少年プリズン

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三百二十九話

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 「いつまでもぶーたれてないで機嫌直してよロンロンー」
 ロンは不貞腐れたまま僕と目を合わせようともしない。
 思春期の男の子の心理は僕だって十分わかってるつもりだ。ロンは擦れた見かけによらず純情だから自慰見られたショックから立ち直るには時間がかかるだろう。
 でも逆恨みされちゃたまんない。
 僕は私用で医務室にやってきて、ヨンイルが寝てるベッドと間違えてカーテン開けたら偶然ロンがいたんだ。枕に顔突っ伏して尻を上げた破廉恥なポーズで、ズボンの股間に手え突っ込んで、ナニやってるか一目瞭然の光景だった。無防備にカーテン開けてびっくり仰天、おったまげた。ついさっき食堂とびだしたロンがこんなトコでこんなコトやってるなんて……レイジのベッドに寝転がって枕に顔埋めて匂い嗅ぎながら自慰に耽ってるなんて思いもしなかった。
 喉元に込み上げる笑いを噛み殺すのに苦労する。
 ロンは迂闊だ。きっちりカーテン閉めきってるからって安心して自慰をおっぱじめたんだろうけど、よりにもよって僕に目撃されるなんて運が悪い。悪すぎ。ロンは僕の隣で膨れっ面してる。レイジと喧嘩別れした直後にオナニーバレたんだ、そりゃ居心地悪いだろう。
 泣きっ面にハチ、踏んだり蹴ったり。
 ま、発情期の猫がいつどこでさかろうが僕には関係ない。愉快な見世物だった、位のお気楽な感想しか抱かない。
 僕がカーテン開けた時のロンの顔ときたら傑作だった。股間に手え突っ込んだ恥ずかしいポーズで、男誘うように尻上げて、こっち向いた顔は真っ赤だった。畜生カメラ持ってくりゃよかったと心の中で舌打ちしたのは言うまでもない。カメラ持ってたら盗撮してバラまいてやったのに……
 レイジの枕に顔埋めて物欲しげに息荒げてるロン、なかなか色っぽかったのに。
 写真撮っときゃ高く売れたのに、と惜しくなる。一枚千円にはなったよ?
 そんな本心はおくびにもださず、甘ったるい猫なで声で機嫌をとる。
 「ロンロンだって思春期の男の子だもん、そりゃ下半身がむらむらむずむずして下着の中に手え伸びることだってあるよ。わかるよ、僕だって男の子だもん。一人エッチくらいしたことあるさ」
 「お前趣味と実益兼ねて体売っててまだ足りないのかよ」
 「それとコレとは別。男で得られる快感と右手で得られる快感は別物だし」
 わかってないなあと失笑、冴えないツッコミを鼻であしらい右手を振る。
 「自慰見つかったくらいで激しく落ち込まないでよ、そんなこの世の終わりみたいな顔で……プラスに考えようよプラスに。見つけたのが僕でよかったじゃん、これが凱だったら一大事だよ。昨晩レイジに抱かれただけじゃまだ足りずにさかってるトコ見られたらよーし俺が慰めてやるってズボン脱ぎかねないもん、あの短絡バカ。凱は下半身でしか物考えないからさ」
 「どーせ言いふらすくせに、音速で」
 「言いふらさないって。信用ないなあ」
 笑顔でロンを欺いて、言いふらすに決まってるじゃんと心の中で舌を出す。こんな面白いネタ広めなくてどうするの、僕だけ独り占めなんてもったいない。肩を竦めた僕の態度が軽薄に映ったのか、ロンがますますむきになって食い下がる。
 「言っとくけど俺がここに来たのはレイジと顔合わせたくなかったからで、レイジの匂い辿ってベッドに潜り込んだわけじゃないぜ。房にまっすぐ帰りゃじき飯終えたレイジと顔合わしちまうし、また喧嘩になる前に頭冷やしてこうって寄り道して……」
 「はいはいはい」
 言い訳は結構。ロンは口では意地張っててもレイジのことが大好きで、体の火照り冷ますためにベッドに身を横たえてたら悶々として股間に手が伸びたとつまりそういうわけだ。悩めるお年頃だね。したり顔で頷けばロンの表情が険悪になる。
 「レイジのこと想像しながらヌいてたわけじゃねえからな、あいつは関係ねーから、昔抱いた女が股おっぴろげてるとこ想像したらたまらなくなって!」
 「ロンおなかすかない?」
 男の名誉に賭けて反論するロンを醒めた目で一瞥、ポケットに手をやる。
 ズボンの尻ポケットに突っ込んでたのは銀紙に包まれた食べかけの板チョコ。クスリ漬けで砂糖漬け、血管にガムシロップが流れてるんじゃないかって甘党の僕はいつでもどこに行くにもお菓子を持ち歩いてる。レトロな箱入りのキャメルだったり可愛くラッピングされた飴だったり日によってさまざまだけど、今日はチョコ。
 僕のこと贔屓にしてる看守からフェラチオのご褒美に貰ったハーシーのチョコレート。
 ポケットに手を突っ込んでまさぐれば、銀紙が擦れる音がする。
 隣に座った僕がこれ見よがしにポケット探り出したのにも気付かない鈍感なロンは、夕飯中断して食堂飛び出してこなきゃいけなかった怒りがぶりかえしたのか、こぶしで膝を殴る。
 「腹ぺこだよ!レイジの阿呆が飯の最中にとんでもねえこと暴露してくれたおかげで好物の古老肉も麻婆豆腐も残してきちまった!ああくそもったいねーことした、飯残すなってガキの頃からお袋に口酸っぱくして言われてたのに!」
 食い物の恨み恐るべし。膝にこぶしを置き、激しい後悔に苛まれて歯噛みするロンへと銀紙剥いだ板チョコを咥えて近付ければ、本人がぎょっとする。
 「何の真似だよ?」
 「おすそわへ」
 チョコを咥えてるせいで発音が不明瞭になった。ひょいと身軽にベッドに飛び乗って膝を揃えた僕は、顔を前に突き出した挑発的なポーズで誘惑する。
 「夕飯残してきたからおなかすいてるっしょ。特別にコレあげるよ。僕が夜食がわりに大事にとっておいたハーシーのチョコレート。すごいっしょ、贅沢品。チョコレートなんて食べるの外にいた頃以来じゃないの?」
 ロンが物欲しげに喉を鳴らす。どうやら図星だったみたい。東京プリズンじゃチョコなんて滅多に手に入らない垂涎の舶来品だ。空腹のロンは喉から手がでるほどチョコレートが欲しい癖に、生唾呑み込んで平静な顔を装ってる。
 「そっちから少しずつ齧ってってよ。僕とちゅってキスしたら終わりね」
 「悪ふざけはやめろ。ただでさえ空腹でイラついてんのに、お前の赤毛一本残らず毟りたくなる」
 僕の魂胆を見ぬいたロンが不機嫌極まりない顔と声で唸る。ちぇ、のり悪い。ほんのお茶目じゃないかと口を尖らせてチョコレートを手に取る。仕方ない、房に持って帰ってビバリーと半分こしよ……と見せかけて。
 「どわっ!?」
 両手でロンの顔を掴んで引き寄せる。
 「やせ我慢は体に悪いよ、ほんとは欲しいんでしょ食べたいんでしょチョコ。いいよ分けたげる、ふたりで美味しく半分こしよう。はい、あーん」
 「あーんじゃねえっ、やめろ顔近付けんな気色わりィ!?」
 ロンがじたばた暴れる。往生際悪いヤツ。ま、だからこそからかい甲斐あるんだけどとにんまり微笑みつつ腕に渾身の力を込める。ロンの顔をむんずと掴んで急接近、力づくで顎をこじ開けてチョコレートを食わせようと試みる。ロンは本気で嫌がって全力で抵抗する、手足を振りまわして僕の顔に唾かけて押しのける。
 「ひとの親切無駄にする気?腹ぺこ野良猫のロンにチョコお裾分けしてあげるんだからもっと喜んでよ、いい子だからお口開けて、あーん」
 「あーんじゃねえっての、だったら普通に分けろよわざわざ口に咥えて食わせる意味どこにあんだよ!?お前絶対俺おちょくって楽しんでんだろリョウ、ハーシーのチョコみたいに安手の男娼が調子のりやがって!」
 「あったりまえじゃん。ロンてウブで奥手だからおちょくり甲斐あって面白いんだよねー。あ、でもそれだけじゃないよ。ロン今手え汚いじゃん、人には言えない場所揉み揉みしてたから。だから特別に口移しで……」
