少年プリズン

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三百五十五話

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 「帯刀分家が嫡男、静流が参ります」 
 剣を正眼に構えて堂々と名乗りをあげる。
 切っ先は微動もせず、真っ直ぐにサムライをさしている。
 静流の眼差しは揺るがず、ひたりと目に虚空を映している。
 水に棲む魔性の目。
 あらん限りの憎しみを込めてサムライを殺すと宣言しておきながら、その目は一切の邪悪と無縁に澄み切っている。
 まるで水鏡。
 明鏡止水の目。
 名は体を現す。
 己の名を体現するが如く清冽な気を纏い、瞼を下ろし瞑想し気息を整える。
 瞠目。
 宙吊りにされた僕が成す術なく見守る前で静流は完全に世界と同化する、呼吸に合わせて体内で練り上げた闘気が四肢に満ちていく。
 しかし静流自身は緊張とは無縁に穏やかな顔をしている。
 限界まで張り詰めて切れるのを待つ糸のような緊張感も殺気も微塵もなく、生死を決するこの期に及んで異様にリラックスしている。

 この世のしがらみから解き放たれた安らかな表情。
 悟りを開いた恍惚の表情。

 剣を正眼に悠然と踏み構えたその姿には、才の突出した者特有の余裕と威厳が漂っている。
 束の間命が危険に晒された恐怖も忘れ、立ち居振る舞いの美しさに見惚れる。
 日舞の玄人ならではの嫋やかな体捌きは艶めかしく、漣立てず水面を歩く足運びで見るものを幻惑する。
 再び目を開けた時、静流の表情は一転していた。
 口元に仄かに浮かんだ笑みは一瞬の内に消え、瞼の奥から覗いた双眸に怜悧な眼光が宿る。
 直感した。
 今この瞬間、静流こそが本当の天才だと確信した。
 そして唐突に理解した、僕自身が静流を嫌っていた理由を。
 勿論サムライに近付く静流を警戒してたのもある、僕の知らないサムライを知る彼に嫉妬を覚えていたのもあるがそれ以前に、遡れば夕焼けに染まった展望台で初めて出会った時からずっと静流に対する生理的嫌悪を感じていた。
 その理由が漸くわかった。
 彼と僕は同じ生き物だ。
 同じ天才なのだ。
 彼に対して抱いた感情は近親憎悪か同族嫌悪か……否、自己嫌悪の裏返しだ。僕は初対面時にわかっていたのだ、爽やかな笑顔の裏の真実の核を掴んでいたのだ。
 天才は天才を知る。
 そして、嫌悪する。
 僕はこれまでサムライこそが人間国宝の才を受け継ぐ天才だと思っていたが事実は違っていた、実際は異なっていた。
 本家の跡取りとして厳しく育てられたサムライには皮肉にも当主を継ぐ才能が備わっていなかった。真実才能に恵まれていたのは分家の嫡男の静流であり、それを知った莞爾は実の息子に辛く当たった。

 皮肉な行き違いが生んだ悲劇。

 弔いの火の粉が舞いとぶ炉傍で、上着の裾を颯爽とはためかせ静流が疾駆する。
 囚人服の裾が風を孕んで音高くはばたき、パッと舞い上がった火の粉が視界を赤く熱し、前髪を燻す。  
 風圧に舞い上がる前髪にも構わず、細腕の鉄パイプを振り上げる。
 火の粉に焦がされて皮膚に火傷を作りながら間合いに攻め入り、袈裟懸けに斬る。
 流麗に流れる剣は肉を斬り骨を断つ威力でもって致命傷を与える。
 「サムライっ!」
 肉が爆ぜて鮮血を撒き散らす幻覚を見た。
 袈裟懸けに斬られたサムライがよろめき、炉に没する幻覚を見た。
 僕の不安が見せた幻を裏切り、サムライは間一髪斬撃を避けて後方に飛び退いていた。安堵する暇もなく次が来る。

 まさに、水。

 ある時は瀑布を上げる滝のように残像を脳天から断ち割り、ある時は岩をせかるる水のように緩急変化に富む曲線を描く。
 直線と曲線が見事に融和し、身の毛もよだつ冴えを見せる。
 静流が生き生きと舞う。
 美しく優雅にしたたかに、殺戮の高揚に身を委ねる。
 殺戮の衝動に身を委ねる。
 静流はもはや人斬りの本性を隠そうともせず、面に血化粧を施された美しき修羅と化し、静かに流れる水の如き剣筋でサムライを追い詰めていく。
 劣勢に追い込まれたサムライが眉間に縦皺を刻み、切れ長の双眸に憔悴の光を揺らす。
 「僕が天才だって?」
 静流が皮肉に笑う。絶望に蝕まれた微笑み。 
 自嘲的な笑みを浮かべながらも追い詰める剣筋は手を抜かず、冷静に言葉を吐く。

