少年プリズン

まさみ

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百十一話

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 昨夜は一睡もできなかった。
 薄い毛布にくるまってまんじりともせず夜を明かした。体には澱のように疲労が沈殿して精神はぐったり消耗しているのに頭の一部は常に冴えていて意識は鮮明に覚醒していた。何度寝返りを打っても眠りに落ちることはできなかった、一晩中暗い天井と壁とを交互に見つめて波が岸壁を削るように緩慢に、しかし確実に神経をすり減らしてゆく時間と葛藤した。
 起床したのは夜明け前だ。
 寝不足の目が赤く充血してるのが鏡に映して初めて分かった。酷い顔色だった、昨日の爽やかさなんか一片もない。腫れぼったい瞼をしばたたいて蛇口を捻り、顔を洗う。俺の周りだけ空気の密度が倍に膨張したように体を動かすのが億劫で仕方なかった、蛇口を捻りまた締める、たったそれだけの動作が想像を絶する苦痛を強いた。ベッドから這い出し、床に転がしていたスニーカーを踵で履き潰して洗面台に行くまでの道程が途方もなく長く感じられた。自分のやることなすことすべてに現実感が伴わない、悪い夢を見ているような、なにもかもが理不尽な夢の続きのような気がして。
 都合のいい思い込みだ。
 これが夢だったらどんなにいいだろう、と何度も思った。実際思い込もうとした、これは悪い夢なんじゃないかって、朝起きれば昨日とおなじ明日がくるんじゃないかと淡い期待を胸に抱いて。明日起きれば俺は昨日とおなじように顔を洗って朝一番にレイジと口喧嘩して食堂に行ってサムライや鍵屋崎とおなじテーブルに着いてまずい飯を食べてバスに乗ってるんじゃないか、そして行く先はかんかん照りの砂漠で今日もまた穴掘りの拷問が待ってるんじゃ……埒のない、堂堂巡りの現実逃避だ。それが証拠に俺の枕元には麻雀牌が転がってる、足裏の自重に耐えかねて脆くも割れ砕けた麻雀牌が。怒り狂った俺が腹底から突き上げてきた衝動にかられるがまま床一面にぶちまけて地団駄踏むように足を振り下ろした動かし難い証拠。
 昨日、ブラックワーク配属の通知を受け取ってからのことは断片的にしか覚えてない。すべてがあやふやでおぼろげで、どこまでが現実で夢なのか俺にもわからない。図書室から帰ってきたレイジに何か心配そうに声をかけられた気がするが覚えてない、自分がなんて返したのか、もしくは心ここにあらずで無視して返事しなかったのかさえ記憶にない。とにかく、昨日の朝飯以降レイジと会話らしい会話を交わしてないのは間違いない。昨日は月一回の映画鑑賞会と三ヶ月に一度の手紙配布日以外はごく稀な強制労働免除日だったのに俺はブラックワーク配属通知を受け取ってから自分がなにを過ごしたかてんで覚えてないのだ、たぶん廃人のようにベッドに寝転がって一昼夜を過ごしたんだと思うが気付いたら日が暮れて夜になってまた朝が来ていた。 
 朝なんか永遠に来なけりゃいいのに、くそ。
 内心毒づきながらベッドに腰掛ける。対岸のベッドから聞こえてくる安らかな寝息がささくれだった神経を苛立たせる。レイジは昨夜もぐっすり眠れたらしい、どうせまた夢の中じゃ世界中の美女をはべらしてハチミツぬりたくった足の指でもなめさせてるんだろう。八つ当たりでレイジが横たわってるベッドの脚を蹴って安眠妨害したくなったが大人げないと自重し、ベッドから浮かせた腰をまた戻す。大人しくベッドに戻り、落ち着きなく視線をさまよわせる。ちゃんと施錠された自分の房にいてこんな焦燥に苛まれたことは今だかつてない。
 今日から始まるのは地獄を上回る地獄の日々、最悪を極めた最悪の日々だ。
 鍵穴に鍵がさしこまれる金属音に過敏に反応して顔を上げる。