 「ちゃんとズボンで拭いたっつの!!それにまだ出てなかった、って何言わせるんだよ!?」
 ハーシーのチョコみたいに安手の男娼?上等じゃん。必死の形相で奮闘するロンの腰に馬乗り、顔を近付ける。後ろ向きにベッドに倒れたロンを見下ろして勝利を確信、可哀想なロンの顔を両手で挟んで固定して口をこじ開けて……
 「がんばれロンロンー」
 「応援いらねえから助けろ道化!」
 ベッドに胡座をかいたヨンイルはざらざら音鳴らして丸薬を玉に流し込む作業に没頭しててこっちに目も向けない。マウントポジションとられて劣勢のロンが怒鳴ったところで顔を上げようともしない。我関せずの淡白な態度に激怒したロンが罵詈雑言を浴びせ……
 「その辺にしときなさい」
 「!」
 いいところで邪魔が入った。
 突然体が浮いた。誰かが僕の首の後ろをひょいと摘んで軽々吊り上げたのだ。ベッドに肘ついて上体起こしたロンがあ然と見守る前で宙に吊られた僕は、恨めしげに後ろを振り返る。
 「ロンくんが嫌がってるでしょう。いかに善意からでた行為とはいえ無理強いは感心しませんね」 
 背後にいたのはホセだ。片腕一本でらくらくと僕を吊り下げて片手を腰にあてたお説教のポーズが妙にキマってる。黒ぶち眼鏡の奥の目を柔和に細めて、口元には笑みを浮かべてるのにこのどす黒い威圧感はなんだ?僕がいくら体重軽いからって最低35キロはあるのにひょいと片手で摘み上げた怪力にあっけにとられる。おいたした猫の子じゃあるまいし。
 「わかりましたか。お返事は?」
 「はーい。反省しまーす」
 ホセが相手じゃ形無しだ。隠者の怒りにふれて人間サンドバックにされるのは慎んで辞退したい。
 ホセが「よろしい」と満足げに頷いて僕を解放、スニーカーの靴裏が床に着地。
 安堵に胸撫で下ろした僕からロンへと視線を転じ、ホセがやんわり宥める。
 「ロンくん、レイジくんの無神経も今回ばかりは許してあげてはどうでしょう。彼とて悪気はなかったはず、今頃はきっと後悔してるでしょう。せめて土下座するチャンスくらいは与えてやってくれませんか」
 「土下座したって許してやんねーよ。ちょっとは懲りりゃいいんだ、あの尻軽」
 ベッドに胡座をかいたロンがむくれる。「そこをなんとか」とホセが根気強く説得、微妙な沈黙を挟んで渋々頷く。誠心誠意ひとに頼まれるとムゲにできないのがロンの長所で弱点だ。ホセはロンの扱い方をよく心得てるなと感心する。ロンが仏頂面のままベッドから腰を上げて僕の前を無言で通りすぎる、医務室に長居してたら面倒ごとに巻き込まれると野生の勘に基づいて賢明な判断を下したんだろう。
 大股に歩くロンを見送り、何もかもお見通しのホセが苦笑する。
 「くれぐれもお手柔らかに。レイジくんは君にぞっこんべた惚れですから、冷たくされれば拗ねてしまいますよ。あれでナイーブな年頃なんですから」
 「俺に同情してくれよ」
 ロンが重く深く嘆息、疲れ切った横顔を見せる。王様に飼われるもとい好かれるのも大変そうだ。背中に哀愁漂わせてノブを掴んだロンへと小走りに駆け寄り、さりげなく声をかける。
 「ロン、これあげる」
 ノブを掴んで振り向いたロンの鼻先にチョコを突き出す。銀紙に包まれた板チョコ。怪訝な顔のロンににっこり微笑みかけ尻ポケットにチョコを突っ込む。
 「おなか減ってるでしょ?あとで食べなよ。レイジに見つからないようこっそりね」
 「なに企んでんだよ」
 「心外だね。僕だってたまには人に親切にすることもあるさ。夕飯だってちゃんと食べてないんだからその分チョコ食べてカロリー摂んなきゃね」 
 憮然と黙り込んだロンの腹がタイミングよく鳴る。顔を赤くしたロンが手の平をズボンになすりつけ、ポケットから半分覗いたチョコの銀紙を不器用に巻き直す。
 『謝謝』
 かすかに頬を染めてぶっきらぼうに礼を言い、ロンが医務室を出る。
 「ちゃんと手を洗ってから食べるんだよー」
 ドアが閉じる音がやけに大きく響く。扉ごしに靴音が遠ざかるのを待ち、スキップで引き返す。これで部外者は消えた。心おきなく商談に入れる。
 チョコ一枚で邪魔者追っ払えるなら安いもんだ。
 上機嫌に口笛吹きつつ元の場所に取って返してベッドに腰掛ける。
 ヨンイルはひとり黙々と花火作りの全工程をこなしていた。手先に全神経を集中して丸薬を摘んで眉を顰めシケてないか確認後に右から左へ移動。こんもり小山を築いた丸薬をざくりと掬い取り、膝に抱いた玉の上面をぱかり外し、三等分された仕切りの内側に漏斗を傾げてざらざら流し込む。
 細心の神経と豪快な手腕とが同居する玄人の仕事。
 えらく根気の要る作業に熱中するヨンイルの額には汗が滲んで、おそらく祖父譲りだろう職人気質の生真面目さが顔に表れていた。妥協と兼ね合わない頑固一徹のこだわりで花火作りに情熱傾ける姿には、とぐろを巻いた龍の如き不動の存在感があった。
 「あかん、足りひんわ」
 そう言って、万歳のポーズでひっくり返る。
 ヨンイルがベッドに寝転がった衝撃で枕元に積み上げられた漫画が崩壊、崩落。騒々しい音とともに床へ雪崩落ちる。頭の後ろで手を組んで天井を仰いだヨンイルが消耗のため息を吐く。
 「やっぱ刑務所で手に入る材料は限度があるな、あれこれツテ頼って必要な材料かき集めてみたけど……考えれば俺本格的な花火作るの初めてやん。じっちゃんが前に作ったの見たきりでおぼろげな記憶頼に手ぇ動かしてみたけど……あー、やっぱ足りん。どーしても足りんっ。火薬の量足りひんとシケた仕上がりになってまうのに、参ったなあ」
 やかましい独り言。ゴーグルを引き下げて目を覆った横顔には刻々と迫り来る期限に追われる焦燥が滲んでいた。何の期限かって?五十嵐が東京プリズンを去る期限さ。
 ヨンイルのベッドには薄紙を敷いた上に小山を成したケシ粒大の丸薬や封入の前段階で細密に選り分けられた火薬の粉末、鈍い光沢の銅線が散らかって花火師の工房めいた熱気を漂わせていた。
 完全にベッドの私物化。医者が何も注意しないのは賄賂を貰ってるからだろうかと邪推する。
 「火薬足りないの?」
 「そや。あと0.5ミリグラムほどな」
 「それ弾丸一個分で足りる?」
 「足りる足りる、余裕で足りる」
 「じゃああげる」
 「ん?」
 聞き間違いかと振り向いたヨンイルの鼻先にこぶしを突き出し、五指をほどく。
 手の平に転がってるのは銀色の弾丸。
 蛍光灯の光を浴びて艶々と輝く弾丸を指で摘み上げ、小首を傾げる。
 「火薬、入り用なんでしょ」
 「お前それ……」
 ゴーグルを引き上げて跳ね起きたヨンイルが、僕の手の中の物体を指さし、顎も外れんばかりに仰天。
 「お前やったんかい、安田の銃から弾抜いたん!?」
 「おっしゃる通り犯人は僕だ。動機?ほんの出来心だよ。それだけじゃ不満?じゃあ付け足そう。僕が安田の銃を手に取るチャンスは一度だけあった。あの時、ビバリーの上着の内側からゴトリと音たてて銃が落下した時。僕はビバリーの眉間に銃を向けた。恐怖のロシアンルーレット。あの時さ、弾を抜いたのは。白状しちゃえば、あらかじめ弾を抜くために命と運を秤にかける悪趣味なお遊びを仕掛けたわけ。僕が最後の一個の弾丸抜いて返したことに鈍感なビバリーは気付かなかった。ま、一個くらいならバレないだろうってなめてたの否定しないけど」
 「わけわからん、なんでそんな真似を」
 「勿論お金になるからさ」
 困惑するヨンイルに笑いかけて掌中の弾丸を放り上げる。
 「ヨンイル知らない?南のガンスミスの噂。大の銃マニアで外じゃ古今東西の銃と弾丸を集めまくってたヤツ。そいつにコレ売ろうと思ったの。僕から見りゃ何の変哲もないただの弾丸だけど、ガンスミスの鑑定眼に叶えば高く売れると思わない?」
 虚空に手を出して弾丸を掴み、溜飲を下げる。