 「嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ。そんな世迷言は那由他でも阿僧祇でも否定してやる、僕の生が続く限り否定し続けてやる。君が凡人で僕が天才、君が努力の人で僕が天才?認めない、絶対に認めない。本家の長男は生まれながらに何もかもを持っていた、生まれつき優れていた、完全無欠の人間だと周囲にそう聞かされて己を卑下して育ってきたんだよ僕は。さすがは本家の跡取りだ、分家とは出来が違う、立派な跡取りがいて帯刀家も安泰だ、それに比べて分家の跡取りは女々しくて情けない、女みたいななりをして覇気に欠ける、本家の跡取りの爪垢でも煎じて飲ませたらどうだ、いっそ女に生まれてくればよかったものを……
 皆が僕にそう言った、爪剥がれるまで刀を振るい必死に君に追いつこうとする僕をあざ笑った。僕は帯刀家に相応しくない人間だと本家の引き立て役にすぎないのだから分をわきまえろと、誰も彼もがお節介な説教を垂れた。くどくどしく」

 静流の目に狂気の光が揺らめき、剣捌きがさらに速くなる。
 饒舌に唄いながらも振るう剣筋は衰えを知らず切れを増すばかりで文字通り太刀打できない。
 興に乗った静流がいっそぞんざいに鉄棒を叩き付ける。
 鉄と鉄が激突する甲高い音が響き、火花が散る。
 上段からの打ち込みを立てた鉄棒でサムライが受け止める。
 鉄棒と鉄棒がぶつかる。
 技と技が相殺し、力が拮抗する。
 「僕が天才などであるものか。僕が天才なら稽古で一度も君に勝てなかった説明がつかない」
 静かな怒りを孕んだ顔と声で静流が唸り、関節が白く強張った手にさらに力を込める。
 華奢な体躯と折れそうな細腕からは想像もできぬ力でもって鉄パイプを押し込む宿敵と対峙、サムライが抗弁する。
 「お前自身が実力に枷をかけていたのだ。俺に引け目を感じて実力を出しきれなかったのだ」
 「僕が思い込み激しいみたいに聞こえるけど」
 さも心外そうに眉をひそめる静流を見下ろし、僕は呟く。
 「それは違う」
 サムライと睨み合ったまま耳だけこちらに傾ける静流に、腕と脇腹の痛みを堪えて説明してやる。
 「ただ激しいんじゃない、『異常』に激しいんだ」
 息をするたび脇腹が痛む。全身が疲れている。
 吊られた腕が麻痺し、澱のような虚脱感が脳天からつま先へと下りていく。大量の汗で濡れそぼった上着が素肌に貼り付いて気持ち悪い。眼鏡をとられたせいで視界がぼやける。
 それでも意識を保ち続ける為に口を開く、今にも萎えそうな気力を叱咤して今にも蒸発しそうな理性をかき集めて舌を動かす。

 侍の生き様を見届けるために。

 「静流、君は思い込みが激しく暗示にかかりやすい体質の人間だ。それに加えて人格未形成の幼児期から常にサムライと比較され続けてきた。俗に言うマーフィーの法則、パブロフの犬だ。
 もともと心理学ではなく量子力学の三原則から発展した用語だがこの際まあいい、説明を続ける。静流、稽古に際して君の実力が制限されて一度たりともサムライに勝てなかったのは君自身のせいだ。君自身がサムライに劣ると思い込んでいたから皮肉にもその通りになってしまっただけのことだ。本当はサムライより遥かに優れていたにもかかわらず勝てなかったのは他ならぬ君自身が己の才能を疑っていたせいだ、自分の才能を信じきれなかったせいだ」

 誰よりも自分の才能を信じ続けなければならない自分自身がそれを裏切ったのでは全く意味がない。
 生まれつき人より多くを与えられていたとしても自分自身がそれを知らなければ、もとより何も持ってないのも同じ事。
 持たざる者は持てる者を羨み、そのすべてを欲する。
 どこまでも浅ましく貪欲に自滅の道を突き進む。
 
 自分を卑下するのは自己の才能に対する冒涜だ。
 自分を卑下するのは自己に対する最大の侮辱だ。
 何故それに気付かない、気付こうとしない。 
 静流、君ほどの人物が。
 貴様ほどの天才が。
 
 息を継ぎ、叫ぶ。

 「たとえまわりの人間が何を言ったとしても君だけは自分の才能を信じ続けねばならなかった、自分の才能を疑ってはいけなかった、誇りを持ち続けねばならなかった!君が道を踏み誤ったのは他の誰のせいでもない、勿論サムライのせいでも君に復讐を命じた母親とそれを容認した姉のせいでもない、いちばんの原因は帯刀静流貴様自身だ!!
 君には十分選択の余地があった、ここに来る前に何度も何度も引き返すチャンスがあった、最悪の結末を回避する手段があった!!
 姉を愛していたらなら二人で遠くに逃げればいい、だれも君たちが姉弟と知らぬ場所でやりなおせばいい、近親相姦がなんだそんなものどこが禁忌だというんだ、遺伝子の近さで障害児が生まれるのがまずいのか、血の繋がった姉弟で性行為に及ぶのがまずいというのか?!
 前者がまずいのは異常のある子をわが子と思えない場合だけだ。
 全くの他人同士でも障害のある子は生まれるんだ、姉弟間でも何ら異常のない子が生まれる事もあるんだ、将来的に生まれる子供の話など命をだしにした卑劣な言い訳に過ぎない、統計的にも遺伝的にも不確定要素が多すぎて否定材料にならない!
 後者の場合は問題にならない、愛し合ってるなら性行為に及べばいい、愛し合ってる者同士が体を重ねて何が悪い、愛する人間と体も心も深く繋がりたいのは有史以前の当たり前じゃないか!?」

