少年プリズン

まさみ

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二百五話

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 ホセは鬼コーチだ。
 俺に課された特訓メニューは血も滲む過酷なもんで初日こそ中庭五十周ですんだが翌日からはこれに腹筋百回、腕立て伏せ百回、背筋百回、縄跳び連続百回が加算された。
 普通に死ねる内容だ。
 鞭でぶたれて体中に包帯巻いてた俺に中庭走らせるのも酷い話だが、若くて治りが早いせいか今日には包帯も取れた。包帯取っ払って練習場の中庭にやってくれば、ホセに「ああ、よかった。怪我人虐待するのは良心が痛みますし、初日はただ走るだけの退屈なメニューにしたんですが今日は体調万全ですね」とにっこり微笑まれてうそ寒くなった。レイジもとんでもないコーチを紹介してくれたもんだ。
 ホセの監視もとい監督のもと中庭の日陰で腹筋、腕立て伏せ、背筋のメニューをこなす。「いーち、にーい、さーん」とホセが間延びしたカウントをとるが今にも死にそうな俺には数をかぞえる余裕もない。十分に死ねる練習量で猛特訓したところで凱との試合に間に合うかわからない。次の試合までに腹筋六つに割るのは不可能っぽいし、昨日と今日で目に見える変化といや屋外で運動して日に焼けたくらいだ。
 焦りと不満が顔にでたのか、腹筋を途中で止めて物思いに沈んだ俺にホセが説教する。
 「喧嘩もボクシングも大事なのは基礎です。基礎を固めるには反復練習あるのみです。今は辛いでしょうが、基礎体力を高めるためには必要な訓練と苦渋を飲んで頑張ってくださいねロンくん」
 「強くなるまえに死んだらどうする。過労死か日射病で」
 「日射病予防のために日陰に入ってるじゃありませんか。中庭走るときは日の下にでなきゃいけませんがそれだって吾輩のペースでノルマを果たせば三十分もかかりません。過労死についてはこれでも十分手加減してるつもりなので、それでもぽっくり逝かれた場合はまあ運が悪かったんだと諦めて下さい」
 「手加減してんのかよ……」
 本気になったホセがおそろしい。頭の後ろで手を組み、中途半端に上体を起こした姿勢でため息をつけば、そばに付き従ったホセがどっから調達してきたんだか首に下げたホイッスルをくわえる。
 「休憩終了。現在腹筋三十九回目、最初からやり直しです」
 ……鬼コーチめ。ホセはサドじゃあるまいか、俺をいじめて楽しんでるんじゃなかろうか。鬼コーチのしごきに耐えに耐え、何とか腹筋腕立て伏せ背筋のノルマを達成した頃には俺の足元はふらついて情けない話体力も底を尽きかけていた。腹筋が痛い。背中も痛い、ずっとコンクリートに寝てたからだ。俺がホセに延々腹筋やら腕立て伏せやらの反復練習をやらされてたのは中庭の隅、見まわせば渡り廊下でぐるりと繋がったひとつの巨大建造物である囚人収監棟の日陰だ。太陽が容赦なく照り付けるコンクリートの上で長時間運動するなんざ命を縮める行為でしかない。俺はまだもうちょっと生きたい、いくら強くなりたいとはいえ自分から命を投げ出す行為は辞退したい。じゃあなんで凱に試合を挑んだんだと矛盾が発生するが、当時の記憶がすっぽり抜け落ちてるから酒に酔って気がでかくなってたんだろうと想像するっきゃない。
 レイジを庇ったわけじゃない。絶対に。
 俺が庇わなくてもレイジは十分に強い、俺が心配する必要なんてどこにもない。レイジならきっと笑顔で50組100人をやり遂げてしまうだろう。涼しく笑いながら、ポケットから手も抜かずに。
 「おつかれさまです。次はコレ」
 いつでもどんな時でも余裕綽々なレイジを想像し、ひとり勝手に腹を立てた俺に手渡されたのは縄跳び。
 そうだ、まだ縄跳び百回が残ってたっけと思い出してうんざりする。俺はたぶん物凄くいやな顔をしたんだろう、タオルを首に巻いたホセが苦笑する。
 「いやな顔しない。明日のためのその五です」
 「中庭五十周がその一、腹筋がその二、腕立て伏せがその三、背筋がその四?」
 「正解」
