少年プリズン

まさみ

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百十話

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 なんでこんなことになっちまったんだ。
 裸電球を消した薄暗闇の房、虚空の一点に茫洋と視線を据え、ベッドで膝を抱えて考える。背中に感じるのはひんやりと拒絶的なコンクリート壁の感触。なにかによりかかってなければ支えを失った体が倒れたまま二度と起き上がれないような危惧を抱き、横手の壁に背をもたせた胎児の姿勢で丸まる。
 一体全体俺がなにしたってんだ。
 虚無の空白にむしばまれた頭の中に泡沫のように断片的に浮上するのは意味のない繰り言ばかり、正解を導きだすためではなく自分を精神的に追い詰めるための無益な自問自答。確かに俺はひとに誇れる物なんかなにも持っちゃいない、育ちも悪ければ口も悪いし品性も卑しい淫売の子だ。11でお袋のアパートをとびだしてからいろいろ無茶やってきた、追いはぎもかっぱらいも恐喝も小金を掴むためなら何だってやった。頭がよくないから口八丁の詐欺はできなかったけど一通りの軽犯罪には手を染めてきた自覚がある。クスリと強姦だけは絶対にやってないと自信を持っていえるが、そんなの自慢にもなりゃしない。
 俺がやった最大の悪事といえばやっぱり人を殺したことだろう。
 対立チームとの抗争中、不良品の手榴弾を投げ付けて三人を肉片に変えたことだろう。悪気はなかった、なんて言えるわけがない。現に俺は三人もの人間を殺して下半身不随にした連中の人生を滅茶苦茶にしたのだ。悪気はなかっただなんて今更言えないし今そんなこと言うのは卑怯だ。俺がやったことは絶対に許されることじゃない、俺が殺した連中にもちゃんと人生があって親身に身を案じてくれる恋人や家族がいたんだ。
 その一切合財を奪ったのは、俺だ。
 だから今更虫がいいことを言えるわけがない、俺が今こんな目に遭ってるのは当然の報いだ。自業自得の仕打ちだ。俺はくそったれの人殺しなのだから、世間から後ろ指さされる犯罪者なんだから、これからどんな最悪なことが起きたってそれは自業自得なのだ。
 なにを能天気に浮かれてたんだろう。
 東京プリズンにいるかぎり、今日よりマシな明日なんて訪れるわけないのに。
 俺は馬鹿だから勘違いしてしまったのだ、イエローワークの砂漠に井戸が沸いた瞬間希望を掴んだと錯覚して自分がおかれた立場も全部忘れて狂喜してしまったのだ。やった、やっと俺がしてきたことが認められた、やっと俺の人生に甲斐ができたって。

