少年プリズン

まさみ

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二百十四話

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 特訓開始から五日目。
 五日目ともなりゃ体も慣れてきてグラウンド五十周も腹筋背筋腕立て伏せ縄跳びの地獄の特訓メニューもそんなに苦じゃなくなった。暴走特急ホセはマイペースハイペースに中庭突っ走って俺に対する思いやりなんか相変わらずかけらもないが、初日は一周以上差をつけられてたのがだんだん縮まり、今では周回遅れの失態を晒すこともなくなった。ホセとの距離は最長200メートル、東京プリズンの中庭はだだっ広いからそれだって大した進歩だと自画自賛してみる。
 しかし、こんなにちんたらやってていいのだろうかと走りながら不安になる。肩にかけたタオルをそよがせながら「ファイトーファイト―」と間抜けな声あげてるホセの背中を疑り深げに見つめる。この五日間俺がやったことと言やホセについてぐるぐる中庭走りまわったり腹筋背筋腕立て伏せ縄跳びの基礎体力作り、そしてホセに付き合ってボクシングの真似事。外にいた頃はもちろん腹筋背筋腕立て伏せの日課なんかなかったし暇を持て余した挙句にそこらへんを走りまわる奇行にでることもなかった。暇を持て余したら喧嘩だ。幸いか不幸か相手には事欠かなかった。憎まれっ子世に憚るで俺には敵が多かった。台湾と中国の混血でどっちからも恨みを買ってる俺には味方なんかはなから存在しなかった、というか味方でさえ敵だったのだ。俺が所属してたチームは池袋を本拠地に暴れる台湾系のガキの集まりで、中国人の血が入ってる雑種はひどく肩身が狭かった。敵との抗争のときだって逃走の際のケツ持ちとか損な役割ばかり押しつけられた。なんでそんな居心地の悪いチームに身を寄せてたのかだって?簡単だ、そこっきゃ居場所がなかったからだ。
 お袋のアパートを飛び出したはいいものの、他に行くあてもなく路地をさまよってた一時期を回想する。
 路上生活者にも縄張りがあり、新参者はつまはじきにされるのが鉄則だ。帰る家もなく迎えてくれる家族もいないガキが路上で野垂れ死にしないためには、家に代わる新しい仲間を見つける必要があった。 
 まあ、あいつらのことを仲間だなんて思ったことは一度もなかった。それに関しちゃお互い様だろう、チームの連中だって本気で俺のことを仲間に迎え入れたわけじゃない。同胞の血が半分入ってるてまえ気は進まないが仕方ない、という消極的な理由。
 レイジには仲間がいるんだろうか?
 ふと、脳裏に疑問が浮かぶ。ここ何日か、レイジとのあいだがぎくしゃくしてる。いや、俺が一方的にレイジを拒んでいるのだ。できるだけレイジとの接触を避け、レイジの顔を直視しないよう心がけて生活してるが勘のいい鍵屋崎あたりは何か気付いてるかもしれない。俺の様子が不審なことに、レイジに対する態度の硬化に。毎日食堂で顔を合わせるたびに何か言いたげにじっと顔を見てきてうざったいっちゃない。
 勘の鋭い鍵屋崎は気付いてる、俺とレイジのあいだに溝ができたことに。レイジ本人さえ気付いてない深くて暗い溝の存在に、嵌まったら二度と抜け出せない溝の存在に。レイジは馬鹿だから俺の態度の変化にもてんで気付いてない、それとも気付かないふりをしてるのか俺にはわからない。
 俺にはレイジがわからない。
 レイジの笑顔を鵜呑みにできなくて、レイジがわからなくて、レイジと一緒にいるのが苦痛になる。俺が今まで見てきたレイジはなんだったんだ、一年半付き合ってわかったつもりになってたレイジはなんだったんだ?レイジの過去を聞いた日から、以前のようにはレイジと付き合えなくなった。どうしても腰が引けてしまう。夢で見たガキの笑顔が脳裏に焼き付いてはなれない。暗闇の中で笑う子供。膝を抱えて鼻歌を唄い、世界に自分ひとりぼっちだろうがおかまいなしに……
 レイジの音程が狂ってるのは、レイジ本人が狂ってるからか?
