少年プリズン

まさみ

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二百十二話

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 闇。
 そこにはただ闇があった。生臭く湿った汚物の匂いがする闇。糞尿の異臭がこもった闇の中で聞こえてくる音といえば自分の息遣いと心臓の鼓動、あとは何も聞こえない。
 闇を手探り、おそるおそる壁に触れてみればコンクリートのざらついた質感が四方を囲んでいた。どうやらここはコンクリート造りの小部屋で、俺はいつからかわからないが何らかの理由でこの独房に閉じ込められてるらしい。
 視界一面重苦しい闇に塞がれて、呼吸するたびに気道に闇を吸いこんで体の内側から蝕まれていくみたいだ。圧倒的な闇、視界が利かない不安。目を閉じても開いてもそこには変わらず闇があるだけで自分の手足も見えずに恐怖で理性が蒸発しそうになる。怖い怖い怖い、だれか助けてくれ。体中の穴という穴から闇が入りこんで体の内側を蚕食する、自分の内側と外側の境界線が曖昧に溶け出して俺の自我が食われて存在が薄れてゆく。ここはどこだ、どうして誰もいないんだ。誰でもいいから声が聞きたい、音が聞きたい、俺以外にもこの世界に人間がいると、生きて呼吸して動いてしゃべる人間がいると確信を得て安心したい。孤独感に押し潰されそうで不安感に息もできなくて、汚物にまみれた床を芋虫みたいに這いずって壁に縋りつきぴったり耳を押し付ける。お願いだからだれか、なにかしゃべってくれ。俺が一人じゃないと、一人ぼっちじゃないと教えてくれ。爪を掻き毟るように上体を起こし、壁に耳を密着。押し殺した息遣いは獣じみて心臓の鼓動は跳ね、壁に立てた爪がひび割れて激痛が生じる。
 壁越しにかすかな物音が聞こえてきた。
 分厚いコンクリ壁の向こうからかすかに漏れ聞こえたのは今にも死に絶えそうな啜り泣き、子供の嗚咽。壁向こうで誰かが泣いている。俺とおなじように壁に縋りついて、あるいは隅っこで膝を抱え、他にどうしようもなく啜り泣いている。空腹に苛まれて胃袋は縮み、気が狂ったように壁や扉を叩いた手は痺れて感覚が失せ、誰からも救いの手はさしのべられることない絶望のどん底でしゃくりあげている。壁の向こうにもそのまた向こうにもここと同じ造りの部屋が存在し、子供が一人ずつ閉じ込められてるとそれでわかった。
 たどたどしくすすり泣く声が壁を越えて鼓膜に押し寄せ、耳を塞ぐ。皆が泣いてる、まだ年端もいかないガキがたった一人空きっ腹で暗闇に閉じ込められ、糞尿にまみれた汚い床にしゃがみこんで泣きじゃくってるのだ。ここから出してくれと力ないこぶしで壁を叩き、遂には力尽きて平手を壁につきその場にしゃがみこみやがて動かなくなり。
 いやだ。俺もそうなるのか。
 こんなところで、自分の手足さえ見えない闇の中で、汚物にまみれて一生を終えるのか?なんで俺がこんな目に、俺が一体全体なにをした。だれか、だれでもいいだれか助けてくれなんでもするから助けてくれここから出してくれ。目を開いても閉じても変わらない暗闇じゃ呼吸するのも苦しい、息を吸うたびに体の底に闇が溜まってゆくみたいだ。一体いつになればここから出してもらえる、解放してもらえる?ぴたりと耳を塞ぎ膝に顔を埋め、そのままじっと動かず……。
 いつのまにか、泣き声が止んでいた。
 嗚咽が途絶えたあとに訪れたのは先刻とは比較にならない完全な静寂。耳から手をおろし、周囲を見渡す。音が聞こえない。壁の向こうからは衣擦れの音ひとつせず、生き物の気配がしない。不審に思い、おそるおそる壁を叩く。コンコンと耳に響く軽いノック。反応は皆無。不吉な予感が胸に覆い被さり異常に喉が乾く。おかしい、どうして返事がない?もう泣き声あげる元気もなくなったってのか?それともまさか俺一人残して全員が死んじまったってのか?
 何かが壊れた。
 お願いだから誰か返事をしてくれ、答えてくれ、声を聞かせてくれ。嘘だろ、俺ひとり残して全員がいなくなっちまったなんて嘘だ、そんな現実が現実であってたまるか。いやだ置いてかないでくれ、正気を保ったまま真っ暗闇に置き去りにされるのはいやだ。五感はまだ正常に働いて聴覚は鋭敏で嗅覚は過敏で、視覚以外の感覚が恐ろしいほどに冴え渡ったこの状態でひとり暗闇に放置されるのは拷問だ。俺のこぶしが壁を殴打する音がむなしく響くが答える者はだれもいない、完全な無反応。手が痛いがそれよりなにより恐ろしい、もう一生死ぬまでこの部屋から出られないんじゃないかと思うと全身の毛穴から汗が噴き出して心臓が爆発しそうに高鳴って、気付けば俺は喉を振り絞り、今ここにはいない誰かに哀願していた。
 誰かいるんだろ誰か、俺の声が聞こえてるやつが。ぶざまな俺をどこかで嘲笑ってるやつが。なあ頼むからここを開けてくれ、この扉を開けてくれ。鉄で出来た分厚い扉を開けて外にだしてくれ。
 叫びすぎて喉が嗄れて声がかすれて、それでも諦めきれず叫び続ける。顔の見えない誰かにただひたすら許しを乞い願う。助けてくれ助けてくれお願いします助けてくださいなんでもしますからここから出して、いやだ怖い暗くて怖いなにも見えない誰か助けて。
 お袋。
 あんたが男と乳繰り合ってるときに勝手に部屋に入ってったりしないから、大人しくしてるから、だからいい加減ここから出してくれ。土下座でもなんでもするから、口をきくなってんならそうするから扉を開けてくれ。
 ひとりにしないでくれ。
 こんな死に方はいやだ、こんなみじめな死に方はいやだ。異臭が充満した暗闇で糞にまみれて餓死なんて救いのない死に方はいやだ。だれか、だれか―

