少年プリズン

まさみ

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七十五話

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 蛍光灯が黄色く輝く廊下を歩く。
 消灯時間が近いせいか俺以外には人影も見当たらない。本来なら巡邏の看守が警棒を担いでやってくるまで毛布にくるまってじっとしてなきゃならない一介の囚人がはるばる房を抜け出て東棟と中央棟を繋ぐ渡り廊下付近まで散策してきたのは物見遊山が目的じゃない、ある直感に突き動かされてだ。
 いや、確信というべきだろうか。
 コンクリート打ち放しの寒々しい壁が延延と連なる無機質な廊下と平行して伸びているのは涯てのない天井、陰鬱な灰色に沈んだ天井に等間隔に連なっているのはところどころガラスが割られて砕けた蛍光灯。朽ちた廃墟のように荒廃した廊下は夜気もひんやりと肌寒く、上着越しの二の腕が鳥肌立つのがわかる。
 あそこに行くのをためらわなかったわけじゃない。
 正直、何度も引き返そうとした。あそこに足を運べばどんな光景が待っているか、だれがどんな格好で待っているか薄々予期できたから。そんな光景は見たくなかった、想像するだに腹立たしくて情けなくてやりきれなくて怒りのぶつけようがなくなる。でも、放っておけない。
 脳裏によみがえるのはつい数時間前の光景。
 図書室から出てきた俺が廊下で遭遇した衝撃的な出来事。タジマの手の中で燃え尽きて灰になった鍵屋崎の手紙、下品な哄笑と散らばる半紙、一直線にタジマに向かってゆくサムライの背中……孤高の武士の背中。
 大股にタジマに歩んでゆくサムライの背中が展望台のへりに立った鍵屋崎の背中とだぶる。背格好も違う、身長も違う。サムライと鍵屋崎に似ているところなんてどこにもない、外見上の共通点なんてどこにもない。それなのに、それでもあの時のサムライはたしかに鍵屋崎と酷似していた。相違点はといえば、鍵屋崎は孤独であろうと意識した上で人を寄せ付けないよう辛辣に振る舞ってるがサムライは自然体で孤高を保っているところだ。
 知能が劣る凡人と馴れ合う趣味はない、と鍵屋崎なら吐き捨てるだろう。だれにも心を開かず心を許さず、異常に高いプライドと天才の自負だけで立っている精神の均衡は危うく、脆い。一方サムライには他人を寄せ付けまいと気負っている節はないが、日常的に身に纏った低温の殺気、なにげない動作の端々から垣間見える鍛え抜かれた身のこなしにはただ居るだけで他人の接近を拒む威圧感がある。
 他人に興味がない鍵屋崎と他人に関心がないサムライ。どっちも自分の世界だけで閉じているように見えたのにサムライはタジマを殴った、囚人が看守に手を上げるということがどういうことかわからなかったはずないのに怒りに任せて我が身を顧みず、殆ど衝動的に。
 サムライが自発的に暴力をふるうところを初めて見た。
 この前の監視塔の一件のように巻き込まれて仕方なく、といった諦観の風情ではない。自分で判断し、自分で考えて行動したのだ。暴力沙汰が嫌いで平和主義なサムライが、明鏡止水の四字熟語を体現するかの如くいつだって冷静沈着、鉄板に目鼻をつけたような無表情を崩さないサムライが看守を殴った。衆人環視の中、おもいっきり。
 サムライはそういう奴だ。
 自分の身に降りかかった災難なら我慢できる、忍耐力の続く限り耐えて耐えて耐え抜くことができる。でも、今回は違う。タジマの標的になったのは同房の鍵屋崎だ。お高くとまったメガネ、エリート崩れの日本人、言うことなすこと偉そうで気に食わない奴、最低最悪の見下げ果てた親殺し。
 唾棄すべき最下等の人間。 
 それでも鍵屋崎を庇った、庇わずにはいられなかった。タジマがしたことは鍵屋崎が苦心惨憺して書き上げた手紙を残忍に踏みにじっただけじゃない、文字どおり人の気持ちを踏みにじる外道の所業だ。サムライは許せなかった、絶対に。
 鍵屋崎のてのひらを思い出す。机に伏せたてのひらは鉛筆で汚れていた。何回、何十回推敲して書き直したのだろうか。あの潔癖症が、手を洗う暇も惜しんで夢中で執筆に励んでいたのだ。ちょっと指と指が触れただけで生理的嫌悪に顔をしかめ、すれちがいざまに肩がぶつかっただけで大仰なしぐさで肩口を払い、眼鏡のレンズに微小な埃が付着すればシャツの裾で執拗に拭わなければ安心できない病的な潔癖症のくせに、妹に手紙を書いてる間だけはそんな些末なこと完全に忘却して鉛筆を握っていた。