 僕は男娼だ。東西南北どの棟にも常連客がいて色んな情報が集まってくる。南棟に酔狂なガンマニアがいるらしいって噂はだいぶ前から知っていたからビバリーの上着の裾からゴトリと音たてて銃が滑り落ちた瞬間「これだ」と閃いた。
 「ま、五十嵐が君に銃ぷっぱなすのは誤算だったけどね。感謝してよヨンイル、僕が最後の一個抜いといたから君の命助かったんだよ?これはつまり道化の命を救った弾丸だ。道化の命を奪うはずが数奇な偶然でそうなり損ねた奇跡の弾丸。なら君の手に返すのが道理じゃないかって考え直してね」
 「阿呆ぬかしい。商談パアになったから適当言って俺に売りつける魂胆やろ」
 「あり?バレてた?」
 その通りだ。ヨンイルは意外に鋭い。残念ながら、僕の手の中の何の変哲もない四十五口径の弾丸は南のガンスミスの鑑定眼に叶わず突っ返されてしまった。ちょっと形が扁平なのが気に食わないんだそうだ。マニアの好みはうるさい。商談決裂、となればこの弾丸は用済み。安田の銃から抜いた最後の一個の弾丸を持て余した僕は、五十嵐の消息を伝えがてら生涯最高の花火製作中のヨンイルに取引きを持ちかけたのだ。
 「で、どうするのこの弾丸。要るの、要らないの?」
 「貰うとくわ」
 しばし思案の末ヨンイルが決断、無造作に手を突き出す。やった、商談成立。嬉々としてヨンイルの手に弾丸を乗せる。刹那、ヨンイルの目に複雑な色が過ぎる。奇しくも自分の命を救った弾丸の重みを手で確かめて敬意やら畏怖やらその手の感慨を抱いてるらしい。自分の命と弾丸の重さを比べて世の無常を感じてるのかもしれない。
 慎重に指を開け閉めしてから手を引っ込めて、指に摘んだ弾丸を頭上に翳し、また手前に引いてためつすがめつする。
 ヨンイルの手の中で弾丸が光を放つ。 
 おのれの手の中で輝く弾丸を見つめ、ヨンイルは殊勝に頭を下げる。
 「おおきになあ」
 どうせなら僕にお礼を言ってもらいたいんだけどねと心の中で愚痴りつつ、弾丸に礼を述べたヨンイルを眺め、腰を上げる。房でビバリーが待ってる、はやく帰らなきゃ……
 「ちょっと君」
 足取り軽く立ち去りかけた僕の肩にぽんと手がおかれる。
 「なあに?」
 振り向けばホセがいた。黒ぶち眼鏡の奥の目に温和な光を湛えて微笑んでる。僕に何の用だと訝しみつつベッドに腰を下ろす。ホセが素早く周囲に視線を走らせて仕切りのカーテンを閉める。
 「さすが、東棟イチの情報屋の異名は伊達ではない。男娼の人脈を生かした情報収集はお手の物ですか」
 ホセの纏う空気が一変したような錯覚に囚われた。
 妙な胸騒ぎを覚えてホセを見上げれば、眼鏡の弦を人さし指で叩きながら、先刻とは別人のように鋭さを増した双眸で僕の表情を探っていた。
 僕が信用できる人間か否か眼力で見極めるかの如き凝視……。
 違う。
 ホセが測っているのは利用価値だ。
 僕が有能なスパイ足り得るか否か、それだけがホセの関心事。
 ホセが重視するただ一点。 
 ホセは先刻から僕とロンのやりとりを眺めて僕とヨンイルのやりとりを傾聴していた。発言を自粛して存在感を消して僕らのやりとりを仔細に観察していた。壁に凭れて腕組みして、眼鏡の奥の目だけを油断なく光らせて……
 胸の鼓動が高鳴り、緊張で喉が乾く。ホセと対峙して過度の緊張を強いられた僕は、なにげなく手をおいたシーツがびっしょり湿ってることに気付く。僕の汗。いつのまにか僕は全身に冷や汗をかいていた。四囲のカーテンを閉め切った密室で、ホセと一対一で向き合って、これから密談に臨もうという緊迫した状況下で大量の汗が噴き出したのだ。
 「ヨンイルくんとのやりとり聞かせていただきました。いやはや、噂はかねがね窺っていたのですが……北と東を又にかける赤毛のスパイとは君にことですか、リョウくん。かつてはサーシャくんの懐に取り入り、ロンくんを人質にとってレイジくんを監視塔におびきだし、今またヨンイルくんとも交渉を成立させて……聞きしに勝る商売上手ですね。吾輩感服しました」
 「それはどうも。隠者にお誉めあずかり光栄だ」
 おどけて首を竦めたけど、ホセの表情は一切動かない。眼光の鋭さも衰えない。なんだよ一体、と気味悪くなった僕の横にホセが腰掛ける。スプリングが軋んでベッドが弾む。
 「さて、ここからが本題だ。かつて北のスパイとして水面下で暗躍してた君に頼みたいことがあるのですがね」
 「へえ、隠者自ら僕に依頼?」
 我が意を得たりとホセが首肯、気障なしぐさで眼鏡を外して弦を折り畳む。分厚い瓶底眼鏡を外すと精気漲る素顔があらわになる。静から動へ、守りから攻めへと一瞬で切り替わった素顔に直面し、戦々恐々身構えた僕にホセが丁寧に申し入れる。
 「調べて欲しいことがあります」
 そして、上着の懐に手を潜らせる。ホセが懐から取り出したのは一枚の地図。だいぶ古い地図らしく色褪せてボロボロで、おっかなびっくり手を触れた途端に塵に帰してしまいそうだった。
 視線を右下に滑らせて発行された年代を確認、驚愕。
 「西暦2000年の地図……80年以上前!?骨董品じゃん、よく現物残ってたね」 
 地図の右下には平成12年発行と印刷されていた。おそるおそる地図に顔を近付けると黴とインクが混じった独特の匂いが鼻腔をつく。ホセは慎重な手つきで地図の皺を伸ばしつつ、紙上に点在する幾つかの点を目で追っている。
 何かの目印とおぼしき赤い点。
 「で、僕に調べてほしいことってなにさ。報酬次第で引き受けるけど」
 おおいに乗り気で急かす。サーシャがペア戦に敗北して最大のパトロンを失った僕は、一人でも多く各棟の実力者を味方に引き入れて足場を強固にする必要に迫られた。サムライに試合で敗れたりとはいえホセは元南のトップでいまだに絶大な影響力を誇る男、恩売っといてのちのち損はない。
 興奮を抑えきれず積極的に身を乗り出した僕を一瞥、ホセが畳みかける。
 「では、地下に潜ってください」 
 ………………………………はい?
 地図を挟んで対峙した南の隠者が断言する。
 理性的な笑顔の裏側に途方もない野望と陰謀を飼い殺して。  
 「聞こえませんでしたか。地獄の最下層を探索してきてくださいと言ったのです」
[newpage]
 邂逅の日。東京プリズンは朝から異様な空気に包まれていた。
 挙動不審な行動が目立ったのは主に看守で囚人は平常通りだった、東京プリズンの厳密な規則に定められた通り早朝五時に起床して点呼をとった。
 ここまではいい、いつも通りだ。
 しかしその後囚人に下されたのは甚だ不可解な命令だった。
 「今日は朝食前に重大な報せがある。点呼終了次第各自中庭に移動、待機を命じる。いいな、わかったな。三分だろうが一分だろうが遅刻した者は独居房送りだ」
 東京プリズンにおける看守の命令は絶対だ。
 囚人たちは寝不足で充血した目を擦りつつ、無秩序に通路に広がって中庭へと移動する。朝早くに叩き起こされた挙句に一日始めの栄養源となる朝食を摂る暇も与えらず、わけもわからぬまま警棒に追い立てられて移動を開始した囚人たちに混ざり、僕とサムライもまた歩き出す。
 サムライは怪訝な顔をしていた。定時に起床して食堂で一斉に食事をとり、半日を過酷な強制労働で潰したのちに帰還する。それが一年三百六十五日変わることない東京プリズンの日常で営みだ。平凡で単調で退屈な毎日。なのに今日に限って何故囚人が一堂に集められるのかと訝しんでいるのだ。
 僕はサムライの横顔を眺めながら全く別のことを考えていた。
 昨日のこと……中央棟地下一階の薄暗い通路で僕が目撃した光景、静流と交わした会話。
 『帯刀貢を返してもらいに来たのさ』
 静流は怪しく微笑みながら東京プリズン来訪の目的を明かした。
 静流が東京プリズンに来た目的は帯刀貢を取り返すことだった。
 サムライを取り返すとはどういうことだ、静流は一体何を企んでるんだ?
