少年プリズン

まさみ

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二百七十七話

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 数時間が経過した。
 「…………遅い」
 遅い。なにをしているんだ。話し合うくらいすぐ済みそうなものなのに時間がかかりすぎる。腕組みして医務室前の廊下を行き来しながら苛立ちをこめて吐き捨てる。
 僕の説得が功を奏してレイジがロンとの話し合いを承諾してからもう悠に四時間が経過して夜明けも近いというのにレイジはさっぱり出てくる気配がない、医務室のドアの向こうはしんと静まりかえっている。
入院中の患者も寝静まっているのか不気味な静けさに支配された医務室の様子を探ろうとドアに耳を近づけたい誘惑にかられたが、こんなみっともないところを深夜徘徊中の囚人か見まわりの看守に目撃されたら一大事だ、僕のプライドに関わると懸命に自制する。
 落ち着け鍵屋崎直。レイジだって子供じゃない、感情的にならずに話し合いができるはずだ。
 相手は怪我人だ。ロンは肋骨を骨折した他に全身十三箇所の打撲傷を負って入院中の身でまさかそんな怪我人に感情的になって暴力を振るうほどレイジは短慮ではない。
 ……と信じたいが、ほんの数時間前、リングでの荒れようを間近に目撃した手前は断言できない。ここまでレイジに肩を貸して連れてきた責任もあるし、安田に身柄を引き渡すまでは見張っておく義務があると医務室前の廊下にたたずみ、無為に過ぎる時間にひたすら耐える。
 レイジは明け方には独居房へと強制連行される運命で、今夜を逃せばロンと和解するチャンスはない。これはレイジに与えられた最後のチャンスだ。いや、すでにレイジとロンだけの問題ではない。ことは僕たち四人の今後の運命を左右する難題だ。僕たち東棟の四人は運命共同体、だれかひとり欠けてもペア戦100人抜きは成し遂げられない。
 ロンとサムライが負傷して戦線離脱しても関係ない、僕たち四人が信頼で結ばれていなければ遠からずチームの連携は崩壊して敗北を喫してしまう。
 信頼、か。
 いつのまにかその言葉を使うことに抵抗がなくなった自分に苦笑する。思えば僕も変わったものだ。進化したのか、退化したのか。成長したのか、おちぶれたのか?
 ……わからない。天才の癖にわからないことがあるなどという現実は認めたくはないが、考えても考えても思考が空回るばかりなので答えは保留する。 
 医務室のドア横の壁に凭れ、青白い蛍光灯の下、物思いに沈む。
 いつだったか、サムライは僕の手を握り「自分を頼れ」と言った。自分を信頼するのがいやなら利用しろ、と。僕は今、サムライを信用している。信頼している。あれほど他人に心を開くのに抵抗を覚えていたのに、今はドアで隔てられていても、こんなにもサムライを身近に感じている。
 レイジもきっとおなじだ。ロンはレイジにとって、初めて心を許せた人間なのだろう。素の自分を無防備に晒せた人間なのだろう。だからあんなにもロンを大切にしている。ロンに依存している。献身的なまでにロンに愛情を捧げて報われなくても報われなくても尽くそうとしている。
 「みっともないな」
 みっともない男だ。ぶざまな男だ。ロンを振り向かせようと必死なレイジの醜態は正視に耐えなかった。僕は心の底からレイジのことを軽蔑していた。笑い声がうるさくて下品なスラングを吐いて音痴な鼻歌を口ずさんで人の気も知らずいつもいつでも軽薄に笑っていて、本当に救いようのない見下げ果てた男だと侮蔑していた。
 でも、意外とそんな彼のことが嫌いじゃない自分に気付いた。
 レイジは少し僕に似ている。僕はレイジの中に僕自身を投影していた。恵に献身的な愛情を捧げる僕自身。サムライに依存する僕自身。だがそれだけじゃない、僕は何故だか知らないがレイジを放っておけなかった。笑い声がうるさくて下品なスラングを吐いて音痴な鼻歌を口ずさむ軽薄な笑顔の王様を軽蔑していた癖に、いつ頃からか、僕はそんなレイジを好ましく思い始めていた。