 普通の、兄貴の顔をしていた。
 同房のサムライなら俺よりずっと長く鍵屋崎を見てきただろう、奴がどんなに頑張っていたか、どんなに不器用でたどたどしく、それでも精一杯の愛情と謝罪をこめて妹への手紙を書き綴っていたか。
 他人に弱味を見せるのが大嫌いな鍵屋崎の弱味を、ただひとりサムライだけが夜毎垣間見ていたのだ。鍵屋崎もサムライにだけは少しだけ心を許し、心の奥底に抱えこんだ弱味の一端を垣間見せていたのだ。たとえ本人が全否定しても俺にはそうとしか思えない、ほかに頼る奴がいない鍵屋崎が悩みに悩んで頼るとしたらサムライだけだ。寡黙なサムライは寝いりばなを叩き起こされても渋りもせず、隣のベッドに腰掛けた鍵屋崎に真摯に助言してきたのだろう。
 陰ながら努力していた鍵屋崎を知っているなら、タジマのしたことが許せなくて当たり前だ。
 一歩進むごとに気分が重たく塞ぎこんでくる。本音を言うならここで引き返したい、房にひっこんで毛布をかぶって眠りたい。でもそういうわけにはいかない、俺の予想が正しければアイツは今頃サムライがどんな目に遭ってるかもしらずに消灯目前の廊下をうろうろしてるはずだ。
 『本当にきみは、ひとがいいな』
 苦笑する。なるほど、鍵屋崎の言い回しは的を射ていたわけだ。
 自分の人のよさにあきれながらなげやりに足を運んでいるとじきに問題の廊下が見えてくる。昼間、タジマと五十嵐が歩いていた廊下。なによりも体面を重んじる看守を囚人環視の中サムライが殴ったあの場所。
 いた。
 滲んだように輝く蛍光灯の下、廊下に膝と両手をつき、一心不乱になにかを捜してる囚人が目に入る。危うい手つきで床を手探りし、舐めるような目で床を走査し、焦燥の色濃い顔を前後左右に振り向けている。
 芝居がかったため息をひとつ。
 「なにしてるんだ」
 はっと顔をあげる。まずい奴にまずいところを見られた、という気まずげな顔にデジャヴュをおぼえる。いつかの凱と同じ顔。互いの出方を窺うような微妙な沈黙を破ったのは鍵屋崎の平板な声。
 「………………壁の強度を確かめていたんだ」
 「は?」
 手近の壁をコンコンと小突き、納得したように頷く。
 「コンクリートには押し潰そうとする力には強いが引っぱられる力には弱いという特性がある。紙を破る行為を例にとればわかりやすい。両手で引っぱって紙を破るのはむずかしいが上からちぎればさほど力を必要としない、鉄筋コンクリートにも同じことが言える。つまり鉄筋コンクリートは横方向からの衝撃には強いが縦方向からの衝撃には脆い物質なんだ、縦方向からの衝撃でコンクリートが裂ける現象をせん断破壊といい何の前兆もなく突然起きるから最も危険な壊れ方のひとつに分類される。東京は地震の多発する土地柄だろう、いつなんどき直下型大地震が発生してもおかしくない。もともと亀裂の生じていた壁が地震の衝撃に耐え切れずに崩壊する危険性も否定できない、よって地震発生時に刑務所の壁が保つかどうか耐震性を確かめてんだ」
 苦しすぎる言い訳。
 ひどく真面目な顔でコンコンと壁を叩き続ける鍵屋崎に脱力しかけ、口を開く。
 「手紙はないぜ」
 「……なんで知ってるんだ?」
 嘘を見抜かれて一瞬気まずげな顔をしたがすぐにその目は不審の色に塗り替えられる。鍵屋崎の反応を汲み、こいつがまだなにも知らないことを悟る。
 屈めた膝の上に腕をおき、鍵屋崎の顔を覗きこむ。
 「サムライは帰ってきたか」
 「…………いや。僕が房にいた間は姿を見なかったが」
 そりゃそうだ、帰ってこられるはずがねえ。
 「サムライがどうかしたのか」
 サムライの名前を出した途端鍵屋崎の表情に微妙な変化が起きる。大多数の人間は微妙すぎて見過ごしてしまうだろうささいな変化だが体温の低い無表情を見慣れてる俺にはひどく新鮮に映った。狼狽した鍵屋崎を見下ろしているうちに胸の中でむくむくと黒い感情が育ってくる。
 凱の時と同じだ。
 なんでこんなみっともない真似までして手紙を捜す、なんでこんなブザマな格好までして手紙を捜してるんだよ、お前。いつもは大勢子分を引き連れて好き放題威張り散らしてる凱が、あの夜、途方に暮れて廊下に這っていた。今目の前にいるのは鍵屋崎だ、プライドの高さじゃ凱の十倍にも匹敵するだろうにやっぱりあの夜と同じ、廊下のど真ん中に両手両足をついて必死こいて手紙を捜してやがる。
 たかが手紙一枚のためになんでそこまでする?