 外側から開錠された鉄扉が開き、廊下に立っていた看守と目が合う。昨日俺に通知を渡しに来た看守じゃない、もっと若い別の看守だ。看守になりたてといった初々しい風貌のそいつは片手に鍵束をさげたまま、ひどく緊張した面持ちで房内をぐるりと見渡した。その視線が四囲を一巡して俺に戻ってくるまでベッドに座ったまま辛抱強く待つ。 
 「囚人№11960ロンだな」
 昨日とおなじ台詞に無愛想に頷く。返事する気力もなかった。戸口に立った看守は一瞬同情的なまなざしで俺を見た、自分がこれから俺をどこに連れてくか、俺にどんな運命が待ち受けてるか知ってるのだろう。が、すぐに職業的な物腰に戻って若々しい顔を厳しく引き締め「来い」と命じる。
 命じられるがままのろのろと腰を上げ、看守について房を出る。鉄扉を閉じようとして、最後に対岸のベッドを見る。レイジはよく眠っていた、俺が出て行く気配にも気付いてないらしく大の字に毛布をはだけている。 
 気持良さそうに眠ってるレイジにやりきれなさと腹立ちが募り、わざと乱暴に扉を閉めた。扉の震動が壁を伝わってレイジの耳小骨を震わせてせめて俺が出て行くことに気付けばいいと、気付いてほしいと祈りながら。
 廊下の半ばで止まって無言で待ってる看守のもとに急ぐ。俺の到着を確認した看守が厳粛に頷いて歩き出す。これから自分がどこに案内されるかは薄々勘付いていたがだからといって足が軽くわけもない、未練たっぷり、足をひきずるように悄然と歩いているうちに周囲の景色が変わる。中央棟へと続く渡り廊下を経て俺が案内されたのは普段殆ど世話になることがない医務室。日中は満員御礼で大繁盛してる医務室も早朝の時間帯は閑散としている、かとおもいきや白い扉を開ければ室内には他に十数名の囚人がいた。
 いずれも俯きがちに壁際に並んだ囚人は俺と似たりよったりの悲壮な顔色をしていたが、中のひとりに吸い寄せられるように目がとまる。列の右端、壁に背中をもたせて所在なげに立ち竦んでいるのはよく見知った顔。
 鍵屋崎。
 「?」
 視線を感じて顔を上げた鍵屋崎と目が合う。眼鏡越しの目に訝しげな色を湛えた鍵屋崎が首を傾げる。
 「奇遇だな。きみもここに連れて来られたのか」
 コイツ、自分がおかれた状況わかってんのか?「奇遇」もなにも呑気すぎるだろう、ちょっと。無造作に鍵屋崎に歩み寄り、感情の欠落した口調で言う。
 「お前も2班だったのか」
 「昨日渡された紙にはそうしるされていたが……一体なんのことだ?意味不明だ」 
 「サムライに聞かなかったのかよ」
 「修行に熱中していて聞ける雰囲気じゃなかった。僕も他に用があったから明日聞けばいいと思って……そうしたらこれだ。起床ベルが鳴る前に看守に起こされて理にかなう説明もなく医務室に連れてこられた。なんなんだ一体、これからなにが始まるんだ?」
 「貴重な睡眠時間を阻害されたのが腹立たしくてならない」といわんばかりの憤然たる口調で鍵屋崎が訴える。いくら俺が親切でも鍵屋崎にいちから説明してやる気力はない、知りたくなくてもおいおいわかってくるだろうし俺の口から話すまでもないだろう。
 通夜のような陰鬱な面持ちで壁際に並んだ列に加わって待つこと数分、がちゃりと扉が開いて入室したのは初老の医師と俺の天敵。
 タジマ。 
 タジマの姿を一目見た途端囚人に戦慄が走る。イエローワーク以外の囚人にもタジマの悪名は轟いている、あの手この手を使って囚人をなぶり者にするのが趣味の陰湿かつ陰険な性格で虐待性愛者の変態。一年半タジマに目を付けられてあの手この手でなぶられてた俺が自信をもって断言するんだから間違いない。
 「全員揃ってるな」
 俺たち囚人を威圧的に睥睨したタジマが黄ばんだ歯を剥いて笑い、傍らの医師に目配せ。タジマの意を汲んだ医師が謹厳に頷いて椅子に腰掛け、聴診器をかける。俺たちの正面に仁王立ちしたタジマが傲然と顎を引いて重々しく告げる。
 「もうわかってると思うが、お前らが今朝ここに連れてこられたのはブラックワーク2班就労前の健康診断と身体検査の為だ」