 僕が彼に友情を抱いてるとは思いたくない。だが、さっき、レイジに抱擁されお前は最高のダチだと言われた時、不快感よりも先に戸惑いをおぼえてしまったのも事実だ。戸惑いだけではない。気恥ずかしさ、とでもいいだろうか。あまり体験したことがない感情だからうまく説明できないが、とにかく僕は、この半年間を共に過ごすうちにレイジの笑顔に対する嫌悪感が薄れ始めていたようだ。
 レイジはロンの隣だと、本当にいい顔をして笑う。
 あの笑顔がもう一度みたいと純粋に思った。    
 ……それにしても遅い。いったいなにをやってるんだ。話し合いにしても長すぎる。ひさしぶりに再会したのだからお互い照れもあるし積もる話があるのもわかるが、肌寒い廊下で待たされている僕の身にもなれ。
 深夜の廊下は寒い。青白い蛍光灯の光もひんやりとして、足元から冷気が這いあがってくる。
 くしゃみをした。
 「………」
 少し警戒して廊下を見まわす。幸い人はいなかった。くしゃみをしたところを人に目撃されるのはばつが悪い。なんとなくそわそわしながら、ずり落ちてもない眼鏡のブリッジを押し上げる。何回この動作をくりかえしたことだろう。我ながら無意味な行為だ。
 二の腕を抱き、壁に背中を凭せる。正確な時間はわからないがもうすぐ夜明けがきてしまう。刻々と近付く夜明けに焦りながら、壁越しに気配を探る。時折患者が寝返りを打ちスプリング軋む音と衣擦れの音、歯軋りと鼾の音が聞こえてくる以外は静かなものだ。待て、話し声がしないのは奇妙だ。ロンとレイジはなにをしている、もう話し合いは終わったのか?
 「……まったく、どこまで世話をかけるんだ」
 ぼやきながらノブに手をかけまわそうとして、寸前で思いとどまる。仮にロンとレイジが話し合い中なら、第三者の無粋な介入は避けたい。プライバシーの侵害だ。レイジとロンのプライバシーに配慮するならこのノブは引くべきではないと躊躇するが、中の様子がわからない以上実際この目で見てみるしかないのも事実。 
 どうしたらいいんだ?
 引こうか引くまいか苦悩する僕の背中に、ふいに声がかかる。
 「どうしたんだね」
 「!」
 一瞬心臓が停止した。
 反射的にノブから手をはなして振り向けば、見慣れた顔に直面する。白衣に身を包んだ医師がいた。白くなりはじめた眉を怪訝そうにひそめて微妙に強張った僕の表情を窺っている。
 「こんなに深夜に医務室に何の用だい。怪我でもしたのかね」
 「いや、僕は無事だ」
 たしかにペア戦では照明の破片を受けて切り傷を負ったが、わざわざ医務室で手当てをうけるほどの怪我じゃない。即答すれば、ますます不思議そうな顔をした医師が何事か思い至ったようにぽんと手を打つ。
 「そうか。なるほど。感心だ。見かけによらず友人思いな子ではないか」
 「……は?」
 医師の発言に不吉な予感が騒ぎだす。この耄碌医師は何かとてつもなく不快な誤解をしてる気配がする。 ドアを背に身構えた僕を微笑ましげに見やり、わかっているから皆まで言うなと鷹揚に頷く。
 「こんな深夜に友人の怪我を心配してこっそり見舞いにくるなんて、心の優しい少年だ」
 ……予感が的中した。
 「不愉快な誤解をするな。僕が貴重な睡眠時間を割いてまで友人の見舞いにくるような奇特な人間だとでも思っているなら誤解も甚だしい、買いかぶりすぎだ。鎮静剤を打たれたサムライは今ごろぐっすり眠っているはずだ、麻酔も受けつけない頑固者なら薬に免疫もないだろうし僕は良心の呵責なく彼を放置できる。
 まあ、老齢のためそろそろ視力が下降しているあなたが鎮静剤の量を間違えて注入してしまったのなら、こんな半端な時間にサムライが起き出してる可能性も否定できないが、その場合は単純な医療過誤で僕が責任をとる義務はない」
 医師の誤解をとこうとむきになって反論する。僕がサムライを心配して貴重な睡眠時間を削ってまで見舞いにきたと思われているなら不愉快甚だしい、ひどい侮辱だ。それではまるで僕がサムライにべったり密着してなければ生きてけない粘着質な人間みたいではないか。医師の発言は新手の人格攻撃とも解釈できる。
 プライドに賭けて反駁すれば、僕の剣幕にたじろいだ医師が気圧されたように一歩二歩と後退する。 
 「わかった、君が太股を縫った友人を心配して足を運んだわけではないのはよくわかったよ。じゃあ一体、何故こんなところにいるんだね」