 「ランニング終了ー」
 はっとした。
 考え事に熱中してたらいつのまにかランニングが終わっていた。前方じゃホセが立ち止まって膝の屈伸をしてる。無意識に腕を振り足をくりだし中庭を走っていた俺は、ホセの隣で停止。
 首にかけたタオルで顔の汗を拭いながらホセが振り向く。心配げに顔を曇らせ。
 「ロンくん、なにか悩み事でもあるんですか」
 見ぬかれてた。
 心配事が顔にでるほど思い悩んでたんだろうか、俺は。ばつの悪さにそっぽを向けば、お人よしなホセがずいと顔を覗きこんでくる。
 「気のせいかお顔の色が優れませんが胃腸の調子でも。吾輩いい胃薬を持っているのですがもしよろしければ」
 「胃腸は健康。てか胃薬持ちのボクサーってどうなんだよ」
 「吾輩ホセ、これでも試合前は人並に緊張するのですよ……」
 ホセは地下ボクシングの王者とか言ってたな、そういえば。
 わざとらしく胃のあたりを押さえたホセにため息をつき、日陰に腰を下ろす。休憩。ホセは文句も言わずに後についてきた。かってに休憩に入っても目くじら立てないのはやつなりの気遣いだろう。ホセと並んで日陰の地面に座りこみ、燦燦と輝く太陽の下、乾いた青空と鮮烈な対照を成すコンクリートの中庭を眺める。
 「悩み事なら吾輩力及ばずながらお力添えいたしますが」
 「カウンセリングもメニューに入ってるのか。ケア万全だな」
 「いえ、これは吾輩の自由意志。気まぐれで暇潰しで退屈凌ぎ、顔色の晴れない友人を純粋に心配した善意の行動です」
 「気まぐれで暇潰しで退屈凌ぎのカウンセリング、ね。あてにならねえ、まだ東京プリズンのヤブ医者んとこ行ったほうがマシだ」
 ホセは正直なんだか馬鹿なんだか時々わからなくなる。ちなみに東京プリズンの専属医ってのは結構な年の爺さんで、捻挫だろうが骨折だろうが唾つけときゃ治るの適当方針でン十年ことなかれ主義を通してきたせいか、囚人には至って評判が悪い。あれで意外と処置は的確だって噂もあるが実際この目で見なきゃ噂の域でねえし。
 がっくりうなだれた俺の隣、ホセが「さあ、なんでも頼ってください」と鼻息荒く頬を紅潮させる。人の相談事に乗るのが大好きって物好きな輩がたまにいるが、どうやらホセもその手の迷惑な連中のひとりらしい。俺に頼って欲しくて準備万端、大いに乗り気なホセを無視するのは気が引ける。五日間世話になったコーチをムゲに扱うのも恩知らずと言えなくないし、観念してため息をつく。
 「レイジのことだよ」
 「……無念です。吾輩ホセ、人様の痴話喧嘩には口をださない頑固一徹な方針で」
 「痴話喧嘩じゃねえ」
 途端に気が弱くなったホセを睨み付け疑惑を断固否定、続く言葉を飲み下して顔を伏せる。ホセとレイジは長い付き合いだ。少なくともホセは、俺が東京プリズンに来る前のレイジを知ってる。俺が知らないレイジを知って、俺が知らないレイジについて語ることができる貴重な人物だ。
 この機を逃す手はない。
 「ホセ、お前レイジがなんで東京プリズンに来たか知ってるか」
 真剣な顔で、慎重な口調で、単刀直入に聞く。付き合いの長いホセならレイジが東京プリズンに来た経緯について何か知ってるかもしれない。サーシャの身の上話をぺらぺらしゃべったんだから、ちょっとつつけばレイジの生い立ちだってぺらぺらしゃべりだすはずだ。
 しかし予想を裏切り、返答は冴えないものだった。
 「レイジくんの入所理由ですか?さあ、詳しいことは存じ上げません。レイジくんは吾輩が来た頃には既におりましたし、東西南北トップではヨンイルくんに続く古株ですしねえ」 
 「使えねえな」
 舌打ち。態度が悪いのはあてが外れて苛立ってる証拠。正解に近付いたと思ったらまた振りだしだ、俺はいつになったらレイジの過去の全貌を解き明かすことができる、本当のレイジに辿り着くことができる?
