ。
 「ラッシ―の奥さん」
 ぴたりとラッシ―が立ち止まる。
 廊下の半ばで立ち止まったラッシ―が、やがて、やり場のない怒りをこめて吐き捨てる。
 「………クソガキが」
 憎々しげに顔を歪めたラッシ―に軽く手を振ってやる。荒く舌打ちしたラッシ―はそれきり振り向かずに廊下を去っていった。
 不眠症で悩んでるのは五十嵐じゃない、五十嵐の奥さんだ。
 そんなこととっくに知ってる。知っててわざと黙ってたんだ。精神的にひどく参ってて、アルコールに頼らなきゃ生きていけない奥さんのために恥を忍んでクスリをもらいにくる五十嵐を観察するのが楽しかったから。
 「……性格悪いっすねえ、リョウさん」
 いつのまにか背後にきていたビバリーが、あきれたようにささやく。
 ポケットを叩いて眼鏡の感触をたしかめた僕は、いちばん笑顔が映える斜め四十五度の角度に小首を傾げる。
 「小悪魔っていってよ」
 僕は笑顔で人を殺すレイジみたいな悪魔にはなりきれない。小悪魔がせいぜいだ。
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