 「それは……」
 墓穴を掘った。医師にあらぬ誤解をかけられ感情的に反論したのが裏目にでた。
 レイジは現在医務室にてロンと話し合い中だ。僕の言動が原因で第三者の詮索を招いて彼等の話し合いを妨害する事態はなんとしても避けたい。僕にも一応、見張り役の責任というものがある。
 咳払いし、毅然と顔を上げる。平静を装って医師と向き合い、口を開く。
 「あなたに質問したいことがあってここにきた」
 「質問?」
 はて見当もつかないと医師が首を傾げるのを無視し、一息に言う。
 「ヒトペストは腺ペスト・敗血症ペスト・肺ペストに大別されるわけだが、肺ペストの特徴として挙げられる症状四つのうちどうしても最後のひとつが思い出せず寝つけなくなってしまった。こんな砂漠のど真ん中の刑務所に隠居してるヤブ医者でも医者には違いないあなたなら、肺ペストの症状最後のひとつを知ってるに違いないと待ちうけていた。
 強烈な頭痛、嘔吐、39 ~41°C の高熱、急激な呼吸困難……さあ、肺ペストの四つの症状うち残るひとつはなにかすみやかに答えて安眠を与えてくれ」
 「鮮紅色の泡立った血痰を伴う重篤な肺炎じゃよ」
 ……医師はこともなげに言った。さらりと。
 まずい、非常にまずい。僕はどうやらこの医師を侮っていたようだ。東京プリズンにいるくらいだから大した医療知識ももたず腕もたいしたことはないヤブ医者に違いないと侮って、できるだけ長く足止めするために難問をふっかけたつもりがあっさり答えられてしまった。
 どうしよう。
 いや待て落ち着け鍵屋崎直、まだ策はある。できるだけ時間を稼げ、レイジとロンの話し合いが終わるまではなんとしても部外者の立ち入りを阻止しなければ。医務室のドアを体で塞いで医師と体面した僕は必死に頭を悩ませ、緊張に乾いた唇を舐め、話を続ける。
 「……そうだった。僕としたことが、そんな初歩的な病理知識を忘れるなどどうかしている。少し疲れがたまって頭の回転が鈍っているのかもしれない。由々しき事態だ。ついでに二・三聞きたいことがあるのだが、特に有効なペストの特効薬として挙げられる四種は」
 「ストレプトマイシン、テトラサイクリン、オキシテトラサイクリン、クロラムフェニコール」
 ……返答所要時間0.2秒か。侮れない男だ。医師に対する評価を改めなければならない。動揺をしずめるためブリッジに指を触れ、恬淡と取り澄ました医師の表情を観察する。存外この医師は無能ではない、どころか豊富な知識量に限れば有能な部類だ。初対面の印象が最悪なせいか僕は今の今まで医師に好感情を抱いていなかったが、僕の質問に即答できる実力は正当に評価しなければ。 
 焦慮に揉まれて視線をさまよわせながら次の話題をさがす。そろそろ医師も挙動不審な僕を怪しみはじめたらしく、目に警戒の色を浮かべてじっとこちらを凝視している。
 非常にまずい展開だ。
 「では質問を変えよう、これは病理学というより世界史の分野だがはたして答えられるか?中世ヨーロッパで猛威を振るい黒死病と恐れられたペストの最初の犠牲者がでたのは西暦何年と何月何日のどこ……」
 「いい加減入らせてもらうよ。風邪をひきそうだ」
 僕の長話に飽いたのか、医師が強引に僕をどかしてドアを開けようとする。
 「待て、話は終わっていない!逃げるのか卑怯者め、僕は西洋史とペストとの関連性を問うているんだ!あらゆる病理知識に通じた医師たるものペストがいつどこで発症したのか頭に入れておく資格が……」
 医師は僕の話など聞かずにドアを回し、勝手知ったる医務室へと入ってしまった。人の話を最後まで聞かない老人は度し難い。白衣の背中を向けた医師に舌打ちし、続いて医務室へと足を踏み入れる。一足先に入室した医師は壁のスイッチを手探りしてあかりをつけようとしたが、ふと異変を悟り室内を見まわす。
 「?」
 「どうした」
 心臓がにわかに早鐘を打ち始める。暗闇に沈んだ室内には、衝立に仕切られたベッドが整然と並んでいる。すべてのカーテンが敷かれているため個別ベッドの様子は窺えないが、殆どの患者は薬がよく利いてぐっすり安眠してるらしく、のんきな鼾が聞こえてくる。
 レイジはどこだ?