 馬鹿だ。
 どうしようもなく馬鹿だった。
 呑気に浮かれてた自分を絞め殺したい。

 ここは刑務所なのに、ひとを殺したり傷付けたりした人間がぶちこまれる監獄なのに、蜘蛛の糸すらふってこない地獄の底なのに。
 目に映る光景すべてに現実感が乏しい。
 圧迫感を与える低い天井も殺風景な房の壁も不衛生な床も一年と半年見慣れた光景なのに無機物ですら妙によそよそしい。二の腕を抱きしめてるのに殆ど感覚がない、自分の手が自分の手じゃないみたいに強張って麻痺しているせいだ。 
 自分を取り巻く世界のすべてからそっぽむかれた壮絶な孤独感に押し潰されそうだ。
 自分を取り巻く世界のすべてが敵としか思えない状況でこれから何を信じて生きていけばいいのだろう。
 それ以前に、生き残れるのだろうか。 
 ひとりの味方もいない極限状況下ではたしてこれからさき、明日から始まる地獄の日々をしぶとく生き延びることができるのだろうか。
 蝙蝠の鳴き声に似た耳障りな軋り音をあげて鉄扉が開き、扉の隙間から一条の光が射す。廊下に設置された蛍光灯の光が一条漏れ入ってきたのだ。暗闇に慣れた目を細め、ゆっくりと顔を上げる。開かれた鉄扉のむこう、廊下を背に立っていたのは看守がひとり。奇妙に表情が欠落した酷薄な風貌の中年男だ。のろのろと首を動かして看守の手元に視線を注ぐ。体の脇に手をたらした看守が何か、一枚の紙きれを握っている。握り締めている。
 ついに来た。
 この瞬間が来てしまった。
 諦観と悲哀が入り混じった感情の渦がたちどころに理性を飲み込み押し流す。喉がひきつり、喘鳴にしか聞こえない間抜けな呼吸音が漏れる。膝頭に食い込むほど爪を立て、ともすれば恐怖が頂点に達して蒸発寸前の自我を痛覚への刺激でつなぎとめる。大丈夫だ、まだ正気だ、まだ正気を保っていられる。痛覚が正常に働いてるあいだはまだ大丈夫、まだ冷静に状況を分析できる、許容できる。
 峠さえ越えればこれ以上最悪なことなんか起こらない。起こりっこない。
 いや、そんなのは自己欺瞞だ、むなしい言い訳だ。自分でも薄っぺらい嘘だとわかりきってる調子よすぎな思い込みだ。でもとりあえず正気を保たなければ、なんでもないふりで看守に対応してこの場を切り抜けなければ、これから起こるさらに最悪なことに対処できるはずがない。
 大きく深呼吸して呼吸を鎮め、ベッドから腰を上げる。瞬間膝が笑って転びそうになったが背格子を片手で掴んでごまかす。虚勢を張り、顔を上げる。鉄扉までの一歩一歩がはてしなく長く遠く感じられた。距離感と平衡感覚が狂って悪夢の再現めいた眩暈が押し寄せてくる。自分の足を自分の足じゃないようにぎこちなく繰り出しながら歩いてるうちにじきに終点に到着。
 二歩分距離をあけて相対した俺を威圧的に見下し、看守が口を開く。
 「囚人№11960ロンだな」
 「ああ」
 こんな状況だというのに発作的に笑い出したくなる。「はい」って素直に返事すりゃいいのに看守の反感を煽るのを承知でタメ口叩くなんて俺はとことんひねくれ者だ。予想通り、俺にタメ口きかれた看守は目尻をぴくりと痙攣させて不快感をあらわにしたがそんなの知ったこっちゃない。用件は手短に済ましてほしい。
 「お前にプレゼントだ」
 プレゼント。真顔で悪趣味な冗談言うじゃんか。
 不遜な態度で手を突き出して看守から紙を受け取る。何の変哲もない黒い紙、妙に薄っぺらくてぺらぺらした手応えの紙きれ。ちょっと手に力をこめりゃびりびりと破けちまうチンケな紙きれ一枚で俺の人生が左右されるなんて悪趣味な冗談にしかおもえない。
 ああ、本当に。これが悪趣味な冗談だったらどんなにいいだろう。
 放心状態で手中の紙きれを見つめる俺の前で背中を翻し看守が廊下に出る。別れの挨拶も何もない事務的な職務態度は嫌いじゃない。タジマのようにねちねち囚人をいたぶらないだけどんなにマシかは身に染みてる。目の前で鈍い響きを残して鉄扉が閉じ、ふたたび俺ひとりが薄暗がりの房に取り残される。
 無言で手中の紙きれを見下ろす。
 ごくりと唾を飲み込み、軽く糊付けされた角を指でめくる。ぴりぴり、と薄片が剥がれる音がしてあっけなく表面が分離してゆく。
 読まずに便器に流しちまいたい。
 鼻をかんで捨てちまいたい。
 悪魔の誘惑に心が傾くが意志を裏切るが如く手の動きは止まらない。ぴりぴり、と緩慢な動作で紙の表面を剥がし終えて秘されていた数字と直面する。