 ……馬鹿らしくなってきた、なにが正解だ。ホセときたら白い歯を光らせて親指立ててるし、こんなコーチについてて本当に大丈夫なのかよ。不平不満を飲み下し、縄跳びを両手に持ち気乗りせずに練習再開。ただ跳ぶだけだと舐めちゃいけない、一度もひっかからずに跳ぶのは意外とむずかしくて俺は何度も足をひっかけちゃあホセの号令で最初からやり直しの悪循環。縄跳び100回のはずが、失敗が嵩みに嵩んでもう200回には達してるんじゃないかと疑問がふくらむ。
 「つか、レイジはどこ行ったんだよ!?俺をおまえに預けて自分はのんきに昼寝かよっ」
 縄跳びに足を取られそうになりつつレイジの不在に怒れば、懲りずに失敗をくりかえす俺のそば、暇を持て余して地面に体育座りしたホセが振りかえる。
 「レイジくんならさっきメガネくんと一緒にいました。ふたり仲良くバスケットボールをしていましたよ。青春ですねえ、若いっていいなあ」
 「鍵屋崎と?」
 メガネといえば鍵屋崎だ。おもわず手を止め、ホセの顔を見つめる。日中は図書室に行ってる鍵屋崎が屋外でバスケットボールなんてどんな心境の変化だ?あらかた本を読み尽くしてさすがにあいつも退屈したのだろうか。縄跳びを手にぶらさげた俺に微笑みかけ、ホセが命令。
 「吾輩に無断で手を休めたので最初からやり直し」
 「……おいこのラテン黒縁メガネ、調子にのるなよ。似合ってんだか似合ってないんだか微妙な七三分けしやがって」
 「失敬な。気に入ってるんですよこの髪型、ワイフも『あなたの七三分けとってもセクシーだわ、おでこがキュートよ』と絶賛してくれましたし。吾輩の七三分けを馬鹿にするということは最愛のワイフを侮辱されたも同然です、覚悟はよろしいですねロンくん」
 威圧感をこめた口調とにわかに鋭くなった目つきに腰が引ける。言葉遣いこそ温和で丁寧だが、口元だけに笑みを浮かべた表情からはどす黒いオーラが放たれている。だからレイジの同類は苦手なんだ。カッとして地面に叩き付けた縄跳びを不承不承拾い上げ、やけくそで叫ぶ。
 「~~わかったよ跳ぶよ跳びゃいいんだろ鬼コーチの言うとおりにさ!やってらんねーよ恐妻家」
 「愛妻家とおっしゃってください」
 しれっとホセが訂正し、俺はむきになって縄跳びをする。足裏すれすれを一瞬だけ地面を掠めた縄跳びが通りぬける。たかが縄跳び、されど縄跳びでやってみるとこれが結構しんどい。一回もつまずかないようになるまでには時間がかかる、連続百回のノルマを克服するには月並みだが習うより慣れろ。コツを掴むのが大変だ。しかし、基礎の繰り返しばかりで文句を言いたくなるのが人情。
 「……なあ、こんなちんたらやってて次の試合に間に合うのかよ。一週間切ってもうあんまり時間ないんだぜ。腹筋とか腕立て伏せとか地味な練習は飽き飽きだ、もっとぱぱっと強くなる方法ないの」
 「ラクして強くなろうだなんて都合よすぎです。ロンくんは浮世の常識もわからないアホの子ですか」
 「そりゃそうだけど早く実戦入ってくんなきゃ凱にはかなわ……ちょっと待て、だれがアホの子だ?」
 お偉いコーチ様は口は出すが手は出さない方針らしく、「よそ見してると危ないですよ」とお節介に注意する他はただ笑ってるだけだ。野暮ったい黒縁メガネの奥には柔和に謎めく目。特徴的な七三分けと黒縁メガネを除けばどこにでもいる平凡な容姿の男なのに、レイジはホセを「素手で人を殴り殺せるバーサーカー」だと言った。そして東のトップ自らホセの実力を見こんで俺のコーチに抜擢したということは、南のトップは俺が思ってた以上の実力の持ち主でなおかつ危険な人物にちがいない。
 「………」
 とてもじゃないが今目の前にいるこの男が、そんな凶暴かつ凶悪な人物とは思えない。噂の人物像にホセ本人から受ける印象がまるで当てはまらないのだ。東京プリズンの一角をなす南のトップでありながら俺がホセに軽口叩けるのはまったくこれっぽっちも恐怖を感じないからだ。それもそのはず、トイレと間違えて股間押さえてボイラー室に飛び込んだドジの正体が割れたところで初対面時の情けない印象は拭いがたい。
 だが、噂が真実だとしたら、ホセは外で五人の人間を殴り殺したことになる。
 何故五人もの人間を殴り殺す暴挙に及んだのか動機は不明だが、レイジとおなじで一度怒らせたら手がつけられないヤバイ人間なのか?