 体の中で出口をさがして激情が渦巻く、脇腹の痛みすら圧してとめどなく湧き上がる感情に翻弄される。
 苗はサムライが弟だと知って首を吊った。
 もしそれが本当に自殺の理由なら苗を恨まずにいられない、血の繋がった姉弟だからとたったそれだけで幸せになるのを諦めたとしたらその潔さを憎まずにいられない。
 何故サムライを独りにした、苗。
 サムライは貴女を愛していたのに、貴女だけが辛い日々の拠り所だったのに、何故最後まで生きて彼のそばにいてやらなかったんだ?

 何故彼を、こんな所に来させてしまったんだ。

 僕は苗を恨む。
 その潔さと誇り高さを憎む。
 どんなに非難されても苦しんでもそれでもサムライと共に生きて欲しかった、サムライと添い遂げてほしかったと呪わずにはいられない。
 何故そんなに簡単に幸せを諦める? 
 潔く誇り高く往生際良く、美しい自己犠牲精神でもって愛する人の手を放せるんだ?  
 僕なら絶対に放さない。
 どんなに見苦しく往生際悪く利己的でも大事な人の手を放したりするものか、サムライの手を放したりなどするものか、サムライをひとりになどさせるものか。
 僕は彼と幸せになるんだ。
 彼と一緒に幸せになるんだ。
 東京プリズンで生き延びて、いつかは生きてここを出るんだ。
 死人にも静流にもサムライは渡さない。
 天才のプライドと威信に賭けて、僕らの生きるこちら側にサムライを引きとめ続けてやろうじゃないか。

 「そんなに薫流が好きながら家のしがらみを断って二人で逃げればよかった、母親と姉に言われるがまま刀で刺し殺したのは君自身だ、即座に刀を捨てて薫流を抱きしめることもできたのにそうしなかったのは君だ、君自身だ!!自分の愚かさ罪深さを他人になすりつけるな、逆恨みをするな、妄想に逃げるな!
 僕は貴様を軽蔑する、帯刀静流。
 なるほど貴様は天才だが一片の尊敬にも値しない男だ、自分の才能を信じ続けられなかった弱さがもたらした悲劇を今なお受け入れるのを拒絶し逃げ続ける惰弱で最低な男だ。僕は貴様を唾棄する、今なおサムライを苦しめ続ける貴様を憎む!!」
 「才能を信じ続ける才能がなかったんだよ、僕は」
 静流が唇をねじまげて嘲弄する。
 儚い諦念の滲んだ微笑。
 「誰も彼もが君のように自信を持てるわけじゃない。あんまりうるさいと縄を切るよ?」
 「直に手を触れるな!」
 静流の言葉にサムライが激昂、両腕に静脈の筋を立てて一気に鉄パイプを押し返す。
 力の均衡が崩れ、静流が素早く飛びのく。
 白鷺の羽ばたきに似た身ごなしで華麗に跳躍、再び鉄棒を構える。
 「……寡黙を尊ぶ帯刀家の人間の癖に口数多すぎだね、僕は。これからは慎むよ」
 恥じらうようにはにかみ、風鳴りに似て鋭く呼気を吐く。
 「!―くっ、」 
 静流の振り被った鉄棒が容赦なくサムライの脛を打ちのめす。
 脛を強打された激痛に苦悶の形相を浮かべるも何とかその場に踏み止まり防御の構えをとるも遅く、鉄棒を水平に伸ばした静流が小走りに間合いに突入する。
 水際立った身のこなしでサムライの間合いに駆け入り、懐に潜り込む。
 静かに流れる水の如く。
 気配も感じさせずにサムライの懐に潜り、灼熱の鉄棒で刺突をくりだすー……
 「サムライが敗けるものかっ!!」
 ささくれだった縄が手首を締めて痛みを与える、その痛みを堪えて檄を飛ばす。
 僕の声に反応したサムライが辛くも兇刃を防ぎきる。 
 「天才が認めた凡人が自身すら認めない天才に敗けるものか!!」 
 「僕だって姉さんに認められていた!」
 「その姉を殺したのは誰だ!?」
 静流が悲痛な顔をする。
 唯一の理解者を自分の手で殺した事実の重さに打ちのめされ、一瞬の隙ができる。
 いまだ。