 だれだ?

 部屋の片隅にガキがうずくまってる。いつのまに現れた、どこからどうやってもぐりこんだ?扉は外側から鍵をかけられて、四面を塞ぐ壁には割れ目なんか存在しないのに。暗闇に目を凝らし、ガキの背中を見つめる。
 そのガキは泣いてもなかった。喉が嗄れるまで泣き叫んだ様子もなく、闇に溶け込むように膝を抱え、ぼんやり虚空を見つめていた。自分の手足も見えない真っ暗闇なのに、どういうわけだかそのガキの輪郭はくっきりと浮きあがって見えた。華奢な背中、細い首、干した藁束のような色合いの明るい茶髪。おかしい、色なんか識別できない闇の中でどうして髪の色がわかる?
 そうか。俺はこいつを知ってる。
 そのガキは泣いてもなかった。喉が嗄れるまで泣き叫んだ様子もなく、闇に溶け込むように膝を抱え、ぼんやり虚空を見つめていた。怯えるでも怖がるでもなく、ごく自然に、まるでそれがごくありふれた日常であるかのごとく闇に馴染んでいた。俺の視線に反応したガキが誰かに呼ばれたように顔を上げ、ゆっくりと、緩慢な動作で振り向く。気だるく振り向いたガキと目が合った瞬間、戦慄が走る。 