 ホセの顔を見つめ、惰性で縄跳びする俺のもとへ足音が近付く。
 「おもろいことしとるな、自分ら」
 「やあヨンイルくん。珍しいですね、図書室のヌシが中庭に出張だなんて」
 今の時間に出歩いてるいいご身分の囚人は東西南北のトップぐらいのものだ。他の囚人は皆強制労働に出払ってる。片手を挙げて挨拶したホセの横に足を投げ出したのはでかいゴーグルをかけたガキ。タワシみたいな短髪にゴーグルの組み合わせが胡散臭いガキの名前はヨンイル、レイジと仲が良い西のトップだ。
 「渡り廊下の窓からお前らの練習風景見えたんでふらっとな。たまには外で読書もええやろ、気分転換に」
 「結局漫画かよ。そればっかだな」
 「なんてこと言うんや。漫画は人類最大の娯楽財産で手塚治虫は神やで、神様冒涜したら罰当たるがなこの罰当たりが」
 ヨンイルのまわりにはわざわざ図書室から持ってきた漫画が何冊か散らばってる。
 結論。東西南北のトップは変わり者ぞろいでまともな会話が成立しない。
 ヨンイルに冷やかされ、ホセに応援され、何とか過労死せず無事縄跳び百回のノルマを達成した頃には体から湯気がたっていた。縄跳びを投げ出し、地面に尻餅ついてそのまま大の字に寝転ぶ。心臓が爆発しそうで、汗の染みができた囚人服の胸を喘がせ呼吸を整える。はげしい運動で体が火照り、全身にびっしょりと汗をかいていた。疲労困憊で起き上がる余力もない俺をよそに、見物席のヨンイルとホセは和気藹々としゃべってる。    「せやけどホセ、レイジの頼み聞いたるなんてどういう風の吹き回しや。俺たち一応敵同士やろ、ブラックワークじゃ上位競う関係やし。敵に塩おくる真似ちゃうんか」
 「べつに吾輩とロンくんがぶつかるわけじゃないですし」
 タオルで顔の汗を拭きながらホセが首を竦める。どうでもいいが、ホセがやったことといや体育座りで俺を応援するだけで大して汗もかいちゃないだろ。 
 「吾輩も最近暇でしたし、レイジくんにはワイフとの離婚危機を手紙で取り持っていただいた恩もありますし。吾輩ホセ、受けた恩のぶんは出来る限り友人にお力添えしたく思います。週末の試合だけじゃ体がなまってしょうがないですし、ロンくんを鍛えることでいい運動になってちょうどいいですよ」
 「いい運動かよこれが、地獄の特訓メニューだろ」
 突然、視界が暗くなる。
 「まだまだ序の口です」
 顔からタオルを取って上体を起こせば、ホセが黒縁メガネを光らせて不吉な予言をした。ホセから受け取ったタオルで汗を拭きながらうんざりすれば、例の台詞が唐突に脳裏によみがえる。
 『笑うから殺さないで』 
 ペア戦開幕前夜、悪夢にうなされたレイジが口走った寝言。レイジは一体だれに、どんな状況で「笑うから殺さないで」と懇願したのだろう。俺はレイジの過去について何も知らない。レイジとは一年と半年の付き合いになるが、レイジが自分の過去について話したことは殆どない。暇となればくだらないことを話しかけてくる饒舌なレイジが、東京プリズンに来た経緯や自分の過去については極力触れないようにしてる。
 俺もレイジの過去についてあれこれ詮索するのは慎んできた。正直気にならないといえば嘘になる。一年と半年も付き合ってれば、東京プリズンに来る前のレイジがどこで何してたか知りたいと好奇心が疼きはじめる。でたらめな強さの根拠や喜怒哀楽の「楽」が突出した笑顔の理由が猛烈に知りたくなる。
 でも、誰にだって知られたくない過去や言いたくない秘密がある。
 俺だって過去のすべてをレイジに話したわけじゃない。絶対言えないこと、口に出すだけでおぞましく二度と思い出したくない出来事もある。レイジはこれまで一度だって俺の過去を無理に聞き出そうとはしなかった。聞かないでくれたのだ。
 だから俺も聞けない。本人に直接聞くのが怖い。   