 疑問ばかりが深まり困惑が増す。
 瞼の裏には扇子を翻して闇に舞う白拍子の艶姿が焼き付いてる。足音すらたてぬ静的な足運び、しなやかでゆるやかな挙措、女形のようにたおやかな一挙手一投足。僕は朧に闇に浮かび上がる静流の舞に眩惑された、魅了された。と同時に底知れぬ恐怖を覚えた。静流の核を成すおそろしく物騒なもの、汚泥が沸騰するごとき負の感情の吹き溜まりを幻視したのだ。
 静流の目的は何だ。
 サムライを返してもらいに来たとはどういう意味だ。
 胸に不安が募る。サムライは何も知らずただ前だけを見て僕の隣を歩いている。食堂で話してるサムライと静流を見た時に感じた焦燥がまざまざと甦る。静流は異分子だ、夾雑物だ。過酸化水素水から酸素を発生させる実験で用いられる無機触媒の二酸化マンガンだ。過酸化水素水に二酸化マンガンを投入すれば必ず化学反応が発生する。
 静流は僕とサムライの関係に化学反応を起こす触媒だ。
 「どうかしたか。ジッと俺の顔を見て」
 「!」
 サムライの声で我に返る。思考を断ち切り顔を上げる。隣を歩くサムライが不審げに眉をひそめて僕を覗きこんでいる。自覚はないが、また独り言を呟いていたのだろうか?急に気恥ずかしくなった僕は、顔の赤さを隠して眼鏡のブリッジを押さえる。
 「サムライ、無精髭の手入れはこまめにしたほうがいいぞ。不潔かつ不衛生だ」
 「……今朝は時間がなかったんだ」
 サムライがばつ悪げに顎を撫でる。 
 「君は外にいた頃もそんなに無精していたのか。身だしなみもろくに整えないなんて恥ずかしい」
 「無論外にいた頃は身だしなみにも気を遣っていた。着衣の乱れは心の乱れだ」
 「さぞかし苗に口うるさく注意されたんだろうな」
 苗。サムライの恋人。サムライが今でも心寄せる盲目の女性。僕は実際に苗に会ったことがないが、静流は幼少時から故人と面識があったらしく苗の人となりを回想する口ぶりには郷愁が滲んでいた。かつてサムライが恋した苗とはどんな女性だったのだろう。静流の言う通り僕は苗と似ているのだろうか?だからサムライは僕に接近した、東京プリズン入所以来十ヶ月も献身的に尽くしてくれたのか。
 僕は所詮苗に顔が似てるだけの身代わりに過ぎなくて。
 サムライがあの夜僕にキスしたのは、苗を思い出したからで。
 「………」
 無意識に唇に触れる。下唇の膨らみをなぞり、物憂く目を伏せる。僕の物ではない唇の感触を反芻しようとして、既に彼のぬくもりが失せたことに気付く。サムライと唇を重ねた時に感じたのは無精髭が皮膚を擦る荒削りな感触で、あのキスはきっと、苗にしたものとは感触が異なるのだと追認する。
 「キスする時は髭を剃るのが常識だろう」
 苛立ちを込めて吐き捨てる。当然サムライには聞こえない声で。サムライだって髭を剃れば十分若く見えるのに、脂じみた長髪をざんばらに伸ばして無精髭を散らした容姿はお世辞にも垢抜けてるとはいえない。有り体に言えば野暮ったい。まるで素浪人か世捨て人だ。君は何世紀の人間だと問いたい。
 やがて、その他大勢の囚人とともに中庭にでる。
 「なんだこれは!?」
 時刻は夜明け前。砂漠の気温は零下に近く、中庭には藍色の闇が立ち込めている。白い息を吐きながら中庭を見渡した僕は、愕然と立ち竦む。
 人、人、人。
 中庭は全包囲見渡す限り人で溢れて猥雑な賑わいを見せていた。召集をかけられたのは東棟の囚人だけではない、東西南北全棟の囚人が朝早くに呼び出されたのだ。中庭に集合した囚人の数は肉眼では把握できない、東京プリズンのほぼ全ての囚人が集合してるのは間違いない。
 二週間前のペア戦では地下停留場もこれと同じ賑わいを見せたが、中庭のほうが面積が狭いため反比例して人口密度が高くなる。
 人口過密状態の中庭を見渡してあ然とした僕の肘をサムライが引っ張る。何をするんだと抗議しかけ、口を閉ざす。たった今まで僕が突っ立っていた場所を囚人の大群が通過したのだ、怒涛の如く。
 「余計なことをするな。接近には二秒前から気付いていた、引率されずとも場所を空けるつもりだった」
 サムライの手を邪険に振りほどき、意を決して中庭に歩み出り、雑踏に身を投じる。人ごみに翻弄されながら見知った顔を捜して視線を巡らせば、周囲から頭一つ抜けた長身が目にとまる。明るい藁色の髪を冠した頭だ。
 「よ、キーストア」
 レイジがこちらに気付いて軽薄に手を振る。隣にはロンがいた。昨日食堂を飛び出して行って以来だがあの様子だとまだ仲直りしてないと見える。
 サムライと顔を見合してレイジに接近、背後に並ぶ。
 「一体この騒ぎはなんだ、早朝から。火事か浸水か異常事態が発生したのか。避難訓練の一環か」
 「さあ?知らね。俺もわけわからず叩き起こされて、看守にケツひっぱたかれて中庭に来たんだよ。なんか面白いショーでも始まるんじゃねえの?たのしみ」
 「楽天家だな。上の人間がそんな愉快な催しを仕掛けるわけがないだろう」
 「わかんねーぜ、たまには囚人にサービスしてくれたってバチあたらねーと思うけど……なあロン」
 レイジがなれなれしくロンに声をかける。が、ロンは応じない。憮然とそっぽを向いてポケットに手を突っ込んでいる。わかりやすく不貞腐れた態度にもへこたれずレイジが機関銃の舌鋒で畳みかける。
 「また無視かよ、つれねーなあ。昨日からさんざん謝ってるのにまだ許してくれないわけ?ねえ、何語で謝ったらいい?ソーリー・謝謝・パルドン・ミスクーズィ……」
 「上から英語中国語フランス語イタリア語。言葉を変えても誠意がこもってないなら意味がない。おまけに謝謝は『ありがとう』だ、謝罪の言葉じゃない。中国語で謝罪するなら『対不起』だ」
 レイジの言い間違いを淡々と訂正すれば本人が非常にいやな顔をする。無知で無教養な人間に疎まれても一向に僕のプライドは傷付かない、よって不快ではない。
 レイジはだらしなくロンに寄りかかり、両手を合わせて拝み倒す。
 「俺が悪かったって、反省してるよマジで。な、このとーり!」
 「嘘だろ」
 不信感に凝り固まったロンがぶっきらぼうに呟く。今日初めてロンから反応があったらしいレイジはそれだけで狂喜して笑み崩れる。何というか、単純な男だ。
 「嘘じゃねーって。昨日のアレは俺が無神経だったよ、処女喪失したばっかで不安定なお前の気持ちも考えず恥ずかしい思いさせちまったって反省してるよ。俺の腕の中で喘いでたお前があんまり可愛かったからまわりの連中に自慢したかったんだよ」
 「調子いいこと言ってんじゃねえ、俺の身になれ俺の身に!東棟のヤツらでごったがえした食堂でどんなふうに喘いだかよがり狂ったか全部バラされて大恥かいたんだぞ、もう東京プリズンで生きてけねえって深刻に悩んだんだぞ!?どうしてくれんだよ色鬼、俺が大手振って表歩けなくなったらお前のせいだからな、責任とれよ!!」
 怒り爆発したロンがレイジの胸ぐらを掴んで食って掛かる。
 「お前ときたらいっつもそうだ、俺はお前と違ってまともな神経の持ち主なんだよ、食堂であんなことバラされて笑って済ませるはずねーだろが!お前に抱かれてやったのは人生最大の間違いだった、もう絶対お前になんか抱かれてやんねーから、指一本だってさわらせてやんねーから!俺最初っから普通に女好きだしお前に抱かれた時だって痛いだけで全然気持ちよくなかったし」
 「嘘つけ。俺のテクでメロメロになったくせに」
 「吹かしてんじゃねえ」