 『ブラックワーク』の名に小心な囚人が震え上がる。青ざめた唇を噛み締めて俯いた囚人を陰険にぎらつく目で順番にねめつけ、タジマが演説を続ける。
 「まだわかってねえオツムの鈍い新人のために手早く説明するとブラックワーク2班の仕事は売春、おっといけねえ、囚人の性欲処理だな。知ってのとおりここは刑務所だ、見渡す限り野郎しかいねえむさ苦しい環境だ。しかも砂漠のど真ん中で手っ取り早くヌくための風俗店もなけりゃ娼婦もいねえ、タマが重くなったら相方の留守見計らってこっそりヌくしかねえ侘しい日々だ。しかしお前らヤることしか考えてねえ十代のエロガキどもが役不足の右手で満足できるわきゃねえ、まあ左利きの奴もいるだろうがな」
 なにがおかしいのが、自分の冗談にウケたタジマが下卑た哄笑をあげる。頬をひきつらせて追従笑いする囚人もいりゃタジマの哄笑に怯んであとじさった囚人もいたが、俺と鍵屋崎はどちらでもない。ここに来てようやく自分がおかれたのっぴきならない状況が飲み込めてきたのか、鍵屋崎は無言で立ち尽くしていた。傍らの俺は親の仇のような目でタジマを睨みつけるしかない自分の無力を噛み締める。
 「そこで出来たのがブラックワーク2班、通称売春班。女がいなけりゃ男でまかなうしかねえってコトで出来た東京プリズンの性欲処理係だ。光栄に思えよ、2班に選ばれるのは同性の目から見てもムラムラくるような見目がイイ奴ばっかだ。たとえばそこの、」
 いやらしい笑みを満面に湛えて鍵屋崎の方へと顎をふるタジマ。
 「そこのメガネは元イエローワーク六班の親殺しだ。とてもてめえを産み育てた両親をナイフでぐさっと殺っちまうような外道には見えねえ品のいいツラしてるだろ。想像してみろよ?あの生っ白くて細っこい体が男に組み敷かれてお高くとまった顔が火照って喘ぐさまを。ああ、でも駄目か、おまえ不感症だもんな。相手ばっか気持ちよくても自分が気持ちよくないんじゃ悲惨だよなあ」
 警棒で平手を叩きながら呵呵と高笑いしたタジマに眼鏡越しの視線の硬度が増す。憎悪よりなお冷たく凍えた軽蔑の眼差しで射抜かれてもタジマは動じず、鍵屋崎の隣の俺へと視線を転じる。
 「隣のガキはチームの抗争で三人殺ってるらしいが、反抗的な態度に似合わずやんちゃでカワイイツラしてるだろ。育ちが悪いせいか目つきは悪いけどな、あの目を潤ませてよがってる姿はなかなかそそるぜ。クソ生意気なガキをいたぶっていたぶって泣かせてみてえって股間熱くしてる客に人気でそうだよな、え?」
 カッとした。
 「お前によがらされたことなんかねえよ、あることないことほざいてんじゃねえ!」
 あんまりな言い草に我を忘れてタジマに掴みかかろうとした俺を鍵屋崎が小声で制す。
 「下劣な人間に関わるとそれでなくても卑しい品性がさらに卑しくなるぞ」
 フォローになってねえし後半いらねえし。
 鍵屋崎に制止され、多大な努力を強いて拳をおさめた俺に溜飲をさげたタジマが手中の警棒を振り回しながら指示をとばす。
 「じゃ、順次健康診断開始だ!手間かけさせずにちゃっちゃっとやれよ」
 鼻歌でも歌いだしかねないご機嫌な様子でタジマがひっこみ、重苦しい沈黙が囚人の間に落ちる。
 「……あ、」
 歯の根ががちがち震える音とかすれた声に顔を上げれば、鍵屋崎からふたり挟んだ場所のガキが呆然と虚空を見据えていた。
 ―「ああああああああああああああああっ、くそおおおおっ!!」―
 突如頭を抱え込んで床にうずくまったガキに周囲の囚人が動転する。頭皮に爪を立てて頭をめちゃくちゃに掻き毟ったガキが狂ったように絶叫する。
 「なんでだよなんで俺がブラックワークなんだよ、これまで真面目に働いてきたのに!なにが悪かったんだよ畜生っ、教えてくれよ!」
 床に屈した膝を拳でめちゃくちゃにぶちながら真っ赤に充血した目で泣き叫ぶ囚人の隣、放心状態で突っ立ってたガキにまで恐慌が伝染したんだろう、鼻歌まじりに医務室の奥にひっこもうとしていたタジマの背になりふりかまわず追いすがる。