 『2班』

 たったそれだけの簡潔な文面。
 無表情な数字が呼吸するのも苦しくなるような異常な圧迫感を伴って視界を占める。

 ―「畜生ッ!!」―
 咆哮。
 端的な通知に秘められたおそろしい事実が思考野に染み渡った瞬間、俺は獣じみた咆哮をあげて手の中の紙をぐしゃぐしゃに丸めていた。大きく腕を薙ぎ払い、ぐしゃぐしゃに握り潰した紙屑を壁に投げ付ける。壁に跳ね返った紙屑が転々と床に転がったのを間髪いれず蹴り上げて遠方に飛ばす、それでもまだ気が済まずに紙屑に飛び付いて無数の断片に切り裂く。びりびりに千切った紙片を両手を突き上げて頭上にばらまき、一斉に降り注いだ紙片が床に落ちたそばから地団駄踏む。
 踏み付ける、踏み付ける、踏み付ける。
 蹂躙。
 足裏が痛い。
 床に膝を付き、両手をのばして床に散乱した紙片をかき集める。閉じた五指の中に握り締めた紙片を部屋の隅の便器の上にもってってばらまく。そばのペダルを勢いよく踏み込んで水を流す、何度も何度も何度も。白濁した水流に揉まれ流されて渦中に飲み込まれた紙片を見送ったところで気は済みそうにない、躍起になって便器を蹴りつける、スニーカーの靴底で蹴り付けたせいで便器には無数の足跡が生じた。
 『2班』
 『2班』
 『よりにもよって2班』
 だんだん笑えてきた。口角が笑みの形に歪み、無機物の便器めがけて狂ったように足を振り下ろしながらも腹の底から笑いが湧いてくる。便器を攻撃するのに飽き、追い詰められた獣の必死さ、狂気にぎらついた目で周囲を見渡す。視界をかすめたのは俺が使用してるベッド。床を蹴ってベッドに飛び付きマットレスを持ち上げれば昨夜押し込んだ麻雀牌がバラバラと膝の上に落ちてきた。
 膝の上に落ちた麻雀牌を掴み、奇声を発して壁に投げ付ける。
 風切る直線を描いて壁に衝突した麻雀牌がその衝撃で天井高く弾き飛ばされる。何度も何度も腕を振り上げては振り下ろし壁や床に麻雀牌を叩き付けて満腔の憎悪をこめて靴裏で踏み躙る、プラスチックの牌が軋む異音と足裏で牌が砕ける感触に昨夜レイジと交わした会話が蘇る。
 『がんばったな』
 ああ、がんばったよ。
 だれよりもがんばったよ。むくわれなくてもがんばったよ。
 いつかむくわれる日がくるんじゃないかってがんばったよ、この地獄で。
 崩れ落ちるように床に尻餅つき、泥まみれの牌を両手にかき集めて握り締める。拳に握り締めた牌を顎下にあてがい、顔を伏せる。
 『箱の底にあるのは希望を偽装した絶望じゃないか?』   
 鍵屋崎の言ってたことは正しかった。
 俺は紛い物の希望に目が眩んで自分がおかれた立場を忘れてたのだ。めでたすぎて笑えてくる、笑える、笑えー
 「……笑えねえよ」
 指が軋むほど握り締めた牌を全力で床に叩き付け、一面にばらまく。
 癇癪起こしたガキが手当たり次第に玩具を散らかしたような目も覆わんばかりの惨状のど真ん中に蹲りめちゃくちゃに髪を掻き毟る。 
 
 東京プリズンには四つの部署がある。
 都心から運搬されてきた危険物を加熱処理するレッドワーク、浄水管理や廃水ろ過行程にたずさわるブルーワーク、不毛の砂漠での開墾作業を担当するイエローワーク。
 最後がブラックワーク。唾棄すべき汚れ仕事を一手に担う東京プリズンの暗部。  
 ブラックワークはさらに「上」「中」「下」の三つにランク分けされる。腕自慢の囚人同士を戦わせ、その試合風景を観戦させることで流血沙汰に飢えた囚人どもの欲求不満を解消するのが「上」の娯楽班で正式名称は「ブラックワーク 1班」だ。最下層の3班は別名「処理班」と呼ばれて忌み嫌われてる。何を処理するかって?決まってる、死体だ。看守主導による体罰や囚人が暴走した末のリンチで出た死人は全部ブラックワークの囚人が片付けてくれる。
 レッドワーク、ブルーワーク、イエローワークに配属された囚人の名前は視聴覚ホールに張り出されるのが決まりだがブラックワークは事情が異なる。仕事内容がアレだから、プライバシー保護の建前だか何だか知らないが秘密裏に個人に通知する形をとってる。
 それが例の紙だ。
 ブラックワークの汚れ仕事に抜擢されるのは東京プリズンにおけるごく一部の囚人で、それこそ百分の一だか二百分の一だかという稀少な確率なのだ。俺はまさか自分がブラックワークに落ちるなんて、コツコツ真面目に働いてきた俺が不条理にもブラックワークに落とされるなんてこれっぽっちも考えちゃなかったのだ。
 ブラックワークは完全に勘定外だった。つい今しがた視聴覚ホールに足を運んで自分の名前がどこにも見当たらないスクリーンを目の当たりにするまでは。
 
 そして。
 俺の配属が決定した「ブラックワーク 2班」の、下卑た揶揄と嘲笑の的となる俗称は。
 『売春班』だ。
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