 胸ぐらを掴む手に力を込めて凄んだロンに笑いかけ、レイジが言う。
 「だってお前、俺のこと考えながらオナニーやったんだろ」
 「………………………な!!?」
 僕はロンの顔が赤から青へ、また白へと変色するのを確認した。レイジの胸ぐらから手を放したロンが口を開閉、混乱を極めて反論を試みるも呂律が回らずに舌を噛む。
 「誰に聞いたんだよ、ってリョウか、あいつしかいないもんな畜生!あいつ黙ってるって言ったくせに早速音速で広めやがって裏切り者、チョコで買収されるんじゃなかった、ほいほい追い返されてやるんじゃなかった!一本残らず赤毛毟ってから喉にチョコ突っ込んで窒息死させてやるんだった!!」
 「照れるなロン」
 「触るな、無節操が伝染る」
 激しい自己嫌悪に苛まれたロンが頭を抱え込んで項垂れる。僕はロンに同情した。よりにもよってリョウに自慰の現場を見つかるとは運が悪い。噂好きなリョウは昨日から今朝にかけて東棟じゅうを飛びまわってロンの自慰を目撃したとすれ違う囚人に片っ端から吹き込んでるに違いない。
 「そんなに深刻に思い悩むほどのことでもない、思春期の少年なら誰でも日常的にすることだ。健康かつ健全な証拠だ。君の年頃なら異性に対する性的興味や性欲が昂進して夢精したり股間に手が伸びるのは当然だ。医務室のベッドで自慰に耽った点に関しては不注意だとあきれなくもないが」
 「そんなフォローいらねえし頼むから自慰とか夢精とかまわりに聞こえる声で連呼しないでくれ!」
 ロンをフォローするつもりが逆に追い詰めてしまったらしい。羞恥心に火がついたらしく顔を紅潮させて地面にへたりこんだロンを見下ろし、ため息を吐く。レイジはにやにや笑ってる。やはり反省の色がない。
 「いっそ開き直っちまえよ、俺の女だって。そっちのほうが人生楽しいぜ」
 「お前の女になったら人生お先真っ暗だ」
 「同感だ。ロン、レイジは昨日も君のいないところで……」
 「シャーラップ!」
 レイジがすかさず僕の口を塞ぐ。僕の口から静流と接触した真相が漏れるのを未然に防いだレイジは安堵に表情を緩め、ロンの懐柔に着手する。
 「これからは十分気をつけるよ、お前の気持ち考えてお口にチャックするよ。だから頼む、今回だけは許してよ。ね?」
 「死ね」
 「ロンの腹の上で死ねるなら本望だ」
 「本当に死ね。今の発言でお前の評価地の底まで暴落したよ」
 痴話喧嘩中のロンとレイジは放っておいて、サムライと並んであたりを見まわす。人口過密状態の中庭では囚人が押し合いへし合いして数十箇所で乱闘が起きていた。夜明けの空には闇の帳が落ちて視界を翳らせる。中庭に漂う冷気に肌寒さを感じ、二の腕を抱いて身震いした僕にサムライが声をかける。
 「大丈夫か」
 「だいじょう、っくしゅん!」
 語尾はくしゃみになった。あまり大丈夫じゃないようだ。風邪をひいたらこの後の強制労働にさしつかえると上着越しの二の腕をさすり暖をとる。鼻がむず痒い。もう一回くしゃみをしそうだ。口を手で押さえて俯いた僕の肩を、不意にぬくもりが包む。
 背後に佇んだサムライが、僕の肩に腕を回していた。
 「……俺が盾になれば少しはマシだろう」
 「……人間の平均体温は34度から36度、現在の気温は2度か。なるほど、少しはマシかもな」
 僕だって好き好んで風邪をひきたくない。僕は免疫力が弱いから一度風邪をひくと長引くのだ。風邪が悪化して肺炎を併発したら即命取りになりえる。サムライに肩を抱かれ、身を凭せる。僕らのそばでは相変わらずロンとレイジが喧嘩してる。元気がいいな、と羨ましくなる。
 これから何が始まるんだろう。
 得体の知れぬ不安が募る。僕らが中庭に呼び出された理由はまだ知らされてない。僕らは何も告げられぬまま朝早くに叩き起こされて駆り集められたのだ。居並ぶ囚人の顔にもこれから起こる出来事に対する不安が表出してる。 
 ふと、前方で動きがあった。
 「!」
 サムライと同時に顔を上げ、前方を注視する。
 その時初めて気付いた、中庭の前方に演台が設けられてることに。昨日まであんな物なかった、存在しなかったのに今日になって忽然と出現した。
 胸騒ぎがいや増す。心臓の鼓動が高鳴る。演台の存在に気付いたのは僕だけではない。それまで演台を隠すように並んでいた看守が散開したせいで俄かに異物が目にふれて、囚人何名かが違和感を口にする。
 空気の質が変容する。無秩序な喧騒が興奮のさざめきに一掃され中庭の空気が剣呑に塗り替わる。
 静電気を帯びたように空気が殺気立ち、肌が粟立つ。
 「……面妖な」
 サムライが虚空に目を据えたまま、かすかに唇を動かす。サムライの腕に抱かれた僕は心臓を鷲掴みにされたような戦慄に竦んで、ただただ目を見開き、正面中央の演台を凝視する。
 脳裏にフラッシュバックする光景。幾つかの断片。
 イエローワークの強制労働中に不吉な予感に突き動かされて砂丘の頂に立った僕が見た『車』そうだ黒い車、砂漠には場違いで不似合いな黒塗りの高級車が砂煙をもろともせず颯爽と走りぬけて『タジマ』高部座席の車窓を掠めたのは確かにタジマだった否違うタジマはもういない、もはや永遠に東京プリズンを追放されたのだ。じゃああれは?あれは誰だ?タジマに酷似した別人だとでも言うのか。
 「サムライ、僕は悪夢が現実を蚕食する瞬間に立ち会ってるのかもしれない」
 震える声で言葉を紡ぎ、サムライの腕に、ぬくもりに縋る。   
 中庭に集った囚人が何かに呼ばれたように一斉に正面を向く。興奮のさざめきが急激に膨れ上がり驚愕のどよめきとなる。
 最初に「それ」に気付いたのは最前列の囚人だった。
 最前列に位置した囚人が悲鳴をあげて指さした場所には、一匹の犬がいた。
 犬。間違いなく犬だ。ネコ目イヌ科イヌ属、鼻腔が突出した顔貌が特徴的な狩猟動物。種類はドーベルマン。よく手入れされた毛並みは艶々と輝いて磨き抜かれた黒曜石の如き光沢を放っていた。だが、獰猛な目をしていた。誰にでも媚を売る愛玩動物ではないと自己主張するかのように闘争心を剥き出した苛烈な双眸で、飢えに息を荒げて口から大量の涎を垂らしていた。
 ドーベルマンの口から零れた唾液が、コンクリートの地面で跳ねる。
 東京プリズンに来て初めて、鼠以外の動物の姿を目にした。
 東京プリズンには元から犬などいなかった。この犬は外部の人間の手によって連れ込まれたのだ。
 群れの頂点たる貫禄で四肢をそびやかした犬から、そのリードを取る人物へと視線を移す。
 高級感ある三つ揃いのスーツを隙なく着こなした痩せぎすの男がいた。 
 この上なく陰湿かつ陰険な性格を反映するかのごとく粘着質な目つき。 
 タジマと酷似した目つき。
 犬のリードを引いて優雅に歩き出す男に満場の視線が集まる。犬は従順に頭を垂れて男に従った。夜明けの空に硬質な靴音を響かせ、軍人めいて律動的な歩調で中庭を横切り演台に上った男は、自分の影響力が浸透するのを待つかのように尊大に顎を引く。

 演台に立った男からは権力の匂いがした。
 腐敗した権力の匂いが。

 男の顔は二週間前、東京プリズンを去った人物に酷似していた。体重こそあからさまに違うが陰険な眼光を宿した双眸も酷薄な口元もタジマそのものだ。血の繋がった実の兄弟のように容貌は似通っているが男は知性を加味する縁なし眼鏡をかけていた。
 レンズの奥から覗く目には剃刀めいて冷徹な光があった。