 「おいまてよ聞いてくれよ!うそだよな、俺が売春班なんて冗談だよな?だって俺娑婆に彼女いるんだぜ、凛々って言ってさ、すっごいスタイルがいい美人で今でもけなげに俺の帰り待ってくれてるんだぜ?なのになんで男なんかに抱かれなきゃいけねえんだよこんなのってねえよ、凛々にあわす顔ねえよ!!」
 タジマの肩を掴んで振り向かせようとした囚人の横っ面が唸りをあげてとんできた警棒に張り飛ばされる。もんどり打って転倒した数人が鼻血で顔面を朱に染めて悲痛な嗚咽をもらすのをひややかに見下すタジマ。一蓮托生、同じ境遇の囚人がタジマに張り飛ばされるのを固唾を呑んで凝視していたガキが精神崩壊を起こし痴呆じみた表情で糸が切れたようにその場に跪く。
 「おかあさん、おかあさん……」
 「お袋、もうやだよおこんなトコ、娑婆でてえよ……」
 「頼むよタジマさん凛々に会わせてくれよ、売春班抜けられねえなら仕事始めるまえに一回、一回でいいから凛々抱かせてくれよ!!そしたらあきらめるから、すっぱり未練捨てるから……」
 膝を抱えて女々しくすすり泣くガキ、頭を抱えて悲嘆に暮れるガキ、「お袋お袋」とうわ言を呟きながら視線を虚空にさまよわせるガキ、何度張り飛ばされても懲りずにタジマにつっかかってゆくガキとそいつを羽交い絞めにして後ろから抱きかかえるガキ、耳をつんざく悲鳴と完全に理性を失った怒号が交錯する収拾つかない惨状。
 「娑婆にガキいるのに出所後どのツラさげて会いにいきゃいいんだよ!?」
 「『おまえの親父はムショで男にヤられました』って貴重な体験談話してやれよ、絵本よかよっぽど刺激的だぜ」
 自分の背中にひしとしがみついた囚人を蹴倒してタジマが笑う、医務室に響き渡るどす黒い哄笑に眩暈をおぼえて壁によりかかる。
 地獄絵図だ。
 憤怒にかられて獰猛に吠え猛る囚人と絶望のどん底に突き落とされて正気を失った囚人、恐怖の絶頂で失禁した囚人もいる。阿鼻叫喚の惨状を呈した医務室でただひとり平静を保ってるかに見えた鍵屋崎にしても顔色は白く強張り、ただでさえ色白の肌が静脈が透けるほどに青ざめて見えた。 
 娑婆に残してきたという子供の名前を連呼しながら床に突っ伏した囚人に鼻を鳴らし、軽快な大股でタジマが去ってゆく。医務室の奥へとひっこんだタジマを見送る囚人の目には奔騰する溶岩流の如く激烈な殺意が迸っていた。
 「ところで」
 咳払いに振り向く。
 椅子に腰掛けてこの惨状を観察していた初老の医師が、俯きがちの視線でおそるおそる申し出る。
 「健康診断を始めていいかね?」


                                 +

 

 壁際に並んだ囚人の名が一人ずつ呼ばれる。
 健康診断はとどこおりなく行われた。白い衝立でさえぎられた向こうに吸い込まれた囚人は平均五分、どんなに長くても八分程度で程度で出てくる。でも健康診断を無事クリアして浮かれてる奴なんか一人もいやしねえ、どいつもこいつもこの世の終わりのような悲惨な顔をしている。亡者めいた足取りで不安定に蛇行しながら身体検査が行われる医務室の奥へと歩いてく囚人を見送り、呟く。
 「くされ縁だよな」
 苦渋にみちた口調に鍵屋崎が顔を向ける。
 「イエローワークでも顔見知りならブラックワークも同じ班で、ほんとくされ縁だ」
 唾を吐くように辛辣に言い捨てた俺を何か言いたげに見つめていた鍵屋崎がスッと眼鏡の奥の目を細める。
 「顔色が悪い。昨夜の睡眠時間は?」
 「0分。お前は?」
 「昨日は遅くまで読書してたから正直寝不足だ」
 あくびを噛み殺したような口調で鍵屋崎が生返事する。何の本を読んでたかは聞かなかった、どうせ題名を聞いてもさっぱりわからない小難しい本だろう。列に並んだ囚人がいずれも顔を伏せて竦み上がっているのに鍵屋崎は相変わらず泰然自若としてる。冷静沈着な態度とひとを小馬鹿にした横顔からは今しがた告げられた自分の運命をどう思っているか正確に汲み取れない。
 「冷静だな」
 「そうか?」