 でも、目の前のこの二人なら?タオルで首筋を拭きながらホセとヨンイルとを見比べる。俺より遥かにレイジと付き合いの長いふたりなら、レイジの過去について何か知ってるんじゃないか。でたらめな強さの根拠とか笑顔の理由とか、俺が知らないレイジを知ってるんじゃないか。
 「なあ」
 ホセとヨンイルに声をかけ、振り向かせる。二人同時に注視され、気まずさを覚えて顔を伏せる。
 「俺が来る前のレイジって、どんなかんじだった」 
 ホセとヨンイルが顔を見合わせる。
 「……そういえば、ロンくんは以前のレイジくんを知らないんですね」
 「本人から聞いたことないんか?」
 俺は首を振る。俺が東京プリズンに来た一年半前からレイジはずっとあの調子で、くだらないこと言って下ネタ吐いてへらへら笑ってた。俺が来る前のレイジがどんなやつだったか知らないが、今と大差ないふざけた性格だったんだろうという見解は裏切られた。
 「昔のレイジはやんちゃだったでー」
 「ナイフみたいに尖ってて触れるもの皆傷つけてましたねえ」
 「……マジかよ?」
 手からタオルが落ちた。返ってきたのは予想の斜め上を行く答えだ。昔のレイジとやらを回想したのか、ヨンイルとホセが苦笑いする。今は更正したとんでもない悪ガキの所業を指折り数えるように。
 地面に手をつき、無造作に足を投げ出したヨンイルが後ろに反りかえる。
 「ホンマに知らんのかい、レイジと仲ええくせにくせにちょっと驚き。まあ話しとうない気持ちもわかるけどな、昔のレイジ今以上にめちゃくちゃで東棟の連中にびびられとったし。今はどっちかちゅーと舐められとるけど……暴君やな、アレは」
 ヨンイルは東京プリズン一の古株だ。伊達に十一歳の時から五年間ここで生活してない。年に似合わず感慨深げなヨンイルにホセが問いかける。
 「覚えてます?サーシャくんがここに来たばかりの頃、『東京プリズンに四人のトップは要らん、私ひとりで十分だ』と宣言して」
 「北棟制圧した数日後に仲間引き連れて東棟に乗り込んだ。手始めにレイジに喧嘩売りにいったんや」
 「そんなことがあったのか」
 レイジとサーシャの因縁が開示され、俺は驚きを隠せない。そんなこと一言もレイジは言わなかった、俺は白人至上主義のサーシャが一方的にレイジを敵視してるんだとばかり思ってた。新事実が発覚し、食いつき良く身を乗り出した俺の目の前で、昔を懐古するホセとヨンイルの会話は弾む。
 「当時からレイジくんはブラックワーク首位独走してましたし、サーシャくんはそれが気に入らなかったんでしょうね。南より西より先に東棟に乗りこみました。吾輩も実際にこの目で見てないんですが、それはそれは派手だったみたいですよ。東と北を繋ぐ渡り廊下のバリケードを突破して配下には鉄パイプやナイフや釘バッドを持たせて……火炎瓶をばらまいたせいで渡り廊下が炎上。戦場の光景だったそうです」
 「逃げ道断ってレイジ追い詰めたつもりやったんやろな。仲間には野次馬払いに行かせて、渡り廊下の前後に包囲網敷いて……サーシャの武器は秘蔵のナイフ、レイジの武器もナイフ。当時のサーシャはフェアプレイ精神にのっとって敵にナイフ貸す余裕があったんやな。ま、それが仇になるんやけど」
 「凄まじい戦いだったそうです。ロンくん、サーシャくんの体にナイフの傷があるのご存知ですか?」
 「ああ」
 素直に頷く。ご存知もなにも、監視棟の一件ではっきり目撃した。火炎瓶を投擲され炎上するサーシャの背中、上着を脱ぎ捨てれば夜目にも白い背中が闇に浮上。きめ細かい白磁の背中にはナイフで切り刻まれたおびただしい古傷が。
 まさか。
 ある可能性に思い至り、息を呑む。燃え落ちた上着を踏みつけ、息荒く仁王立ちしたサーシャの背中には敗者の烙印の如く無数の傷痕が刻まれていた。一体だれにやられたのか、肌を切り刻む愉悦に酔った狂える刃の痕跡には見た者すべてが戦慄を禁じえない。