 落胆した俺に気を遣ったのか、場をとりなすような笑顔でホセが付け足す。
 「お役に立てるかどうかわかりませんが、以前レイジくんがこうおっしゃってました。自分の仕事は人殺しだと」
 「人殺し?」
 肝が冷えた。レイジが言うと冗談も冗談に聞こえない。ぎょっとした俺を安心させるようにホセが微笑みかける。
 「嘘か誠か、子供の時から人殺しが仕事だったそうですよ。本でも人を殺せるようになったのは子供時代の訓練の賜物だとか……」
 淡々と話すホセの声が遠のき、ベッドに腰掛けて過去を語るレイジの横顔が脳裏に甦る。胸元の十字架をまさぐり、懐かしげな目をし、口元には微笑を湛え。作り笑いにしちゃ自然すぎる笑顔で、悲惨すぎる過去を語るレイジに胸が絞め付けられる。真っ暗闇の部屋に外から鍵かけられて放りこまれて、銃声あてなきゃ飯も貰えずに飢え死ぬだけで、寂しくてひもじくて恐ろしくて、俺の想像を遥かに絶する地獄の日々。
 俺なんかには、到底耐えられない日々。
 「訓練って何の訓練だよ、わかんねーよ。誰がレイジにそんなことやらせてんだよ!」
 体の奥底から咆哮の衝動が湧き上がり、気付けば大声をあげていた。それでもまだおさまらず、激情に任せてコンクリの地面をこぶしで殴り付ける。なんだってレイジがそんな目に遭わなきゃならない、理由はなんだ?訓練ってなんだよそりゃくそったれ、ガキに飯も食わせず糞尿垂れ流しの小部屋に放りこんで偉そうになにが訓練だよ馬鹿野郎、レイジもそれで納得すんじゃねえよ、笑うなよ、怒れよ。怒っていいんだよ、それだけの目に遭ったんだから。ちゃんと怒る権利があるんだよ、こぶしを振り上げて蹴飛ばして絶叫してキレて暴れていいんだよ!
 笑うなよ。
 普通の人間なら笑うところじゃない、泣くところだ。怒るところだ。そうだろ?俺、間違ったこと言ってないだろ。なんでレイジは泣かないんだ、怒らないんだ、笑ってるんだ?俺ならそうする、俺をそんな目に遭わせたヤツのこと殺したいほど憎悪してはらわた煮えくり返るほどの怒りをおぼえる。八つ裂きにしたい、首を絞めたい、肉片にしたい、頭をかち割って脳味噌ぶちまけたい、生きながら臓物ひっぱりだして犬に食わせてやりたい、豚の餌にしてやりたい。殺意を抱いて当然だ、それが「あたりまえ」なんだ。
 レイジは「あたりまえ」じゃない。普通とは、俺とはちがう?
 「なんで笑えるんだよ、もうわかんねーよ……いっつもへらへらしやがって、なにが本気で冗談なのか一個もわかんねーよ。笑顔しかできないって、そんな人間いるかよ。レイジだってガキの頃は泣いたり怒ったりしたはずなのに、今は笑顔しかできないなんて、だれがそんなふうにしちまったんだよ。畜生」
 おかしい、俺はどうかしてる。頭を抱え込み、うずくまる。レイジのことでむしゃくしゃして、腹が立ってしょうがなくて……馬鹿らしい、俺がレイジの代わりに激怒して殺意をおぼえてどうなるんだ。レイジをそんな目に遭わせたヤツを殺したくても、レイジの過去がわからないんじゃどうしようもない。俺には誰がレイジにそんな酷いことしたのか、それさえわからないのだ。
 俺には何もできない。畜生、ちくしょう。
 「……泣いてます?」
 「……泣いてねーよ、腹が立ってるんだ」 
 目は充血していた。涙腺が焼き切れそうだ。怒りが暴走して頭がおかしくなりそうだ。なにやってんだ俺、レイジ本人がどうでもいいやって笑ってることでこんなにムキになって取り乱して恥ずかしい。
 でも、俺にはどうでもよくない。見なかったふりなんかできない、聞かなかったふりなんかできない大事なことだ。俺まで「どうでもいい」で済ましちまったらレイジの過去が報われない。
 どうでもよくなんかない。どうでもいいことなんか、世の中にない。
 瞼が真っ赤になるまでこぶしで目を拭う俺の隣でホセが立ちあがる。おもむろに立ち上がったホセが、肩のタオルに手をかけて顎をしゃくる。
 「立ちなさい、ロンくん」
 威圧的な声音でホセに促され、不承不承腰を上げる。どこかでドリブルの音が連続。俺の目の届かない中庭のどこかでレイジが鍵屋崎を相手にバスケをやってるんだろう。人の気も知らずにあの暇人め……いや、鍵屋崎を含めりゃ暇人どもか。
 俺と対峙したホセが、スッと黒縁メガネを外す。中庭を走っても乱れなかった七三分けの下、秀でた額と人のよさげな眉と柔和な目。顔のパーツはどれも変わりないのに、メガネをとっただけでがらりと印象が変わる。
 なにをやらせる気だ?