 虚無。
 これは人間の目じゃない、心ない怪物の目だ。
 
 ガキは薄らと笑みさえ浮かべていた。年齢にそぐわない、ひどく大人びた微笑。底無しの瞳。
 怖い。目の前のガキが怖い。俺のすべてを見通すような全能の微笑が怖い。心を麻痺させることで闇に対する本能的恐怖を克服した、人間として大事な部分が致命的に欠落したおぞましい笑顔。
 闇よりなにより、目の前のガキが恐ろしい。扉を背に追い詰められた俺を見てガキは笑ってる。お前のことは全部お見通しだとでもいうように透き通った微笑を浮かべている。なまじ綺麗に整った顔だちをしてるせいかおさら笑顔の薄気味悪さが際立った。
 怪物。
 人の姿を借りた怪物がこっちに歩いてくる。かすかに鼻歌を唄いながら、床に垂れ流しの糞尿を裸の足裏ではね散らかし、極上の微笑を湛えて俺のもとへ近づいてくる。この歌、聞いたことがある。子供の甲高い声が唄うひどく音痴な鼻歌。リンチで殺された黒人の死体が木の枝にぶらさがってる、まるでそれは奇妙な果実のよう……スキップするように汚物まみれの床を歩きながら鼻歌をなぞる。口元に微笑を絶やさず、闇と戯れるような振り付けで歩いてくる。
 やめろ、こっちに来るんじゃない。
 床を足で蹴り遠ざかろうとして、背後に扉があるせいでそれ以上後退できず追い詰められる。来るな来るな来るな!頭を抱え込んで絶叫する、全身で拒絶する。恐怖で頭が割れそうだ、心臓の鼓動が高鳴り全開の毛穴から汗が噴き出し体の芯が凍えてかってに四肢が震えだす。得体の知れないガキが歩いてくる、のんきに鼻歌なんか歌いながら歩いてきやがる。なんでこの状況下で笑える、糞まみれの闇の中で笑うことができる?やめろそれ以上近付くな頼むからこっちにくるな、怖い、怖い―