 だれがこんな恐ろしいことを。
 だれがこんな残酷なことを。
 「レイジくんですよ」
 ホセがあっさりとその名を告げた。サーシャの背中を完膚なきまでに切り刻んだ犯人がレイジだと、いつもへらへら笑ってるレイジだと、そう言ったのだ。
 「まあ、全部が全部レイジくんではないですが四割は確実にそうでしょう。今のレイジくんならある程度手加減できますが当時はできなかった。彼は憎しみをおさえつけるのが下手だから、気に入らない人間にはとことん残酷に残忍になれます。サーシャくんを踏み付けてから平然とその背中を切り刻む残虐な仕打ちもできるのです」
 「昔のレイジは怖かったからなー。笑ってるんやけど笑ってない。逆に怒れば怒るほど笑顔が深まる、みたいな。おまえが来てからやで、あいつが普通に笑うようになったの。以前よりキレなくなったし」
 ヨンイルが冗談ぽく俺の胸をつつく。いまだ衝撃が冷めやらず俺は混乱していた。ホセの言うことは本当だろうか?レイジがサーシャの背中を踏み付け、生皮を剥いだってのは。今のレイジからは想像できない。レイジはそこまで残酷なやつじゃない、監視棟の時だってサーシャの片手を貫くだけで許してやったじゃないか。いや、あれも相当酷い真似には違いないが、既に勝利を確信した相手の背中を踏み付け、あまつさえ相手に貸してもらったナイフで微塵に切り刻むなんて正気の沙汰じゃない。
 いかれてる。
 まるきり他人の痛みに鈍感な暴君じゃないか。
 「サーシャくんも可哀想なんですよ」
 俺の心の中を見抜いたようにホセがしんみりと呟く。
 「ご存知でしょうか、サーシャくんが東京プリズンに来たわけを。彼はもともとモスクワ生まれ、日本から遠く離れた極北ロシアの地が故郷なんです。母親はサーカスの花形でロシアンマフィアの幹部の愛人。そのサーカスというのが資金稼ぎを目的にマフィアが運営していたもので、サーシャくんは幼少時から徹底的に芸を仕込まれ危険な見世物に出演する非人道的な環境で育ったんです」
 「体の傷も残り六割はサーカスでしごかれた名残り。おかんは早くに亡うなってマフィアの幹部の父親には放任されて、殆ど肉親に見捨てられた環境で育ったみたいやな。ナイフ投げもいちばん最初にサーカスで習ったせいで手首に癖がついて、後で矯正するのに苦労したらしい」
 「そんな孤独な幼少期を過ごした後、何年ぶりかで会いに来た父親にナイフの腕を見込まれて引き取られた。肉親の情愛からじゃない、彼を暗殺者として有効に使うためです。彼をサーカスに預けっぱなしにしたのも物心ついた時からナイフを仕込んで暗殺者として徹底的に鍛え上げるためだとか」
 「結局は使い捨てにされたけど」
 「使い捨て?」
 どういう意味だと眉をひそめる。東西南北トップの繋がりか秘密の情報網でもあるのか、サーシャの過去に妙に詳しく、悲惨な身の上話を語りながらヨンイルがゴーグルを押し上げる。外気に晒されたのは稚気と凄味を均等に宿した双眸、少年と青年の中間の横顔。
 「マフィア幹部の親父が日本に勢力のばそうと目論んで、邪魔者消すためにいちばん始めに送りこんだんがサーシャなんや。北海道も今は半分がロシア人の街になっとるし、おんなじロシアンマフィアのライバルやら日本のヤクザやらが入り乱れて勢力争いしてややこしいことになっとるんやて。サーシャは日本上陸のとっかかりに邪魔者消してこいと送りこまれたんやけど、そこで暗殺に失敗して本国の組織に切られた」
 「足手まといには容赦ないで、組織は」とヨンイルが呟く。ほんの少しだけ寂しげに。
 「仕事には失敗し組織には切られ、生まれ故郷のロシアには居場所がない。迎えてくれる家族もいない。自暴自棄になったサーシャくんは巡り巡ってここ東京プリズンに送られた。故郷に見捨てられた腹いせに多くの人間を殺して傷付けて」