 そんなに娑婆に未練があるのかよ、そんなに娑婆が恋しいのかよ。
 しかも鍵屋崎は今の今まで同房のサムライがどんな目に遭わされてるのかも知らず呑気に廊下を這っていたと言う、サムライがタジマに何をしたか、自分が原因となって招いた災厄を知りもせず自分の不注意で消失した手紙のことだけで頭を一杯にしてやがる。
 鍵屋崎から目を逸らし、吐き捨てる。
 「サムライは独居房送りになった」
 独居房、またの名を懲罰房。
 囚人がなにか問題を起こしたときに使用される特殊な房で床面積は人ひとりがようやく寝転がれる程度。錆びた鉄扉の下方には矩形の窓があり、そこから一日二回差し入れられる腐りかけの残飯は犬のように貪り食うしかない。手は使えない、看守に反抗した囚人はその罰として手錠で後ろ手に戒められているから。分厚い壁に四囲を塞がれた独居房にこもっているのは糞尿と杜寫物の悪臭、嘔吐に嘔吐をくりかえし苦い胃液しかでてこなくなっても胃袋を痙攣させて吐き続けずにはいられないようなこの世ならぬ異臭が漂う中、手足も十分にのばせない暗闇の底に監禁された囚人の多くは最短一日、どんなに強靭な精神力の持ち主でも最長二週間で発狂に至る。
 深夜、消灯時間を過ぎて寝静まった廊下の奥から獣じみた咆哮が聞こえてくることがある。
 独居房送りにされた囚人が発する奇声がそれだ。
 何回か、任期が明けて独居房からひっぱりだされた囚人を見たことがある。看守にふたりがかりで担がれ、床から足裏を浮かせた状態で運ばれてきたその囚人は弛緩した口から大量の唾液を垂れ流し、黄色く濁った目はここではないどこかを見ていた。シャワー室に強制連行されてく途中だったんだろう、伸び放題の髪は糞便にまみれ囚人服は杜寫物に汚れていた。
 そいつは額に怪我をしていた。
 囚人どもの噂じゃ、開けてくれ開けてくれと泣き叫びながら鉄扉に体当たりした結果らしい。額から血を流し、すでに正気を失って意味不明に喘ぐしかない囚人を見送り、俺は金輪際なにがあっても独居房にだけは行くものかと心に決めた。
 サムライは独居房送りになった。五体満足、正気を保って帰ってくる保証はない。
 長い沈黙だった。
 入所二ヶ月の鍵屋崎も独居房のことは知ってるはずだ、それが証拠に「独居房」の名称を出した途端目に見えて顔色が変わった。ごくりと唾を飲み下した鍵屋崎が、白く乾いた顔で俺を仰ぐ。
 そして。

 「サムライはなにをやったんだ」
 キレた。

 スッと体温が下がってゆく。
 「お前のせいだよ」
 お前のため、とはあえて言わなかった。名指しされた鍵屋崎が不審げな顔をする。
 「何故僕のせいなんだ?」
 衝動的に立ち上がった鍵屋崎がさも見当違いのことを言われたと食いついてくるのを見越し、あたりを見回す。
 「お前、ここで手紙落としたろ」
 中央棟と東棟をつなぐT字廊下、その岐路。図星を刺された鍵屋崎が押し黙るのをひややかに眺め、続ける。