 「ォおおおおおおおおおおおおおおおォおおおおおおおおおおおおォおおおおおおおっっ!!!!」
 
 裂帛の気合を込め、火の粉で真っ赤に灼けた鉄棒を蒸気噴き上げる手に握り、全身全霊で挑みかかるサムライ。
 実体なき水のように様々に形を変える静流の剣筋とは違う、全てを打ち砕き破壊する迫力の剣筋が大気を貫く。 
 悲劇の連鎖も血の呪縛も。
 見えざるものすら断ち切り炎で浄化させる、烈火の剣。
 この期に及んで無防備にも正面から突っ込んでくるとは予測できず、静流がうっすらと笑う。
 勝ち誇って微笑む静流の眼前、サムライが攻撃に移る。
 鉄パイプの表面にふれた火の粉がじゅっと音たて、瞬時に蒸発する。
 静流は余裕で剣を構え、サムライを迎え討つ準備を整える。
 僕は気付いていた、静流の鉄パイプが傷だらけなことに。
 少しの衝撃で折れそうなことに。
 ひょっとしたら静流自身気付いていたのかもしれない、ぼろぼろに傷んだ手中の鉄パイプで斬撃をふせぎきれるかわからないと。
 それでも静流は剣を引いて体勢を立て直すことなく、体前に鉄パイプを翳してサムライを受けて立つ。
 サムライが渾身の力で鉄パイプを振り下ろす。
 ぼろぼろに傷付き、全身至る所に酷い火傷を被ったサムライが放った必殺の一撃が難なく受け止められる……

 否。
 受け止めきれなかった。

 「!!!」
 宙高く鉄パイプが舞う。
 火の粉が盛大に舞い飛ぶ中、宙に放擲された鉄パイプが僕の鼻先を掠める。
 いつか見た光景が鮮烈に蘇る。
 展望台の突端に佇む少年、夕焼けに染まるコンクリート。
 残照に映える黒髪の少年が緩やかに振り向き、そしてー……

 『久しぶりだね。貢くん』
 玲瓏と澄んだ声が聞こえた。
 幻聴だった。

 現実の静流は眼下にいる。
 眼下の通路にてサムライと対峙している。
 今しも静流の手をはねとばされた鉄パイプが滑るように炉に落下、増殖する泡の中へと呑みこまれていく……

 終わった。
 静流の、敗けだ。

 「……参ったね。今ので腕がへし折れちゃった」
 傷んだ鉄パイプは衝撃に耐え切れなかった。
 腕もまたしかりだ。
 鉄パイプを遡った衝撃に右手の骨が砕けたらしく、無意識に右腕を庇い、そのまま後方へとよろめく。
 サムライは茫然自失の体で立ち尽くしていた。不規則に乱れた呼吸といい額をしとどに濡らした脂汗といい、二本足で立っているのが奇跡に近い疲労困憊の相を呈している。
 だが、ざんばらに乱れた前髪の奥の目は死んでいなかった。
 炉の炎にも負けず旺盛に輝いていた。
 静流は虚ろな無表情をさらしていた。
 利き手は折れ、得物を失い、もはや完全に勝機はなくなった。
 足が縺れ、体がよろめく。
 吸い寄せられるように手摺に身を凭せる。
 背中に体重を預け、手摺を押す。
 「待て静流、その手摺はさっき君が鉄パイプをぶつけた……!!」
 手摺が後ろ向きに傾ぎ、静流が背中から虚空に放り出されたのは次の瞬間。
 ほぼ同時に、僕自身にも異変が起きる。
 「!?っ、」
 さんざん暴れたせいか火の粉に焼き切れたか、僕の手首を縛った縄が緩み、自重でちぎれる。
 耳朶で風が唸る。
 落下の風圧で前髪が捲れる。
 虚空に放り出された僕の眼前、サムライが必死に手を伸ばす……
 「直っ!!!」
 呼びかけに応じ、無我夢中でサムライの手を掴む。
 通路に腹這いになったサムライは手摺が壊れた向こう側へと胸まで乗り出し、その右手で僕の全体重を支えている。
 そして、左手には―……
 静流が、いた。
 虚ろな無表情のまま、サムライに腕を掴まれ宙にぶらさがっている。
 右手に僕を、左手に静流をぶら下げたサムライの顔に大粒の汗が噴き出し、両腕が見る間に青黒く鬱血していく。 
 下方から噴き上がる火の粉が頬を舐める。
 足元では轟々と炎が渦巻いている。
 さっき沈んだ鉄パイプは跡形もなく溶かされて泡に帰してしまった。
  