 誰もを圧倒して誰もを従わせる傲慢なエリートの目……人を人とも思わない冷血な自信家ぶりが窺える眼差しは鋭利に研ぎ澄まされて、催眠術でもかけるようにたった一瞥で僕ら囚人の心を掌握した。
 鞭のような痩身を高級スーツで包み、犬を連れて演台に上った男が厳かに口を開く。
 そして、自己紹介する。
 「囚人諸君、初めまして。この私こそが無能な元所長に成り代わり新たに東京少年刑務所の所長に就任した政府直々に派遣された優秀かつ完璧なるエリート、やがてはこの日本を掌握するエリートの中のエリート、君たち愚鈍なる家畜を徹底的に管理教育して従順な牧畜へと調教せよと任命された……」
 背広の胸に手をあて、男は余韻たっぷりに言った。
 冷静沈着に落ち着き払っていながら侮蔑もあらわな態度で、嘲るような口調で。
 僕ら囚人を愚鈍な家畜としか見ず、家畜を調教する為なら悦んで鞭を振るうサディストの笑顔で。
 「但馬 冬樹だ」
 新所長の就任を祝うように、足元の犬が高らかに吠えた。
[newpage]
 レイジとはもう絶交だ。
 「いい加減機嫌直してくれよ。俺がこんなに頼んでも駄目なわけ、無視なわけ?ちょーーっとつれないんじゃない?」
 レイジが世にも情けない声をだすのを無視、ひたすら無視。
 昨日はさんざんだった、本当に。食堂じゃレイジに初夜バラされて夕飯もそこそこに飛び出して医務室じゃ自慰に耽ってるとこリョウにばっちり目撃されて踏んだり蹴ったりいいとこなしだ。これも全部レイジのせいだ。
 俺は朝から不機嫌絶頂でレイジとはろくに目も合わさずつんけんした態度をとり続けた。ところがレイジは性懲りなく、相も変わらずなれなれしく図々しく俺に声かけて寄りかかってくる。口先じゃ上手いこと言ってご機嫌窺いしてるが謝罪に微塵も誠意が感じられない。
 憤懣やるかたない顔つきで黙りこくった俺は、ベッドを脱け出てから数えて十回目の大あくびをする。
 今日は朝から変だった。
 東京プリズン全体が妙にざわついて、いつも威張りくさってる看守が妙におたおたと落ちつきがなかった。
 俺たち囚人はまだ夜も明けきらぬうちにけたたましいベルに叩き起こされて廊下に並ばされた。点呼終了後に看守が下した命令は「可及的速やかに中庭に行け」という胡散臭いものだった。
 勿論中庭で何が行われるのかなんて説明は一切なし、囚人が口ごたえしよう者なら容赦なく警棒でぶん殴られるから揃いの縞服のガキどもは屠殺場に送られる家畜のように不承不承気乗りしない足取りで中庭へと歩き出した。
 俺もわけわからないままその他大勢の囚人に混ざって中庭にきた。
 何しろ突然のことで顔洗う暇もなくて寝癖があちこち跳ねたまま、頭は半覚醒で薄らぼやけていた。
 コンクリートの箱庭は多くの人出で賑わっていた。
 大々的な祭典でもおっぱじめるのか?天変地異の前触れか?コンクリートで足元を固めただだっ広い中庭には蟻の巣ほじくり返したように後から後から囚人が涌き出て加速度的に混雑の度合いを増していた。
 息苦しい位の人口過密状態はとても快適とは言いがたく、時間の経過と人の増加につれ不快指数が上昇する。
 夜明けの空を背景に不気味に聳える要塞、三万以上の囚人を収容する監獄が中庭に面して存在を主張する。
 まだ明けきらぬ空に鉄筋コンクリートの砦が黒々と聳える。
 見る者を畏怖させる眺め。
 「ロン、こっち向けよ。話するときはちゃんと人の目見ろってママから教わらなかったか」
 「俺がお袋から教わったのは缶ビールのプルトップの開け方くらいだよ」
 しつこく纏わりついてくるレイジを邪険に振り払う。
 ちょっとは反省しろっつの。レイジときたら昨日食堂で俺に大恥かかせたくせに今朝も平気で懐いてきやがってムカっ腹が立つ、土下座するくらいの誠意は見せろよせめてと腹の中で盛大に罵倒する。実際口に出さなかったのはこれ以上注目を浴びるのを避けたかったからだ。ただでさえ周囲の囚人どもの視線が痛いのにこれ以上騒いで関心を集めたくない。 
 「お前反省してねーだろ全然。わかるんだよ態度で。大体あーいうことバラすなよ囚人どもが聞き耳立ててる中で、おかげで大恥かいたじゃねえか!お前はいいよ王様だから、最強無敵の王様にゃ誰も文句なんかつけらんねーだろうさ。けど俺は?俺の立場はどうなるんだ」
 「いいじゃん俺の女で」
 腰に手をついたレイジが何か問題あるのかと言わんばかりにしれっとうそぶき、頭の血管がぶちぎれる音がした。
 「よくねえ。お前の女になるのなんざ金輪際お断りだ。死ぬほど恥ずかしかったんだぞ、お前と寝たこと真剣に後悔したんだぞ?!なにが『俺の腕の中でがくがく首振りながら喘いだ』だ、『ねだるように腰振って背中引っ掻いてしがみついてきた』だ、『イくイくうるさく鳴いた』だあることないこと適当ほざきやがって!お前そんなに俺を淫乱にしたいのかよ、世界中の女トロトロに蕩かした超絶テクをひけらかしたいのかよ!?」
 「だって感じたの事実じゃん」
 「嘘だよ!感じるふりしてやったんだよアレは、そうした方が悦ぶかなって気ィ遣ってやったんだよ!」
 レイジの胸にひとさし指を突きつけて喧々囂々非難を浴びせれば王様が余裕綽々の態度で肩を竦める。
 「演技する余裕なんかなかったくせに」
 ……頭にきた。今度という今度は本気で絶交だ、レイジのツラなんか二度と見たくねえ。憤怒で視界が真っ赤に染まり体の脇でこぶしが震え出す。レイジは俺の肩を抱いて幸せそうに頬緩めてる。なんだよそのしまりねえにやけ面は?だらけきった豹め。
 レイジご自慢の顔を力一杯ぶん殴って憂さを晴らそうかとも思ったが駄々こねて退院してきた怪我人に手を上げるのはさすがに抵抗ある。自制心を総動員して屈辱にわななくこぶしを引っ込めて憤然と背中を向ける。
 そばで俺とレイジのやりとりを眺めてた野次馬どもが「可哀想にフラれちまったな、レイジ」「王様に飽きたんなら俺んとこ来いよ子猫ちゃん、可愛がってやるぜ。お口一杯にミルク飲ませてやる」「違うミルクだろそりゃ」と好き勝手な悪口雑言を浴びせる。
 どいつもこいつも死んじまえ。
 「いい加減俺に乗り換えろよ半々。レイジなんかとは比べ物になんねえくらいヨくしてやるぜ。俺のイチモツは黒くて太くて硬いって大評判だ、うぶな子猫ちゃんに男の味を教えてやるよ」
 「ロンに手え出すなよ凱。お前の大事なモン根元から切り落として酢漬けにしてピザにまぶすぞ」
 人ごみの向こうから罵声を飛ばした凱を眼光鋭く射竦めてレイジが含み笑う。剃刀の微笑。たった一瞥で、たった一言であれだけ騒がしかった囚人どもが静まり返った。悔しいけど、俺とレイジじゃ眼光の迫力が違う。俺がどんだけ背伸びしてもレイジにかなわない、王様の足元にも及ばないのだと痛感してやりきれなくなる。
 今日のことを考えると暗澹と気分が滅入る。
 この後レイジと別れて強制労働に出ればまた囚人どものからかいのネタにされてケツ揉まれるんだろう、レイジのペニスで足りないぶん右手で賄えたか半々とか下品な揶揄を浴びせられて足ひっかけて転ばされて顔面から砂に突っ込んで砂吐いて……
 むなしい。
 ふと、中庭の空気が変化する。異様などよめき。前方で何か異常が起きたようだ……が、俺の位置からじゃ人ごみに遮られてよく見えない。好奇心に駆り立てられてつま先立ち、囚人の頭越しに前方の様子を探ってみるが、人ごみが絶えず流動するせいで意味がない。
 背丈が足りないのが恨めしい。
 「なんだよなにが起きたんだよ気になるじゃねーか!?お前ら独り占めすんな、ずりーよ、俺にも見せろ!」