 不審げな俺をよそに、メガネを尻ポケットにしまったホセが正面を向く。柔和な温顔から精悍な顔つきへと変化を遂げたホセが、肩のタオルを握り締め、音吐朗々と宣言。
 「五日間の特訓の成果を見せてください」
 丁寧な物言いとは裏腹にホセの目には獰猛な闘志が漲り、四肢の端々まで精気が通った。メガネをとったホセはまるで別人だ。ホセの気迫に押されがちに、緊張の面持ちで身構える。ボクシングの基礎はホセに習った。足を開き、腰を落とし、重心を安定。右こぶしを前に、左こぶしを胸に引き付けたにわか仕込みのファイティングポーズ。ホセもおんなじポーズをとったが、年季が違うだけありさすがに決まってる。
 「なーんちゃって」
 ずっこけた。
 照れ隠しに頭を掻きながらファイティングポーズを解いたホセがのほほんと笑う。
 「今のはほんのお茶目、ロンくんの緊張をほぐそうという微笑ましい試みです。だいたい吾輩とまともにやりあったらロンくん死にますよ、友人をこぶしで撲殺なんて血なまぐさい友情の終焉はこりごりです。よろしいですか?」
 そこで一呼吸おき、表情を引き締めてホセが顔を上げる。仕切り直し、今度こそ本番。タオルの端をぐっと掴んだホセが、余裕の微笑を湛えて宣言する。
 「今からこのタオルを投げます。制限時間はこのタオルが落ちるまで、吾輩のパンチを一発もうけず見事かわしきってください。吾輩のパンチから逃げ切ったら合格、まともに受けてしまったら不合格」
 「そんなんでいいの?」
 拍子抜けした。てっきり正面からやりあうものとばかり思ってたのに、張り合いがない。少し残念だ。俺の声が不服げに聞こえたのか、微笑から苦笑へと表情を切り替えたホセが「ではいきますよ」と首の後ろからタオルを引きぬき、そして。
 青空高く、日の光を眩く反射し、タオルが舞いあがった。
 空高く浮上したタオルに反射的に目を奪われた俺の前髪が風圧に舞い上がる。突然のことで何がなんだかわからなかったが、半歩後退したのは幸いにして反射神経に恵まれてたから。1秒、いや、0.5秒でも遅ければ俺の顔面は鉄拳で抉られて鼻骨が粉砕されていた。 
 「!」
 目の前にホセがいた。 
 いつのまに肉薄したんだか全然気付かなかった。タオルに目を奪われた一瞬の隙にでたらめなバネで地面を跳躍したんだろう。間一髪、僥倖に恵まれて最初の攻撃はしのいだものの楽観できない。前髪を掠めたこぶしの速度は冷や汗もので、まともに食らったら最後俺の顔は足の下のビスケットみたいに破壊される。
 「ちっ、」
 鋭く舌打ち、ホセから少しでも距離をとろうと後退するが間合いを抜けることができず二撃目が来る。宙を擦過して肌にびりびりくる風圧を巻き起こした右こぶしが再び顔面に迫る。
 懲りずに正面から来やがった。馬鹿にすんなよ、と不敵にほくそ笑んで首を横に倒せば、最前まで顔があった位置をこぶしが通りぬける。
 やった、と安堵したのも束の間。顔面を狙ったこぶしはフェイント、獲物にとびかかる肉食獣の迅速さで懐にとびこんだホセが左こぶしを鳩尾に叩きこまんとする。本当の狙いはこっちか!