 サムライは僕ら二人を両手にぶら下げたまま、激しい焦燥に苛まれた葛藤の表情で唇を噛んでいる。

 僕か静流か。
 救えるのはどちらか一人だ。
[newpage]
 「レイジっ!」
 風圧に抗い目をこじ開ける。
 腕で頭を庇い窓に突っ込んでいったレイジに手を伸ばすもとどかない、懸命に伸ばした手は空を掴むばかりでレイジの後ろ襟をつかまえられない。レイジが前のように髪長いままなら後ろ髪ひっ掴むこともできたのにそれもままならない。
 褐色のうなじを閃かせて車の縁から跳躍、猫科の俊敏さで宙に身を躍らせたレイジが慣れた身ごなしで窓ガラスをぶち破り車内へ消える。
 窓ガラスがハデに割れる。
 盛大な音が鳴る。
 窓ガラスに放射線状の亀裂が生じる。
 真っ白に爆ぜた窓ガラス、粉微塵の破片が鋭利にきらめき頭上に降り注ぐ。
 ジープが跳ねる。
 おもわず舌を噛みそうになる。
 レイジと入れ替わりにハンドルを握った安田は舌を噛まないよう口元を一文字に引き結び、厳しい面構えで前だけを見てる。
 とにかく事故らないようにまかり間違ってもジープが転覆しないように最大限の注意を払ってハンドルを操りじゃじゃ馬を馴らしている。
 タイヤが砂利を噛み、砂の瀑布を巻き上げる。
 タイヤに抉られた轍が延々とあとに続いている。
 蛇行する轍を作り疾駆するジープの上、転落するぎりぎりまで身を乗り出した俺は固唾を呑み、完膚なく硝子が破砕された窓の中を覗き込む。
 「まったく王様め、無茶しやがって!ロバの耳かよアイツ!?」
 ちょっとは人の説教まじめに聞けってんだ、懲りろってんだ。
 レイジは無事なのか?
 猛スピードで走行中のジープん中じゃ様子がわからない、砂の瀑布に遮られてバスの運転席の様子が窺えない。
 露骨に舌を打ち、砂でじゃりじゃりする口を手の甲で擦って運転席に向き直る。
 「止めろよ安田、レイジはあの中だ、俺もあとを追う!」
 「無茶を言うんじゃない!時速100キロのジープからバスへ飛び移るのは異常な身体能力に恵まれたレイジだからできたことだ、君が実践したら無難に死ぬ!刑務所の秩序と安全をつかさどる副所長として危険なまねを許すわけにはいかない!」
 「あんま堅苦しいこと言ってんとハゲんぞ安田、盗んだジープで走り出したくせにこまけーこと気にしてる場合かよ!?」
 「盗んだのではない、借りたのだ。副所長の権限は逸脱してない」
 焦燥の面持ちでハンドルをさばき、安田がきっぱり言い返す。
 自己弁護はお手の物だ。
 俺は安田の肩に手を添え立ち上がり、背後から首を絞めんばかりの勢いで食ってかかる。
 「レイジが、俺の相棒があの中にいるんだよ!暴走バスん中でヨンイルと殴り合ってんだよ、万一レイジがやりすぎちまった時のために俺がいなきゃまずいだろうが!あんたは知んねーかもしれねーけどレイジを止められんのは俺だけだ、この世でたった一人俺だけだ。今すぐジープを止めて俺を行かせねーと後悔するぞ、この先バスが砂漠に突っ込んでガソリンにエンジンが引火して爆発すんの確実だ」
 安田がちらりと俺を見る。
 銀縁眼鏡の奥の双眸が細まり、嘆きの表情が浮かぶ。
 俺は一歩も意見を譲らない頑固な顔つきで安田を睨みかえす。
 目の下に隈を作り頬がやつれた憔悴の面差しには疲労の色が濃いものの、おそろしく切れ者の印象を与える双眸の鋭さは失われてない。
 眼鏡の奥でしずかに瞼を下ろし安田が自問する。
 俺は運転をトチらないかひやひやして安田の手元に目をやっていた。だが安田はふしぎと運転をミスしなかった、眼鏡の内の目を閉じていてもどこでハンドルを切ってアクセルを踏みブレーキをかければいいかが条件反射として体に染み付いてるらしく円滑な動作でジープを御している。安田が手元をおろそかにしないか心配しつつ、身を乗り出しがちに後部シートに正座して答えを待つ。
 憂慮に眉をひそめ、安田がそっけなく首を振る。
 「ダメだ、副所長として勝手なまねを許すわけにいかない。私の手のとどかぬところで危険に身をさらすのは直ひとりで十分だ。せめて視野に入るところでは囚人の安全を守りたい」
 キレた。
 こめかみの血管がまとめて二三本ぶち切れる音がした。
 俺は衝動的に立ち上がり運転席に身をのりだすや、狼狽する安田からハンドルをひったくる。
 肩から当たって安田を押しのけ強引にハンドルを掴む、足元に視線を落としてブレーキ板をさがす。
 あった、あれだ。
 ブレーキ板に乗っかった安田の足をぞんざいに蹴りどかし、隙間に薄汚れたスニーカーを割り込ます。
 「なにをするロンやめないか、大人しく後部シートに座っていろ、交通法違反で逮捕するぞ!」
 「もう逮捕されてんだよ、前科が積み上がったらロン!て叫んでやるさ!」
 狭苦しい空間に体ごと乗り込み見よう見まねでハンドルを操作する。安田の手の上から右へ左へと勘と気の向くままハンドルを回せば、起伏に乗り上げたジープが盛大にバウンドする。
 俺からハンドルを奪い返そうと必死な安田と激しく言い争いながらも意地でもハンドルは渡さず、ブレーキ板に足をのせる。
 「今助けにいくからな、レイジっ」
 全体重をかけてブレーキを踏み込む。
 もちろん俺は無免許だ、車の運転なんざ出来るわきゃない。
 なにも威張れることじゃないがここまできたらもう開き直るっきゃない、腹を括って突っ走るっきゃない。
 正面の虚空を睨み、奥歯を食い縛り衝撃に耐える。
 「危ないっ!」
 隣で安田が叫び、大声に驚いて咄嗟にハンドルを切る。
 ブレーキを踏み込むと同時に手が滑りハンドルが勝手に回り、砂の飛沫を上げて蛇行したジープがバスの進路方向に踊りだす。
 ハンドルを握る手がじっとり汗ばみ、緊張で異様に喉が乾く。