 焦燥に駆り立てられ、白い衝立がぼんやり浮上する闇を見まわす。ロンのベッドはサムライの隣、あそこだ。開け放たれたドアから射し込む蛍光灯の光を背にロンのベッドを透かし見るが、話し声は聞こえてこない。おかしい、話し合いはもう終わったのか?それなら何故さっさとでてこないんだ、寒い廊下で僕を待たせておいてと憤慨する。
 「……妙だな」
 独白した医師が、スイッチから手をはなし、迷いない足取りで医務室を突っ切る。医師が毅然たる足取りで歩み寄った先には、衝立に遮られたひとつのベッド……ロンのベッドだ。
 「ま、待て!話はまだ終わってないぞ、探求心旺盛な僕はペストの第一犠牲者の追求をあきらめたわけでは……」 
 「ペストの第一犠牲者が確認されたのは1347年9月、シチリアの港じゃよ」
 ……脱帽だ。さすがの僕も二の句が継げない。世界史にまで詳しいなんて予想外だった。
 ほんの一瞬だが医師への尊敬の念を抱いてしまったことに対し深刻な自己嫌悪に陥る。俯き加減に医師を追えば、本人は衝立のカーテンに手をかけ今まさに開こうとしていた。
 「!だめっ、」
 プライバシー侵害で訴えられるぞ、という間抜けな言葉が喉元まで出かかった。
 シャッ、と一気にカーテンが引かれ、医師の背後から射した光がベッドを過ぎる。
 「………」
 医師と肩を並べて立ち、あ然とした。
 ロンとレイジが寝ていた。ふたり折り重なり、この上なく幸せそうな顔をして。
 ロンの上になったレイジは、ロンを抱きしめる格好で背中に左腕を回し、包帯を巻いた右腕で頭を抱いていた。レイジの下敷きになったロンは何故か少しも寝苦しそうではなく、無防備に安心しきった寝顔を晒してレイジの腕に身を委ねていた。  
 かすかに規則正しい寝息が聞こえてくる。
 ふたり折り重なり睡眠をむさぼるロンとレイジの、安らかな寝息。 
 「…………………なんて人騒がせな」
 心配して損をした……今のは言葉の綾だ。実際は心配などしてない、僕がレイジを心配する理由が見つからない。レイジとロンの寝顔を見比べてるうちに緊張がとけ、肩と膝が弛緩して尻餅をつきそうになった。
 「よく眠っているね。起こすのは可哀想だからこのままにしておこう」
 医師が苦笑する。漸く気を取り直した僕は、あらためてロンとレイジの寝顔を見比べる。ふたり寄り添いあって、お互いの体に手を回して睡眠をむさぼる二人の姿は客観的には微笑ましい光景だった。レイジの髪や顔や服に乾いた血が付着していなければもっと微笑ましかったろう。
 ペア戦に二試合続けて出場したレイジは、とっくに疲労が極限に達していた。いつ倒れてもおかしくないのを気力で持ち応えていたのだ。ロンを抱いたまま眠りこけるレイジの様子から察するに、ロンと無事仲直りできた途端に気が緩んだのだろう。
 「……医師、質問だ。何故異変に気付いた」
 膝が脱力しそうになるのを気力で支え、さっきからひっかかっていた疑問を述べる。医師は電気を点ける前から異変に気付き、一呼吸もおかずにロンのベッドに直行した。その確信の根拠はなんだと不審の眼差しを向ければ、医師が謎めいた笑みを浮かべ僕の足元へと視線を落とす。
 つられて自分の足元を見る。何の変哲もないスニーカー。一体これがどうし……待てよ。
 そこまで考えてハッとする。
 そうか、わかったぞ。謎が解けた。
 「靴跡だな?」
 「ご名答」
 我が意を得たりと医師が微笑む。種を明かしてみれば驚くにも値しない単純なことだ。医務室に来る前、僕はレイジを中庭へ連行し、賭けと称してネットにボールを入れる実演をしてみせた。中庭にでたのだから、当然靴裏は汚れる。ということは、医務室の床にレイジの靴跡が付着する。靴跡の道順を辿れば必然侵入者の居所にたどり着く寸法だ。