 ああ、殺される。

 ―「!!!!!」― 
 そこで目が覚めた。
 全身がぐっしょり濡れていた。悪夢にうなされて大量の寝汗をかいたせいだ。毛布をはねのけ、ベッドに跳ね起きる。一瞬自分がいる場所がどこかわからなくなった。視界は闇に包まれてる。まだあの小部屋にいるのかと勘違いして一瞬心臓が止まったが、落ち着いて見まわしてみれば裸電球を消した俺の房だった。闇に沈んでいるのは見慣れたベッドと洗面台で、天井の配管の位置もベッドにもぐりこむ前となにも変わってない。
 震える手で毛布を掴み、大きく深呼吸をくりかえす。体の芯は恐怖に凍えていた。やけに生々しい夢だった。コンクリート壁のざらざらした質感を手が覚えている。手入れのよくない家畜小屋よりなお環境が悪い部屋だった。あるのは闇と壁だけ、他にはなにもない殺風景な部屋。まるで独房。あの部屋から抜け出せたことに心の底から感謝したい。
 時間は深夜。隣ではレイジがぐっすり眠ってる。
 ホセの特訓開始から四日目。日中しごかれて疲れてるはずなのに、俺は全然眠れない。眠れば確実に悪夢を見てしまう。昨日レイジに聞かされた子供の頃の話が夢の形を借りて頭の中で再現され、実際に体験してない俺まで夢に取り込まれてレイジの過去を追体験させられる。
 ひどい夢だった。
 泣いても叫んでもなにをしても無駄だった。誰も助けにきちゃくれなかった。怖くてひもじくて気が狂いそうだった。俺が夢の中で体験したのはほんの数時間に過ぎないのに、レイジはほんのガキの頃にあれを最短一週間体験したのだ。
 ガキの頃、癇癪持ちのお袋にクローゼットに放りこまれたことが何度かある。お袋の折檻怖さに自分から逃げ込んだこともある。最初の数分はいい、でもじきに心細くなる。空腹に耐えられなくなり尿意に耐えられなくなり、なにより誰にも気付かれない不安と恐怖に心が軋んで世界で自分ひとりぼっちになったような錯覚に陥り、一時間が経つ頃には出してくれと泣き喚く始末だった。お袋はガキが泣き喚いたところで扉を開けてくれるほど優しくなくて、お袋の気まぐれ次第で最長半日クローゼットに閉じ込められたこともある。でも半日、たった半日だ。レイジと比べりゃ屁でもない。
 だけどその半日で、十年分の恐怖を味わった。
 もう一生ここから出してもらえないかもしれない、閉じ込められたきりかもしれない。お袋は俺のこと忘れちまうんじゃないか、じきに誰も彼もが俺のことを忘れて俺がいたことさえ忘れられちまんじゃないか。そう考えたら怖くて怖くて、体が震え出して止まらなくなった。自分で体を抱いて止めようとしても無駄だった。
 それなのにレイジは、真っ暗闇の小部屋に一週間以上閉じ込められた記憶を笑いながら回想した。俺なら二度と思い出したくない忌まわしい体験を笑顔で口に上らせたのだ。
 レイジはおかしい。普通じゃない。
 なんだってあんな悲惨な体験を笑いながら話せる?隣のベッドですやすや寝息をたてるレイジを振り返る。人の気も知らず平和なツラで眠ってる。あれがレイジの作り話という可能性はないだろうか?だっておかしいじゃないか。いつもへらへら笑ってるレイジが、下ネタと冗談と口説き文句しか言わない軽薄なレイジが過去にあんな壮絶な体験をしたなんて俄かには信じ難い。糞尿垂れ流しの小部屋に監禁され訓練と称して家畜以下の扱いを受け、身も心も徹底的に貶められ人間性を最後の一片まで剥奪されて何故トラウマにならない?俺が知る限りレイジは暗所恐怖症でも閉所恐怖症でもない、悪夢にうなされたことだってペア戦前夜の一回こっきりで俺よりよっぽど寝付きがいい。
 俺より格段に悲惨な体験をしたくせに、なんでそれを笑いながら話せるんだ?
 レイジはおかしい、普通じゃない。普通とは違う、俺とは違う。夢で遭遇した子供時代のレイジが脳裏によみがえり、二の腕が鳥肌だつ。レイジは闇の中で笑っていた。音痴な鼻歌を唄いながら、ガキのレイジは微笑んでいた。実際のレイジも笑っていたのか、糞尿垂れ流しの真っ暗闇に監禁されてなお微笑を絶やさず鼻歌を口ずさんでいたのか。レイジは暗闇が怖くないのか、恐怖心が欠落してるのか?
 暗闇の中で鼻歌を口ずさむレイジ、鼻歌を唄いながらサーシャの背中を切り刻むレイジ。
 俺の知らないレイジの一面、俺が見たことのないレイジの一面。いつもへらへら笑って俺にちょっかいかけてくるレイジと鼻歌まじりに敵を切り刻むレイジ、どっちが本当のレイジなんだ?もし仮に、今まで俺に見せてきたレイジの笑顔が偽りの仮面だとしたら。
 俺を油断させる演技だとしたら。
 『今の俺、上手く笑えてる?』
 ……まさか、ありえない。強く否定しようとして、否定しきれない自分に動揺する。あの時は上手い下手の問題じゃないと抗弁したが、俺が日常見慣れたレイジの笑顔が本心と切り離した演技だとしたら上手い下手で評価するかしかない。レイジの笑顔は上手い。上手いんだろう、たぶん。笑みを浮かべてる限りどこまで本気で冗談か、いちばん身近にいる俺にも区別できないくらいなんだから。
 ……わからない。不安になる。俺はレイジのことをわかったふりして、今まで何ひとつわかっちゃなかった。レイジの過去を何も知らず、レイジの笑顔を深く追及せずにやり過ごしてきた。が、それもそろそろ限界だ。俺はもうレイジの過去に立ち入っちまった、暗い過去を覗き見たら最後あの笑顔を額面通りに受け止められずに常にもやもやと疑惑が付き纏う。 
 今、レイジは本心から笑ってるのか?俺と馬鹿話するのが楽しくて、本心から笑ってるのか?
 レイジが楽しくもないのに笑ってるんだとしたら、楽しくもないのに笑ってるレイジに付き合わされる俺はただの道化だ。俺は心の底からレイジを笑わせたいが、その方法がわからない。レイジを笑わせたいと模索する俺自身笑うのがあんまり得意じゃないのだ。お袋や周囲の人間に常に「かわいげがない」と言われて来て、物心ついた時にはもう素直に笑えなくなってた。正直レイジみたいにあけっぴろげに笑えたらと羨ましくなることもあったのに、そのレイジ本人がこれまで一度も心の底から笑ったことがないんだとしたら。
 「ううーん……」
 ベッドに腰掛け、物思いに耽っていた俺を我に返したのはレイジの寝返り。ごろんと寝返りを打ったレイジが暗闇で薄目を開ける。
 「……まだ起きてたのか。眠れねえの」
 「ああ」
 欠伸をしながら上体を起こしたレイジをベッドに腰掛けた姿勢でぼんやり眺める。東京プリズン最強の男、連戦連勝無敵無敗のブラックワークトップなんて仰々しい称号を連ねてみたところでレイジの本質は語れない。俺が知ってるレイジはいつもへらへら笑って、隙さえあらば人の寝こみを襲う節操なしで。 
 ただのバカで、けど、結構いいやつで。
 俺が売春班の仕事場に閉じこもった時、レイジは缶詰持って見舞いにきてくれた。力づくで扉を開けて、心を許したダチにそうするように俺に笑いかけてくれたのだ。
 嬉しかった。あの時、俺はレイジの笑顔で救われたのだ。
 あの笑顔が嘘だなんて、偽りだなんて思いたくない。
 複雑な気持ちでレイジを見つめれば、ベッドに起き上がったレイジが俺の視線に気付き、いたずらっぽく笑う。
 「眠れないならキスしてやろうか」
 「気色わりい」
 「遠慮すんなよ」
 「いや、本当に気色わるいから」
 「はいはい、素直じゃないね。俺が100人抜き達成したときはそれなしだぜ」
 人の意見などてんで聞かずにスニーカーに足を突っ込み、こっちへ歩いてくるレイジ。このバカ、マジでキスするつもりか?寝こみを襲われた経験は腐るほどあるが、俺がぱっちり目え覚ましてるときにちょっかいかけてくるなんていい度胸じゃねえかくそ。豹のようにしなやかな足取りでレイジが接近、中腰に屈み、俺の顎に手をかけて外人の親愛表現よろしく頬にキスしようとして。
 瞬間、最前まで見ていた夢の光景が現実に重なる。
 スキップするような足取りでこっちにやってきたガキ。口元には微笑を湛え、俺の方へと手をさしのべ、その手が首にかかり。
 