 よりにもよってバスの目と鼻の先。
 正面衝突は避けられない。

 押しても引いてもうんとも言わず、癇癪起こしてけっぽってもプスンと不機嫌なエンジン音を立てるばかりで完全にヘソを曲げちまった。
 エンジンが故障したのだ。酷使が祟ったエンジンが濛々と蒸気を噴き上げる中、砂でざらつく口を大きく開けて息を吸い込む。
 『停!!』
 停まれ。 
 関節が白く強張る程にハンドルを握り締め、顔を真っ直ぐ上げてガンをとばす。猛然と迫り来るバスの運転席にヨンイルが座ってる。
 その後ろにレイジの姿もちらりと見えた。
 「ロン!」
 耳の裏で安田の声がする。
 放心の体でハンドルを握りながら横に目をやると、焦燥にひりつく面持ちで安田が怒鳴り、俺の肩に手をかけ激しく揺すってる。
 そうだぼんやりしてる暇はない今すぐ逃げなきゃでもジープはどうする故障して動かないのにエンストこのままほうっぽっていやでもバスと衝突はさけられないどうするどうする俺、どのみちこのままじゃバスの自重に押し潰されて安田ともどもー……
 瞼の裏をいつか見た光景が過ぎり、鼻腔の奥に鉄錆びた悪臭が広がる。

 廃車の下敷きになって絶命したチームの連中、手榴弾の爆発で手足がちぎれてぶよぶよと奇怪な肉塊と化したガキども、大破したスクラップ置き場の光景ー……
 おぞましい惨劇の現場。