 ……こんな単純なことに気付かないなんて本当に僕はどうかしてる。仮にも古今東西の推理小説を読み漁り名探偵の思考過程を完全になぞったはずなのに、推理で医師に負けるなんてプライドの危機だ。
 「ちなみに聞くが、推理小説は好きか?」
 「いや。見ればわかるだろう?」
 医師が顎をしゃくった方角を振りかえれば、開け放たれたドアから蛍光灯の光が射しこみ、医務室の床を明るく照らしていた。そして光の中には、鮮明に靴跡が浮かび上がっていた。  
 ……これは何かの間違いだ。僕が推理力で医師に負けるなどあってはならない絶対に。仮に事実だとしても認めない。眼鏡のブリッジに触れ、心の中で言い訳をしながらレイジとロンの寝顔を見下ろす。
 「長かったな」
 つまらない感慨が、おもわず口から零れた。
 本当に、長かった。だがこれで大丈夫だ。ふたりの話し合いの内容は知るべくもないが、こうして抱き合って寝ているということは、両者納得のいく結論に達したのだろう。ふと、レイジの右袖が肘までめくれて、素肌の一部を覆った包帯が露出してるのが目に入る。薄く血の滲んだ包帯が痛々しくて、そこだけ微笑ましい光景から浮いているようで、足音を忍ばせベッドに歩み寄った僕はそっと手をのばしてレイジの右袖を引き上げる。慎重に慎重を期して、ふたりを起こさないよう細心の注意を払って。
 「……優しいね」
 振り向く。背後に立った医師が、意外げな表情を覗かせていた。
 「誤解するなよ。着衣の乱れが目障りだっただけだ」 
 見られていたなんてばつが悪い。そっけなく吐き捨て踵を返した途端、
 『Thanks』
 振り向く。ロンの上にだらしなく覆い被さったレイジが、口元に弛緩した笑みを浮かべていた。
 なんだ寝言か。寝ながら礼を言うなんて行儀が悪い。
 「……礼なら素面で言え。無意識で礼を言われても対処に困る」  
 馬鹿らしくなって、今度こそレイジとロンに背を向ける。どうせ朝まで起きないだろう。明け方、安田が迎えにくるまで寝かせてやろうと安眠に配慮してカーテンを閉めれば、衝立に仕切られた隣のベッドが目に入る。
 サムライは寝ているのだろうか?
 「……鍵屋崎?」
 僕の心を見ぬいたように、衝立越しの呟きが落ちる。心臓が跳ねあがった。衝立に遮られてるのに何故僕だとわかったんだ、超能力者か?動揺した僕の隣で、医師がいらぬ茶目っ気を覗かせる。
 「ついでだ。話してきたらどうだね」
 「冗談じゃない。僕はこの足で房に寝に帰る」
 「医師命令だ。患者を起こした責任をとってもらおう」 
 ……なんでそうなるんだ。
 さっきはこれ以上廊下にいたら風邪をひいてしまうと人の制止も聞かずにいそいそ医務室に入ったくせに、今は勝手に気を利かせていそいそ出ていこうとしている医師に辟易する。人の話を聞かない年寄りはこれだから始末におえない。が、寿命はもって十年かそこらの老人の好意をはねつけるのも気が引ける。
 仕方がない。
 あえて医師には抗議せず、ため息まじりにカーテンを引く。バタンとドアが閉じる音がした。どうやら今現在起きているのは、サムライと僕二人だけのようだ。
 「いつから起きていた?」
 「………最初からだ。レイジがここに来た時には起きていた」
 「鎮静剤も効かないのか。どういう体をしてるんだ君は、一回解剖してみたいな」
 腕を組んで皮肉を言う。ベッドに伏せったサムライは、行儀よく毛布にくるまり天井を仰いでいた。 
 だが、様子がどこかおかしい。
 「どうした?」
 「……いや。ただ、ついさっきまで身の置き所がなかっただけだ」
 「レイジとロンの話を盗み聞きしていたのか」