 殺される。

 「!?―っ、」
 手に衝撃が伝わった。
 頬に唇を落とす寸前、おもいきり突き飛ばされたレイジが床に尻餅をつく。平手を前に突き出した俺は、放心状態で足元のレイジを凝視。だらしなく両足を投げだし、床に寝転んだレイジはあ然としていた。ちょっと俺をからかうつもりが容赦なく突き飛ばされ、ろくに受け身もとれずに床に転倒したのだ。眠気が吹っ飛んだレイジが驚きに目をしばたたき、両手を前に突き出した姿勢で硬直した俺は、ひどく苦労して口にたまった唾を嚥下する。
 「近付くな」
 不均衡な沈黙が落ちた。
 自分の言動が不可解だ。あれはただの夢だ、現実のレイジが俺を殺そうとするはずない。頭ではわかってる、でも冷静な判断力が回復するより早く勝手に体が動いてレイジを突き飛ばしていた。顎に手がかかった瞬間に夢で味わった恐怖がまざまざとよみがえり、頭が真っ白になって、やらなきゃ俺がやられるとそう思って。
 床に尻餅ついたままのレイジを見下ろし、言い訳がましく付け足す。
 「……約束は守る。100人抜き達成したら抱かせてやる、だからそれまでさわんな。野郎にキスされても嬉しかねえよ。いい夢見られるおまじないなんか要るか、失せろ」
 「へーへーっと」
 早口にいい終えた俺の前、腰をさすりながらレイジが立ち上がる。
 「恥ずかしがり屋だなロンは、キス程度で赤くなっちまって」
 「赤くなってねえ」
 「そうか?暗くてよく見えねーから口では何とでも言えんな」
 「暗くてよく見えねーのに顔の赤さはわかんのかよ」
 身に覚えのない疑惑をかけられて憤慨すれば、軽く肩を竦めたレイジがまんざらでもなさげに笑う。
 「暗闇でもロンの顔は見える」
 自信をもって断言したレイジの言葉が冗談に聞こえず、ぞくりとした。さっき見た夢の中、糞尿垂れ流しの暗闇でレイジは一直線に俺を見つめていた。自分の手足の先さえ判別できない無明の闇で、俺の顔だけは見分けがつくというふうに得意げな笑顔で。 
 「……俺には見えねーよ、お前のツラなんて」
 レイジに背を向け、毛布を羽織る。毛布にくるまった俺にやれやれとかぶりを振り、レイジが去る足音を背中で聞く。続く衣擦れの音で、レイジが自分のベッドに戻ったのを確認。警戒を解き、体の力を抜く。
 再び寝息をたて始めたレイジをよそに、ひとり毛布にくるまり反芻する。
 俺にはレイジが見えない。
 笑顔の下のレイジの本心が、ちっとも見えない。
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