 無関心な口ぶり。一睡もできなかった自分とよく眠れなかったと口では言いながら憎らしいほど落ち着き払った鍵屋崎を比較し、自己嫌悪を裏返した苛立ちが募る。
 「便利だよな、不感症は」
 だからつい、皮肉を言ってしまったのだ。
 腕組みして壁にもたれた姿勢で漫然と衝立をながめていた鍵屋崎がゆるやかに振り向く。わずかに怪訝そうに目を細めた鍵屋崎を挑発的に睨み、意識的に口角を吊り上げる。嘲笑。
 「男に無理矢理ヤられようが何されようがお前にゃ関係ないもんな、快も不快もなにも感じないんだもんな。女抱いてもなにも感じないようなつまんねえ男だもんな、いまさら強姦されたってたいしたことないだろ」
 今まで積もり積もった鍵屋崎に対する反感が辛辣きわまりない台詞となって口から迸り出た。半年前、鍵屋崎がイエローワークに配属されてからこっちずっといろいろ助けてやってるのに感謝されもしない、どころか迷惑がられてうっとうしがられてる現状に自分でもはっきりそれと自覚しないうちに不満が蓄積されてたのだろう。
 『こんな汚い毛布、どうせ持ってくるならきれいなやつを』
 耳にこだまするのはつんけんしたお袋の台詞。相手のためによかれと思ってしたことがさっぱり報われない時の胸が締め付けられるようなやるせなさ。お袋と鍵屋崎は別人なのに、俺は鍵屋崎の中に憎いお袋の幻影を見てたのかもしれない。
 鍵屋崎は黙って俺を見つめていた。声を荒げて反論もせず、打てば響くような毒舌で応酬するでもなく、普段の奴からは想像もできないような複雑な表情を一瞬だけ覗かせて。
 「……そうだな」
 それだけだった。 
 あっさり肯定されて肩透かしを食らった俺は次の瞬間猛烈な自己嫌悪に苛まれる。鍵屋崎がいつになくしおらしかったからうしろめたくなるなんて、卑怯だ。
 もっと卑怯なのは、コイツの傷ついた顔で少しだけ救われたことだ。
 最低だ俺。自分に反吐が出る。
 「囚人№11960ロン、来なさい」
 おいぼれ山羊みたいにのどかな声に呼ばれてハッとする。衝立の向こうから名指しされて自分の順番が回ってきたことを知る。正直鍵屋崎の隣を離れられて救われた心地がした、鍵屋崎の視線を背に感じながら衝立の内側に消える。
 健康診断自体はごく短時間で終わった。
 俺を担当した医者は度の強い老眼鏡をかけた耄碌ジジィで聴診器を持つ手が震えていたが、カルテに何かを書き込みながら「健康そのものだ」と力強く請け負ってくれた。鍵屋崎の言う通り衛生面では全く信用おけない東京プリズンの水道水を呑んでも腹を壊さないのだからそりゃ健康体だろう、わざわざ診察するまでもない。ちなみに健康診断というのは建前で、本当の目的は2班に採用された囚人が性病にかかってるかどうかを調べるための検査だ。もちろん俺は白、性病を伝染されるようなことはだれとも何もやってないんだから当たり前だ。
 もっとも、これからさきの保証はないが。
 ため息をつきながら上着の袖に腕を通してると手荒く衝立のカーテンが開けられた。
 振り向く。背後のカーテンから赤ら顔を突き出したタジマが上半身裸の俺を見て舌なめずりして笑っている。
 下衆野郎と悪態をつき、さっさと服を着ようと裾を掴んでおろしかけた手が鷲掴みにされる。
 「なにすんだよ!?」
 「なにって健康診断の次は身体検査だろ?看守に断りなく服着るんじゃねえよ」
 やにくさい歯を剥いてにたつくタジマに壮絶に嫌な予感が募る。不吉な胸騒ぎをおぼえて医者を振り返ればわざとらしく咳払いしてそっぽをむいてくれた。見て見ぬふりの保身主義ってわけか。片腕を掴まれ椅子から腰を浮かせた姿勢で振り仰げば、タジマの視線はみみずが這うように首筋から肩を経て二の腕へ、そして胸板へと滑っていた。
 察するに、身体検査とやらは衝立で仕切られた第三者の目の届かない密室で行われるのだろう。タジマとふたりきりで。
 ぞっとしない話だ。
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