 長身のレイジならこんな苦労とは無縁なんだろうなと舌打ちして隣を仰ぐ。いっそレイジに聞くか?好奇心に負けてプライドを捻じ曲げて何が起こってるか聞くか?唇を噛んで逡巡するが、結論はでない。はやまるな俺。今さっきの決意はどこへやった、レイジと絶交するんじゃなかったのか?たった五分で前言撤回なんて男の風上にもおけねえ優柔不断さだ、そりゃメイファにフラれるはずだ……
 メイファは関係ねえよ畜生。
 自分の言葉に少なからずダメージ受けた。俺、馬鹿。
 周囲のどよめきが大きくなり、ますます好奇心を掻き立てる。
 現在形で何が起きてるのか自分の目で確認したい欲求に駆られた俺は、視界を塞ぐ囚人を力づくで押しのけ……
 「!ひあっ、」
 上着の裾に忍び込んだひやりとした感触。
 甲高い悲鳴を発し、反射的に視線を落とす。上着の裾をはだけて服の内側に潜り込んだ褐色の手を辿れば、背後にレイジがいた。野郎いつのまに回りこんだ?というか、人前で服はだけて何のつもりだ。俺は露出狂じゃない、人前で服脱がされて興奮する趣味ねえよと目に抗議を込める。
 背中にぴたりと寄りそうぬくもり。ほのかに感じるレイジの体温。
 「大丈夫。だれも気付いてねえよ」 
 耳朶を湿らす熱い吐息。レイジの馬鹿なに考えてやがる周りに人いるのに反省の色なしかよ万年発情期かよ罵詈雑言の洪水が脳裏で渦巻く。
 背後からレイジに抱きつかれたまま戦々恐々あたりを見まわす。
 確かにレイジの言う通りまわりの連中はだれも気付いてない、それ以前に誰もこっちに注目してない。何だかわからないが全員が一斉に正面を向いて、衝撃に身を竦ませてるのだ。
 上着の内側で怪しく手が蠢く。俺の腹をまさぐるレイジの手に一昨日の記憶が甦る。俺の体を裏返して表返して隅々まで摘んで撫でて性感帯を開発する二つの手、十本の指……
 ぞくりと悪寒が走った。
 無造作に捲れた上着の裾から冷気が忍び込んだからだけじゃない。
 「お、まえ、ちょっとはこりろよ?!」
 声を低めて叫ぶ。はでに暴れりゃ両隣のやつに肘がぶつかって注意を引いちまうから、レイジの腕に抱かれた俺は身動きとれず、されるがままになるしかない。
 上着の裾から潜り込んだ手はもぞもぞ動いてる。
 俺の下腹を這いまわって胸板を撫でさすって犯される快感を与えてくる。
 「ごめん。ほんとごめん」
 吐息まじりの囁きが耳朶をくすぐる。俺にしか聞こえない真剣な声音でレイジは謝罪したが、手の動きは些かも緩めない、ばかりか激しさを増す。
 言ってることとやってることが反対だとよっぽど叫ぼうと思ったが、へたに口をあけると喘ぎ声が漏れそうで、必死に下唇を噛む。
 「しら、ねえよお前なんて。消えちまえ。俺のこと、一回抱けたらもいいんだろ。飽きちまったんだろ。お前外じゃ女に不自由しねえし、俺のことなんか所詮ムショにいる間の暇潰しのお遊びで、からかい甲斐のあるガキくらいにしか思ってなくて……」
 荒い吐息の狭間から途切れ途切れに訴え、懸命にレイジの手に抗い、身悶える。こんなヤツにいいようにされる自分が悔しい。こんなヤツの顔思い浮かべながら自慰耽った俺が情けない。でもレイジに抱かれた時のこと思い出したら右手が勝手に股間に伸びて、レイジに「愛してる」と囁かれた時のこと思い出せば手が止まらなくなって、気付いたら夢中で扱いてて……
 「違うよ、そうじゃない。外でも中でもお前がイチバン大事だよ」 
 「じゃあ俺のいやがることすんなよ、バラすなよ!」
 背後からレイジの手に貪られながら、叫ぶ。レイジの手が一瞬止まり、すぐまた愛撫を再開する。まわりの連中が気付かないかと冷や冷やする。
 レイジの手をどけたくても動きを制限されてもどかしさばかりが募る。
 鍵屋崎はすぐそばにいる。サムライもだ。人ごみの真っ只中でこんなことしてるとバレたらどう思うだろう、という考えが脳裏を掠めて恥辱で顔が火照る。畜生、涙まで滲んできやがった。視界がぼんやり曇ってよく見えねえ。
 なめらかな褐色の手が、しなやかな五本の指が、素肌を這う。
 「俺もちょっとだけ、悔しかったんだよ」
 ここだけの秘密を打ち明けるように声をひそめて、かすかにばつ悪げな表情で告白。レイジの腕の中で身をよじり、肩越しに振り向く。
 俺の肩に顎をのせたレイジが不服げに唇を尖らせ、拗ねる。
 「お前が仕方なく抱かれてやったとか、好きでもねえとか言うからカッときて……約束だから仕方ないとかさ。嫌々抱かれてやったとかさ。ありかよそんなの?俺だってちょっと傷付いたんだぜ。ハートブレイクン。俺はお前のこと好きで好きでしかたなくて、お前のこと抱けて最高に幸せで満たされてたのに……どっちが無神経だよ」

 え?
 そんな、ことだったのか。そんな些細なことで腹を立ててたのか。

 目を開かれる思いだった。俺にとっては些細なことでもレイジにとっちゃ重要なことだったらしく、ぽかんと口開けた俺の顔を覗き込んで感情的に想いを吐露する。
 「一昨日はあんなに可愛かったのに、俺の顔に手えやって『我愛弥』って殺し文句吐いたくせに、一日たちゃ手の平返した態度とってさ。結構ショックだったんだぜ?心底惚れた女に全部コトが終わった後に『あんたのことなんか別に好きじゃなかったけど、一回抱かせてあげるって約束しちゃったんだししょうがないわね』って言われるようなもんさ」
 「!っ、ふあ……」
 レイジの目に苦い感情が浮かぶ。迷いを断ち切るように手の動きを速めて俺の下腹をまさぐり、蜘蛛の脚めいて指を連動させて腰を這いあがる。
 おそろしく手慣れた愛撫に意志を裏切って体が反応、頬が快感に上気して息が浅くなる。
 「あ、れは……お前が『俺の女』だとか、あっ、まわりのヤツらが聞き耳立ててる中、で、宣言するから、あっ!?」
 巧みな愛撫で追い上げられて皮膚がひどく過敏になる。シャツと素肌が擦れる感触さえ快感に昇華されて体の芯が疼きだす。死ぬ気で唇を噛み締めても声が漏れるのを押さえきれない。まわりの連中がいつこっち向くかと気が気じゃなくて、焦燥で神経が焼ききれそうだ。
 「所有格は凱への牽制だよ。ロンが俺の女になった宣言しときゃしばらくは手え出さないんじゃないかって思ったんだよ」
 愛撫が佳境に入るにつれ説得にも熱が入る。どうでもいいが、話すか触るかどっちかにしてくれ。同時進行なんて器用すぎだこいつ。
 しっとり汗ばんだ手が体の裏表に回る。俺の耳朶を甘噛みしながらレイジが追い討ちかける。 
 「もう絶対しねーから、な、今度だけは俺の目に免じて許して?」
 「わ、かった!わかったから手え抜け、は、人が気付くだろ……っ」
 昨日は自慰で、今日は人前でいちゃついてるのがバレたら立ち直れない。レイジの胸板に体を凭せて首を振れば、俺の上着に手を突っ込んだまま王様が嬉々と提案する。
 「よーし、じゃあ仲直りのキスだ」
 ……殺意が湧いた。
 「人前でキスってお前露出狂か、いやだぜいやだ冗談じゃねえ、どうしてもって言うなら房に帰ってから!?」 
 「今しなきゃ意味ねーよ」
 往生際悪く暴れる俺を抱きすくめてレイジがきっぱり断言する。こいつ本気だ。刻々と迫りつつある身の危険を感じた俺は周囲に視線を巡らして助けを求めるが幸か不幸かこっちに気付いてるヤツは皆無、全員それどころじゃねえって切迫した顔で正面を凝視してる。助けろ鍵屋崎サムライ!宙を蹴りながら心の中で叫ぶが二人ともこっちを振り向きもしねえ、薄情者め!