 「っ………!」
 記憶の中の光景がすぐにも現実になる予感に戦慄し、体が硬直する。今度は俺がバスの下敷きになって潰れる、ひしゃげたジープの下敷きになってみじめな亡骸をさらすばんだ。
 俺の中で何かが切れた。
 狂ったようにハンドルを殴り付けアクセルを踏み込む、甲高い奇声を発して躍起になる。
 だめだ、間に合わない。
 バスはすぐそこまできてる。
 エンジン音が大きくなる、強大な重圧を感じる、バスの巨体が視界を圧して影に呑み込まれる。 
 俺の頭上にバスの巨体が被さってくる……
 「ロンっ!!!!」
 叱責に鞭打ちたれ、体が宙に投げ出される。
 天地が反転、視界を茜空が占める。
 何が起こったのか一瞬わからなかった。
 俺を小脇に抱いた安田が間一髪、衝突寸前のジープから脱出したのだと気付いたのは地面に不時着してからだ。
 ネクタイと背広を翻し砂の上に転がる安田、その小脇に抱かれた俺も落下の勢いを殺せず砂の上を転がる。
 それでも安田は俺を放さなかった。
 俺の体をしっかり抱き抱えたまま砂に叩き付けられ全身を打撲し全身砂まみれで転がり、眼鏡にひびを入れて落下の衝撃に耐え切った。
 安田と衝撃を分担したおかげで、俺自身は擦り傷だけですんだ。
 「ぶっ!」
 突然目の前が暗くなり呼吸が苦しくなり口の中にじゃりじゃり砂が流れ込む。安田が俺の上にかぶさってるのがわかる、背中にぴたり体を密着させ俺を庇うように伏せってるのがわかる。
 でも重い。
 砂に埋もれてこ息ができやしねえ。
 砂から顔を引き抜き、唾と一緒に砂を吐き出す。
 そして、目を見張る。
 目の前でバスとジープが転覆していた。
 「レイジいいいいいいいいいィいいいいいいいいいいいいい!?」
 砂に突っ伏した姿勢から跳ね起き、一散に走り出す。
 砂に足を取られて往生しつつ焦燥に駆られてバスに近寄り、中腰の姿勢でフロント硝子を覗き込む。
 くそっ、一面に砂がへばりついて何も見えやしねえ。
 フロント硝子の砂を拭おうと手を掲げ、こんな悠長なことしてる場合じゃねえと自分の馬鹿さ加減を呪い、はやる気持ちを抑えて横手に回りこむ。
 砂を蹴散らして迂回し、ひどく苦労してバスを攀じのぼる。
 ガラスが爆ぜ飛んだ窓が視界に現れる。
 ついさっきレイジが突っ込んでった窓だ。
 ここからなら出入り可能だと判断、ガラスの破片でギザギザになった窓枠を靴底でならし、窓枠を掴んで中に飛び込む。
 だらりと体がぶら下がる。
 窓枠を掴んだままあたりを見回し、硝子の破片が散乱した惨状に冷や汗をかく。
 バスの中は本来の窓が天井になり平行な床が斜面になり、側壁から座席が生えていた。とっかかりをさがして視線を泳がせるうち床に固定された座席がちょうどいい足場になると発見、息を止めて慎重につま先をおく。
 タイミングをはかり、窓枠からパッと手を放す。
 垂直に落下する途中、手近の背凭れにとびつく。
 「生きてるか、レイジ、ヨンイル?」
 「うぅん…………」
 緊張感だいなしの寝ぼけ声。 
 はっとして視線を落とす。
 窓の片側、すなわち足元の方で呻き声がした。
 窓を背に股開きでひっくり返ってるガキがいた。
 ヨンイル。
 「生きてたのかお前、しぶてーなっ」
 軽く背凭れを蹴った反動で床の斜面を滑り、ヨンイルの所に行く。
 たった今まで事故の衝撃で失神してたらしいヨンイルが薄っすらと瞼を上げ、焦点のおぼつかない目で俺を見る。
 当たり前というか何というか、ヨンイルは擦り傷だらけで結構悲惨な有様だが命があるだけまだしも悪運が強いほうだ。
 無意識にゴーグルをさぐりつつ、朦朧と起き上がったヨンイルの額には硝子の破片が刺さってる。
 「知っとるかロンロン、邪眼の手術てごっつ痛いんやで。傷口をナイフでぐりぐりするのの何十倍も痛いんやて。せやからこん位どってことあらへん」
 「頭打ったのか?気の毒に」
 額からだらだら血を流し寝言をほざくヨンイルを無視、あたりを見回す。
 いた。
 「レイジ!」
 ヨンイルから少し放れた場所にレイジが倒れていた。
 ぐったり倒れ伏せたレイジに這い寄り、意識を失った体を抱き起こす。体じゅうをまさぐり怪我がないか確かめ、ほっと安堵の息を吐く……
 緊張の糸がゆるみ、途端に涙腺が熱くなる。
 「ばかやろう、心配させんなよ。さっきいったばっかじゃねーかよ、心配かけんなって、無茶すんなって。なにが王様に不可能はないだよ、王様だって人間なんだ、走ってる車からバスに飛び移るようなスタントやらかして無事ですむかよ……お前といたら命がいくつあってもたんねーよ」
 ぐったり弛緩したレイジの体に腕を回し、縋るように抱きしめる。
 じんわり熱をおびた瞼をきつく瞑り、規則正しく鼓動する胸に顔を埋め、干し藁に似た匂いを吸い込む。
 「猫には九つ命があるって言うぜ」
 パッと放れようとしたが、遅い。額に熱く柔らかい感触がふれる……忘れようとしても忘れられない唇の感触。意識を失ったふりで俺に寄りかかっていたレイジがしてやったりと笑ってる。悪ガキがそのまま大きくなったような憎めない笑顔に怒りが萎み、いったん振り上げた拳を引っ込める。   
 レイジが無事でよかった。
 ついでにヨンイルも。
 「ロン、二人は無事か?」
 頭上から声が降ってくる。
 いつのまにかバスに攀じのぼった安田が、心配げに窓から覗きこんでる。
 「無事無事。このとおりぴんぴんしてるよ。ドライバーズ・ハイなコイツを運転席から引っぺがすのに少し手こずったけど……ヨンイル、お前今度は何の漫画に影響されたんだ?」