 「お前の手紙はよりにもよって最悪の奴に拾われた。囚人どもに毛嫌いされてる最低最悪唯我独尊看守のタジマ様、囚人いじめが三度の飯より大好きと豪語してはばからない性根の腐ったブタ野郎、イエローワーク担当で俺たちを砂漠に埋めかけてくれたサディスト。タジマは今お前が立ってるその場所で手紙を拾ったんだ。俺は廊下の陰に隠れてそれを見た、あとからサムライがきた、展望台で半紙を干した帰りだ。そして、」
 そこで言葉を切る。その後の展開を予期したらしく、鍵屋崎が息を呑む。
 「タジマは勝手に手紙を読んだ。皆に聞こえるよう大声で」
 こんなことまで言う必要ない、わざわざ本人に知らせる必要なんてどこにもない。
 大人げないと自覚してる。こんなのただの嫌がらせだ、ガキっぽい意趣返しだ。わかってる、頭ではわかってる。でも舌は止まらない、鍵屋崎の澄ましたツラを見てるとどうしようもなくむしゃくしゃしてくる。サムライはコイツのためにタジマを殴って独居房送りになったというのに当の本人ときたらまるでそんなこと関知せずこんなところをウロウロしてやがる、手紙をさがして右往左往してやがる。
 もうそんなもの、どこにもないのに。
 「タジマはライターを取り出して、手紙に火をつけた」 
 ちらりと鍵屋崎の足もとに目をやる。そこに存在する一握りの灰にたった今気付いたとでもいうように、鍵屋崎がわずかに目を見開く。
 「それを見ていたサムライは、」
 サムライは、とびだしていった。
 我慢できずに。許せずに。それもすべて鍵屋崎のために。
 「サムライは、タジマを殴った。当然の結果として独居房にぶちこまれた。期限は一週間だそうだ」
 鍵屋崎の表情が漂白されてゆく。顔を伏せた鍵屋崎、その唇が何かを堪えるように引き結ばれ、震えた声を絞り出す。
 「だれがそんなことをしてくれと頼んだ」
 鍵屋崎の言葉に耳を疑う。ふたたび顔を上げた鍵屋崎、眼鏡越しの目に荒れ狂っていたのは紛れもない怒り。憎悪に軋み、そのくせひどく痛々しく歪んだ顔に朱を昇らせ、
 「なんで僕がサムライみたいな凡人に同情されなければならないんだ、不愉快だ」
 「ちょっと待てよ、」
 「さわるな」
 立ち去りかけた鍵屋崎の肩を掴んで引き止める、その手がおもいきり振り払われる。その拍子に足がすべり、足もとの灰を蹴散らしてしまう。バッと舞い散った灰の向こう、手紙の燃え滓を見下ろす鍵屋崎の顔にはさっきと打って変わってなんの表情も浮かんでない。
 「こんなものどうでもよかったんだ」
 自分に言い聞かせるように。
 「自己満足で書いてたんだ、本気で届けようと思ってたわけじゃない。届かなくてもよかったんだ、僕はただ天才の必然として何事も完璧に仕上げなければ気が済まなかったらくりかえし修正を加えただけだ。読まれて燃やされて、だからなんだ?些末なことだ」
 些末なことだ?
 この上もなく大事なものを包むように図書室の片隅で手紙を広げていたくせに?