 鍵屋崎とサムライはふたり並んで、亡霊でも目撃したように強張った顔を虚空に据えてる。レイジの手から逃れようと躍起になって暴れながら心の中で何度も鍵屋崎を呼ぶ、サムライを呼ぶ、二人に応援を頼むが報われない。
 やばい、本格的にピンチだ。絶体絶命だ。
 俺にはかなり頻繁に絶体絶命のピンチが訪れるがこれはある意味最大の危機だ。
 脳裏で警報が鳴り、全身の血が逆流する感覚に襲われる。
 レイジの吐息を耳朶に感じる。レイジの手の火照りが腹を温めて素肌がしっとり汗ばむ。まわりの連中にバレたらどうしようなんて言い訳しよう?気が動転した俺の顎に手を添えて振り向かせたレイジが、眼帯に覆われてない右目をいたずらっぽく細めて顔を近付ける。
 「!!んっ、」
 逃げる暇もなかった。一瞬だった。唇が柔らかい感触に包まれた。身構えたが、舌は入って来なかった。熱い舌が丁寧に上唇を舐め、下唇を舐める。
 たっぷりと余韻を味わうキス。
 一昨日の記憶が生々しい感触を伴って甦る。
 唇を這う舌の艶かしい動き、透明に筋ひいて顎から喉を伝う唾液の滴り……
 たっぷり三秒経ってから名残惜しげに唇が離れた。
 気付けば俺はレイジのシャツの胸を握り締め、激しく肩を喘がせていた。知らず知らずのうちに息を止めていた。俺はまだキスに慣れてない、キスの仕方もろくにわからなくて受け身に回るより他ないのだ。それがたまらなく悔しくて、シャツの胸を掴んで顔を伏せれば、頭上から軽い声が降ってくる。 
 「お前の唇、甘い」
 ご機嫌な笑顔のレイジが、満腹した豹のように扇情的に唇を舐め上げる。そして俺の顎を掴み、無理矢理顔を上げさせる。レイジの顔が睫毛が縺れる至近距離に迫り、世にも稀な美しさの茶色の虹彩がきらめく。
 フェロモン垂れ流しの魅惑の笑顔。
 「ハーシーのチョコの味だ。つまみ食いしたろ」
 「キスだけで銘柄わかんのかよ、すごすきだろ!?」
 思わず大声をあげてしまった。そりゃ確かに俺は昨日こっそりレイジが寝静まってから毛布に隠れてチョコがっついたけど、たったあれだけのキスで、三秒こっきりのキスで銘柄まで言い当てるなんて凄すぎる。 
 「大体チョコの味なんてどこも同じだろ、ただ甘いだけだろ!?でたらめ言うなハーシーの回し者!!」
 「微妙に違うんだって、ハーシーはカカオの風味が濃いんだよ。前にハーシー好きなアメリカ女と付き合ってたからわかるんだ。リズの唇もこんな味したよ。隅におけねーなロン、俺に黙ってつまみ食いなんて水くさい。同房のよしみで仲良くチョコ分け合おうぜ」
 レイジが虎視眈々と俺の尻を、もとい尻ポケットを狙う。尻ポケットには全部食べきれなかった板チョコが無造作に突っ込んである。野郎どこまで意地汚いんだ、元はといえば俺が昨日の夕飯食べ残したのもレイジのせいなのに貴重な栄養源のチョコにまで目えつけるなんてふてー野郎だ!
 「誰がてめえと分けるか、これは俺のチョコだ、ひとかけらだってくれてやるか!」
 「ちぇーケチ」
 「ケチで結構。望めばなんでも手に入る身分の王様のくせに人の食い物狙うなんて意地汚いにも程があるぜ、そんなにハーシーが欲しけりゃリョウに頼めよ、このチョコだって元々あの男娼がフェラチオと引き換えに」
 
 ―「そこ、うるさいぞ!!新所長就任の挨拶中だ、私語は慎め!!」―

 びりびりと鼓膜を震わす怒号に首を竦める。あっというまもなく周囲にたむろった囚人どもを蹴散らしてこっちにやってきたのは看守の大群。憤怒に充血した形相を見た瞬間、全身にびっしょり汗をかいた。咄嗟に回れ右して人ごみに逃げ込もうとしたが、首の後ろを掴まれ引き戻されるほうが早かった。鼓膜にどよめきが押し寄せる。俺をとっ捕まえた看守がここぞとばかりに警棒を振り上げる―
 脳天かち割られる。
 「よしたまえ」
 「!」
 反射的に頭上に腕を掲げて目を閉じた俺は、いつまでたっても脳天に衝撃が訪れないことを不審に思いつつ、おそるおそる瞼を開く。 
 目の前に道ができた。視界を塞いでた囚人どもが綺麗に真っ二つに割れてその時初めて演台に立つ人物の姿を肉眼が捉えた。それまで俺の頭上を流れていた低い声は、あの男が発したものだと漸く理解した。レイジの愛撫で集中力を散らされて演説に耳傾けるどころじゃなくて、男が喋ってる内容なんてこれっぽっちも理解してなかったが、それまでずっと声は聞こえていた。低く太く威圧的な響きの声……支配者の威厳を具えたバリトン。
 タジマが、いた。
 「タジ、マ?」
 目を疑う。頭が真っ白になる。脳の最奥に閉じ込められた悪夢が封印を解かれて鮮明な映像が射し込む。タジマ。東京プリズンを恐怖と暴力で支配する最低最悪の看守、入所以来俺のケツを狙ってしつこく追いまわした男。俺と鍵屋崎を売春班に落とした張本人。俺に目隠しして煙草の火で焼いて捻挫した足をぐりぐり踏みにじって何度も何度も俺に地獄を見させた張本人……
 たった二週間で、帰ってきやがった。
 見違えるように痩せて。見違えるような威厳をおびて。
 全身の血が凍る戦慄、足元に穿たれた巨大な穴に吸い込まれるような喪失感。看守数人に取り押さえられた俺は、ごくりと生唾を飲み、今にも萎えて崩れ落ちそうな膝を気力だけで支え続ける。タジマが帰ってきた。カエッテキチマッタ。昨日鍵屋崎が見たのは幻覚なんかじゃなく本物のタジマで俺は、俺たちはこれから先も一生、東京プリズンにいる限り一生タジマに苦しめられる運命で……
 「ロン、しっかりしろ。あれはタジマじゃねえ。よく似てるけど別人だ」
 俺の隣、同じような格好で上体を突っ伏したレイジが口早に囁く。
 レイジの囁きで幾分正気を取り戻した俺は、一縷の希望に縋り、集中力を高めて正面に目を凝らす。
 違う。タジマじゃない。別人だ。
 三つ揃いのスーツを隙なく着こなして、傍らに犬を連れた男は容貌こそタジマを彷彿とさせたが、纏う空気は全くの別物だった。体重も全然違う、少なく見積もっても30キロは違う。
 タジマが暴力で弱者を支配するなら、目の前の男は権力で他者を支配する陰険なエリートだ。
 「あいつ、誰だ?タジマとよく似てるけど、何者だ」
 「お前聞いてなかったのか?新所長だって言ったろ」   
 俺を押さえ込んだ看守に性急に問えば、嘲笑を返された。新所長?あいつが?タジマとよく似てるけど、血縁者なのか。混乱する俺を演台から見下ろし、男が無表情に言う。
 「やはり。前任者が無能だったせいか、ここの囚人は躾がなってない」
 露骨に嘲りを覗かせた口調で言い捨て、レイジに視線を移す。爬虫類めいて粘着質な、冷たい熱を孕んだ凝視。胸が不吉にざわめく。不穏な空気が中庭に充満する。新所長はかすかに口元を歪めて不快感を表明、対するレイジは不敵ともとれる醒めた無表情で視線を跳ね返す。
 よく引き締まった首筋を流れた金鎖が耳心地よく清冽な音を奏で、黄金の帯を曳いて体前で十字架が揺れる。
 不意に口元が弧を描き、大胆な笑顔が生まれる。
  
 『Nice to meet you.And good-bye. Your visit is not the thing which I hope for.』 

 流暢に挨拶したレイジの胸の前を眠りに誘う振り子の緩慢さで十字架が行き来する。
 雲の切れ間から射した一条の朝日を吸い込んで黄金の輝きを放つ十字架を一瞥、タジマによく似た新所長は口角を吊り上げて邪悪に笑った。
 そして新所長は命じた。
 舐めるようにレイジの顔を眺めて、嗜虐の悦びに爛々と目を光らせて。
 「その囚人二名を私のもとへ連れて来い。就任演説の妨害の代償にふさわしい刑罰を与えよう」
 男の足元では漆黒の毛艶の犬が獰猛に唸っていた。
 地獄の番犬ケルベロスだ。
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