 「無礼なことを言うな、断じて盗み聞きなどではない……隣にいたからたまたま聞こえてしまっただけだ。一部始終がな」
 わざとらしい咳払い。闇に紛れてよく見えないが、気のせいか頬が紅潮していた。
 変なサムライだ。
 「全部聞いてたならいまさら説明するまでもないが、レイジとロンは無事仲直りした」
 「ああ」
 「よかったな」
 「ああ」
 サムライの返答はそっけないほどに短く、なんとなく沈黙が落ちる。 
 不意にサムライが口を開いた。
 暗闇に沈んだ天井を、揺るぎ無い眼光を宿した目で見上げて。
 「………レイジが憎しみを抑えつけられなくなったら、俺が止める」
 サムライは、静かに決意を口にした。
 「そうか」
 医務室の外にいた僕はロンとレイジのあいだで話し合われたことを知らない。サムライが聞いた一部始終を知らない。だが、なんとなく察しはついた。
 レイジはだれよりも臆病な王様だ。その優しさは時として、ひとりよがりで残酷だ。
 だが僕は、そんなレイジがそれ程嫌いではない。きっとサムライもおなじ気持ちだ。だからこそ今ここで、僕を証人にして、友のために最善を尽くすと誓いを立てた。
 命を預けられる仲間のために、命を賭けて仲間をとめると。  
 闇に沈んだサムライの寝顔を眺めていると、胸に温かい感情がこみあげてくる。とても満ち足りて穏やかな気持ちに浸りながら、僕は恵のことを思い出す。
 恵。今は遠く離れた妹。僕の大事な家族。  
 恵、元気にしているか。僕には友人ができた。寡黙で不器用で世話の焼ける友人だ。その友人はとても思いやり深くて、とても仲間を大切にする時代遅れのサムライだった。
 そんな彼を、とても好ましく思う。 
 「写経が趣味のくせに日本語が不自由だな。そこは一人称複数形にすべきだろう」
 ベッドに横たわったサムライがうろんげにこちらを向き、物問いたげな視線を投げかける。
 片腕に点滴をさしたサムライを見下ろし、軽く息を吸い、誓いのようなものを口にする。
 「レイジが憎しみを抑えつけられなくなれば、『僕たち』が止める」
 「直………」
 闇の帳の向こうでサムライの目が意外げに見開かれる。ため息まじりの嘆声を発したサムライが、感に堪えかねたように呟いた。
 「笑っているのか?」
 「え?」
 意外な指摘に戸惑う。笑っていた?この僕が?
 「……僕は笑っていたのか?」
 全然気付かなかった。でもたしかに今僕は満ち足りた気分で、心からの安息を覚えていて、サムライが隣にいれば何も恐れるものはないと、レイジやロンがいれば何も欠けるものはないと思えてそれで。
 笑ったのか。
 そうか。僕でも笑えたのか。
 本当に嬉しいとき、喜ばしいとき、笑顔は自然に零れるものだ。偽物と本物に分ける意味はない。
 本当に嬉しくて楽しくて心から満ち足りて笑っているときは、自分自身、笑顔を浮かべていることに気付かないものなのだ。
 ロンの隣のレイジがそうだったように。 
 おもわず頬に手をあて表情筋の動きを確かめた僕をしげしげ眺め、枕に頭を預けたサムライが闇の中で砕顔する。
 そして。
 ただ、あたりまえのことをあたりまえに言うように、はじめて僕の笑顔を見た感想を口にした。
 「笑うと可愛いんだな」
 「!?なっ…………」
 頬に血が上る。ベッドに横たわったサムライが滅多にない光景を目撃した優越感だか何だかで満足げに口元を緩めているのに反感が沸騰し、氷点下の眼差しで射貫く。
 「鎮静剤をうつか?致死量に達するほどに」 
 「ご免被る」
 噛み合わないやりとりを続ける僕らの背後では、ロンとレイジの寝息がいつまでも続いていた。
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