 「うそつくなよ」
 鍵屋崎が怪訝な顔をする。
 「本当は届けたかったくせに、読んで欲しかったくせに。だから何度も何度も手直しを加えてたんだろう、何度書き直しても気に入らなくてしつこく消してたんだろう?娑婆の妹に今の気持ちを伝えたくて、今の気持ちを知ってもらいたくて、なにをどう書けばわかんなくて、それでも苦労して寝る間も惜しんで書き上げたんだろ?だからサムライだって放っておけなかったんだろうが、それなのになんでそんな顔してんだよ、サムライも手紙もどうでもいいみたいな涼しいツラしてんだよ!!」   
 鍵屋崎の肩を突き飛ばす。無抵抗の鍵屋崎は軽々吹っ飛ばされて壁にぶつかる、その上に覆い被さるようにして囁く。
 「未練があるくせに」
 「……なんだって?」  
 「外に未練があるくせに」
 凱のようにレイジのようにリョウのように娑婆に未練があるくせに、未練を捨てきれてないくせに、表面上はどこにもそんなもんないってツラしてやがる。
 おめでたい日本人に思い知らせてやる、だれにも望まれてない現実ってやつを。
 「お前わかってんのか?ここは東京プリズン、入ったら二度と出られない砂漠の監獄だぜ。両親殺してぶちこまれたお前が生きて出られるわけがない、三人殺した俺も同類。ここに送りこまれたってことは娑婆の連中に見限られたってことなんだよ、世間から見捨てられたってことなんだよ。考えてもみろ、俺たちは人殺しだ。人殺しの身内がのこのこ出てったところで笑顔で迎えてくれる人間がいると思うか、お前の妹にとっても俺のお袋にとっても迷惑でしかねえよそんなの」
 壁を背にした鍵屋崎の表情は前髪にさえぎられて見えないが、色を失った唇がきつく噛み締められているから俺の声はちゃんと届いているんだろう。心の底の底、鍵屋崎が今まで必死に目をそらしていた核心部分に。
 目の前にお袋の顔が浮かぶ。
 物心ついた時から決してこっちを振り返ってはくれなかった冷淡な女の横顔、俺を産んだことさえ忘れたがっている薄情な顔。
 俺を産んだ事実を消して俺を育てた記憶を消して俺の存在を無かったことにしたがってる女の―
 「忘れたいんだよ忘れたがってるんだよ忘れさせてやれよ手紙なんか書いて思い出させるなよ!!」
 「絶対に嫌だ!!」
 鼓膜が割れそうな大声に目を見開く。
 「恵に忘れられたら僕はなんのためにここにいるんだ」 
 壁に背中を預けた鍵屋崎が、軋んだ声で呟く。
 問うように、縋るように。
 「なんのためにここにきたんだ?」
 「―どういうことだ?」
 お前がここにきたのは両親を刺殺したからだろう、それ以外の理由があんのかよ。
 荒い息を吐きながら追及しようとした俺を制したのはふいに顔を上げた鍵屋崎の眼鏡越しの眼差し。
 鍵屋崎は泣いてなかった。でも、それより数段ひどいツラをしていた。
 泣きたくても泣けない、泣き方を知らない。涙を流して哀しみを発散する方法も知らず、ためこむだけためこんだ哀しみに息もできなくなって足掻いてるやりきれない表情。
 「……殴れよ」
 俺を殴って鍵屋崎の気が晴れるならそれもいい。ろくにひとを殴ったことのないコイツの拳が頬を掠ったところで痛くも痒くもないだろう。拳に目をやって挑発した俺を見上げ、鍵屋崎が唸る。
 「思い上がるなよ」
 真っ直ぐな目。軽蔑と威圧。
 「貴様なんか殴る価値もない」
 俺を振り切って歩き出した鍵屋崎が途中で立ち止まり、上着の裾を摘む。なにをしてるのだろうとぼんやり見守っていた俺の前で上着の裾をはたく。上着の裾にこびりついた灰が廊下に落ちたのを気のない目で眺め、低温の声で鍵屋崎が呟く。 
 「解せないな」
 顔を上げる。鍵屋崎のメガネに俺の顔が映る。
 「手紙が届いた人間に嫉妬するのは理解できるが手紙を出そうとした僕に嫉妬する理由が理解できない」
 メガネのレンズに映りこんだ俺はあの時の鍵屋崎とおなじ顔―……ためこむだけためこんだ哀しみに息もできなくなって足掻いてる、やりきれない表情をしていた。
 これが現実か。
 これが動かしようのない現実か。
 「なんで拒絶されるのが怖くないんだよ」
 はなから歓迎されないとわかっていながら、なんで手紙を出せるんだよ?
 「怖くないわけがない」
 意外な答えが返された。
 こちらに背中を向けているせいで鍵屋崎の表情はわからないが、その背中はどうしようもなく孤独で。
 孤独で。
 「でも今は、忘れられるほうがずっと怖い」 
 その呟きが、ずっと耳に残った。
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