 ホセがため息とともに身の上話を締めくくり、景気の悪い沈黙が落ちた。
 北のロシア皇帝、薬物中毒のサーシャは組織に切り捨てられ、誰も頼る者とてない極東の地に放逐されたナイフ使いの暗殺者だった。マフィアの幹部として君臨するサーシャの父親にとって、サーカスの愛人に生ませた息子はその程度の存在価値しかなかったのだろう。話に聞くサーシャの父親にお袋の面影が重なり、胃がもたれるような不快感が腹の底に凝る。
 サーシャは父親に捨てられ組織に切られ、自暴自棄の末路で東京プリズンに送りこまれた。 
 じゃあ、レイジはどうして東京プリズンに来た。
 「……サーシャとレイジの因縁はわかった。俺と出会う前のレイジが今より遥かに危ないやつだってことも、」
 「そうや、お前と会ってからレイジは爪を切られた豹みたいに丸くなった。もっと詳しく知りたいんならホラ、あれや、お前の棟の赤毛に聞くといい」
 「リョウか?」
 東棟で赤毛といや一人しかいない。怪訝に念を押せば、「そそ、リョウ」と軽く頷いたヨンイルが人さし指をたてる。
 「あの赤毛なら当時の現場に居合わせたはず、サーシャ対レイジの結末を断然詳しく知ってるはず。俺もホセも所詮は他棟の人間、今言うたことぜーんぶ噂や。実際この目で見たわけちゃうし、聞きかじりでてきとー言うとるだけ。生で立ち会うた人間の証言には到底かなわへん」
 たしかに、俺より以前に東京プリズンにぶちこまれたリョウなら当時のレイジについてよく知ってるはずだ。何故そんな単純なことに思い至らなかったんだと自分の頭の悪さが恨めしくなる。リョウの性格から考えて東京プリズン入所当初から男娼兼情報屋で荒稼ぎしてたろうし、さらに勘繰れば他棟に噂を流した張本人の可能性もある。
 よし。今日の特訓を終えたら真っ先にリョウに会いに行こう。レイジには内緒で、昔のレイジがどんな奴だったか聞きこみに行こう。そん位なら罪のない好奇心で許される範囲だ。
 練習後の予定を決め、膝に手をついて立ちあがる。俺の視界の端でホセも立ちあがる。
 「さあ、休憩終了。次は中庭五十周です、吾輩に遅れずについてきて!」
 ……また座りこみたくなった。
 呼び止める暇も与えずに走り出したホセを見送り、辟易して立ち尽くした俺の肩を誰かが叩く。振り向けばヨンイルがいた。ゴーグルを顔に戻し、にんまりと口元を緩め、俺の胸に何冊か重ねた漫画本を押し付けてくる。
 「何の真似だ」
 「明日のためのその一。試合で勝つために特訓中なら明日のジョー完読せな嘘や。寝ても覚めてもジョー漬けの毎日を送れば必ず勝つ秘訣が見つかる、試合に挑む心構えも。お礼?ああ気にせんといて、これ全巻読んで感想聞かせてくれれば十分やから。力石の最期は何度読んでも泣けるでー感動モンや」
 熱に浮かされたように饒舌にまくし立てるヨンイルに、半ば強引に漫画本を受け取らされる。ひどく満足げなヨンイルと対峙し、ジョー漬けって何かの漬物みたいだとかくだらないこと考えてぼけっと突っ立ってたら背後に檄がとぶ。
 「ロンくん、ヨンイルくんと明日のジョーの素晴らしさを語り合う暇があるなら足を動かして下さい!」
 『!不好意思、』
 とっさに台湾語で謝罪、50メートル前方で足踏みするホセを目指し、地面を蹴ってひた走る。その背に浴びせられるのは口の横に手をあてたヨンイルの声援。
 「ヒムネラー」 
 たしか韓国語で「がんばれ」の意だ。ヨンイルに背を向けて走りだし、両手に漫画本を抱えたままでいるのに気付いたがもう遅い。漫画本の重みが手にずっしりこたえるが、ジョーを放り出すわけにもいかない。
 ……くそ、何が明日のためのその一だ。
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