 「卑怯だぞ両刀使い!」
 「人聞き悪いです、終末の日が訪れるまでワイフ一筋が吾輩の信念!」
 「週末まで!?一週間しか持たねーのかよっ」 
 俺の言葉がホセに火をつけたようだ。口は災いのもと、って一体何度痛感したら気が済むんだよ俺!?タオルの滞空時間はあと何秒だとかのんきに上見上げて確認する暇はない、殺気のオーラを纏った鉄拳がすさまじい速さで顔やら脇腹を掠めてぞっと毛穴が縮む。脇腹を掠っただけで微電流の刺激が通った、まともに食らったら内臓損傷で吐血くらいはするんじゃなかろうか。ホセのこぶしは武器じゃない、凶器だ。今ならわかる、ホセが素手で五人殺したのは誇張された作り話でもなんでもないありのままの事実だ。
 怖い。このままじゃ、ホセに殴り殺されちまう。
 頭を屈め姿勢を低め、こめかみぎりぎりの距離でこぶしをやり過ごせば脳震盪を起こしそうになる。弾丸が至近距離を抜けるとまれに脳震盪を起こすことがあるという、あれとおなじ原理か。人体の限界を超越してやがる。
 「夫婦喧嘩も命がけだな!」
 「吾輩がワイフに手を上げるわけないじゃないですか、愛妻家を舐めないでください!」
 俺の減らず口は死ぬまで治りそうにない。この期に及んでホセを逆上させてどうするんだ、絶体絶命の窮地に追い込まれただけじゃないか。何とかすれすれでこぶしをよけてきたが、それも限界だ。そろそろ体力が尽きかけてる。ただこぶしをかわすだけで疲労困憊だなんて情けないが、ホセの移動速度は尋常じゃない。こぶしを見極める暇など与えられず次から次へと猛攻を仕掛けてくるから視覚を頼らず勘でよけるしかない。
 考えるな、感じろ。目で見るな、肌で感じろ。
 肉眼で捕らえるのは不可能だ、視覚情報が脳に伝達されるまでの一瞬の遅れが命取りだ。右に左に前に後ろに、腕の軌道を読んでめまぐるしく移動。顎先から滴った汗が地面に落ちるまでのほんの一瞬でホセが距離を詰め、殺るか殺られるかの攻防戦を展開する。集中力が限界に達してこめかみの神経が焦げ付く。びびったら負けだ、びびるんじゃない。そう自分に言い聞かせ、しっかり足腰を踏ん張ってその場にとどまり―
 ホセが。
 ホセが、目と鼻の先に出現した。 
 「覚悟はよろしいですか」
 敵への情けなど一片たりとも持ち合わせない冷酷な声でホセが言い、こぶしが顔面へー
 殺られる。
 固く固く目を閉じ、強く強く手を握り、顔面を襲う衝撃を覚悟する。が、いつまでたっても衝撃は訪れず、俺の顔面は原形をとどめたまま。鼻も顎も歯もなにひとつ欠けてない。
 おそるおそる目をこじ開ければ、鼻の先端でこぶしが停止していた。腰が抜け、その場にへたりこんだ俺の膝の上に真っ白いタオルがのっかっていた。ふわりと落下したタオルを一瞥、こぶしを引っ込めたホセがさっぱりした顔で笑う。
 「ちょっとからいですが、合格点をあげましょう」
 「………ごうかくだあ?」
 放心状態でホセの言葉を反芻する。今合格ってぬかしやがったのかこのラテン七三分け黒縁メガネは、人を撲殺未遂して何様のつもりだ。ああそうか、鬼コーチ様さまか。
 安堵のあまり腰が抜け、しばらくその場から立てなかった。どうにかこうにか全部のパンチをしのぎきった。俺の反射神経と五日間の特訓成果と多分に僥倖があってこそだ。試しに頬に触れてみれば火傷しそうに火照ったかすり傷ができていた。
 ぞっとした。
 「……レイジがおまえのことバーサーカーって呼んだのは、そのまんまの意味だったんだな」
 憎まれ口にも気合が入らない。お情けで合格点を貰えたとはいえ、ホセのこぶしの威力のまえじゃ負け犬の遠吠え。バーサーカー、狂戦士。ホセにはぴったりの二つ名だ。   
 「吾輩のパンチを全部よけられたのなら次の試合も心配要りません、勝利を信じましょう。吾輩このホセが五日間徹底的に地獄の特訓メニューを手ほどきしたのです、これで負けたら拳骨ぐりぐりの刑です」
 「お前にやられたら脳挫傷で無難に死ぬ」
 黒縁メガネをかけ直したホセが、両手をこぶしにして虚空で回す。ため息をつき、ようやく立ち上がった俺になまぬるい眼差しを投げてホセが言う。
 「レイジくんに報告してあげなさい、ホセの特訓から無事生還したと。吾輩のパンチをすべてよけきったと知れば驚きますよ、きっと」
 レイジが喜ぶ顔がまざまざと脳裏に浮かび、俺はそっぽを向いた。
 「……気が向いたらな」 
 やっぱり俺は、レイジの笑顔を疑いたくない。
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