 「ホットロードと特攻の拓……あかん、こんなことしとる場合ちゃう、はやく炉に行かな俺の直ちゃんがさらわれて吊るされてドボンで勇午の二の舞に……ミミズ風呂の恐怖ふたたび……」
 頭を打ったショックで現実と漫画の区別がつかなくなったヨンイルが、破片の刺さった額から血を垂れ流しつつ出口へと這いずっていく。
 ……いや、頭を打ってなくても同じか。
 這う這うの体で座席をよじのぼり、割れた窓から脱出を試みるヨンイルを安田がすかさず救助する。
 俺とレイジもあとに続く。
 どこまでしぶといんだか悪運が強いんだか、擦り傷以外は大した怪我もないレイジは俺の先を越して自力で脱出をはたしちまった。
 助けに来た俺のメンツも考えろっての。
 最後に俺がバスから脱出する。
 安田に右腕をレイジの左腕を引っ張り上げられ、拉致連行される宇宙人さながら二人の間に吊るされた姿勢のまま空を見上げれば、無駄なカーチェイスに時間をとられたせいでとっぷりと日が暮れていた。
 「鍵屋崎を助けに行かなきゃ」
 同意するように安田が深く頷く。
 「ヨンイル、言いたいこと聞きたいことは山ほどあるがとりあえずは後回しだ。現在は鍵屋崎の救出が最優先事項だ。君は、否、君たちは鍵屋崎の居場所を知ってるんだな?鍵屋崎が拉致された場所に心当たりがあるのだな?それは確かか」
 ヨンイル、レイジ、俺を順繰りに見詰めて縋るような面持ちで詰問する。
 内心エリート副所長にこんな人間くさい顔ができることに驚いた。
 眉間に刻まれた皺から割れた眼鏡の奥で真摯な光を宿す目から緊張に強張った顔から、消息不明の鍵屋崎を心配する気持ちが痛い程伝わってきた。
 「あったりまえや。俺がやみくもにバス乗っ取って突っ走ってたように見えたんか?」
 さも心外そうに反論するヨンイルに鼻白む。
 「そうとしか見えなかったけど」
 「しゃあいないやんか、バス運転すんのはじめてやもん!ハンドルがちィとも言うこと聞いてくれへんで肝冷やしたわホンマ。金田一かコナン張りの名推理で直ちゃんの居場所がわかってバスぶんどったはいいものの、ブレーキとアクセル間違えて踏んでまうしハンドルは逆に切ってまうしでミスターノーブレーキ迷走状態やったんや。レイジが来てくれな死んどった」
 「感謝しろよ道化」
 「せやけど何も蹴りいれることはないやろ首のうしろに。人体の急所やで」
 愛嬌たっぷりに八重歯を光らせて、ヨンイルがにっこり笑う。 
 「大丈夫、運がよけりゃ死なねーから」
 反省した素振りもなくレイジがにっこり笑う。
 こめかみに青筋立てたヨンイルが腰を浮かすと同時にレイジも立ち上がり、腕を交差させ互いの胸ぐらを掴む。
 ガキだこいつら。
 鍵屋崎の命がかかってる一大事にやってる場合かよと怒鳴りたいのを堪え、重たい腰を上げて仲裁に入る……
 「鍵屋崎の命がかかってる重大事につまらない喧嘩をしてる場合か、君たちは鍵屋崎の友達じゃないのか!?」
 俺が言おうとした台詞をそっくりそのまま奪い、安田が激発する。
 本気で怒った安田をはじめて見た俺たちは全員揃ってぽかんと口を開ける。レイジとヨンイルは互いに胸ぐら掴んだままあっけにとられ、俺はといえば体の脇に手を垂れ下げたまま間抜けヅラをさらすしかない。
 安田は言い逃れ許さじと毅然たる態度で、辛抱強く俺たちの答えを待っている。
 オールバックは風に吹き乱れて前髪が下り、眼鏡のレンズにはひびが入り、背広のシャツもズボンも全身砂まみれの悲惨な風体はよってたかってレイプでもされたみたいだ。
 だけども不思議な威厳があった。
 どんなに汚れてくたびれていても内から滲みでる高潔さがあった、眼鏡の奥から注がれる眼差しはどこまでも真剣で静かな威圧感があった。
 俺は深呼吸した。
 友達かと問われれば、答えは決まっている。
 「ダチだよ」
 「ダチだ」
 「ダチや」
 暮れなずむ空の下、綺麗に声が揃った。 
 そろそろ残照の最後の一滴が溶け落ちようという頃合で、濃密な暗闇がまわりに立ち込めている。
 俺、レイジ、ヨンイル。
 鍵屋崎のダチだと競うように答えた俺たちひとりひとりに向き直り、その表情を満足げに見詰め、安田が口を開く。
 「なら、やることはひとつだ」
 安田が颯爽と立ち上がる。折から吹いた風が勢い良く砂塵を巻き上げ、安田のネクタイをたなびかせる。
 風に捲れる前髪を片手で押さえ、眼鏡の奥の双眸を細め、はるか砂漠の向こうの巨大な塊に視線をはせる。
 「鍵屋崎を取り戻しにいく」  
 安田を隣に立ち、同じ方向に目を向ける。
 砂丘をこえたはるか向こうに存在する建造物は不気味な威容を醸している。要所要所で直角に折れて連結する鋼鉄のパイプに梯子やら重量感のあるタンクやらが複雑に組み合わさり、直線と曲線が融和した幾何学的な外観は何かの施設か工場をおもわせる。
 「あれか」
 思わず声を上げた俺の隣、伸びた前髪を風に嬲らせ、眼帯で覆われてない右目に愉快げな光を湛えてレイジがうそぶく。
 「焼却炉さ」
 あそこに鍵屋崎がとらわれている。
 サムライと静流がいる。
 「待っててや直ちゃん……今すぐ助けにいくさかいもうすこしの辛抱やで」
 ヨンイルが決意を秘めて拳を握り込み、激しい風から目を守るようにゴーグルをずり下ろす。
 「直を助けるのは、この私だ」
 隙なくゴーグルを装着したヨンイルが先頭きって大股に歩き出し、表情を改めた安田が律動的な歩調で後に続く。
 対抗心を発揮してるんだか何だかヨンイルと張り合って歩を速める安田を見送り、不安を隠せずにレイジの横顔を探る。
 「鍵屋崎とサムライ、ちゃんと帰ってくるよな。俺たち間に合うよな」    
 レイジは答えない。ただ黙って遠くを見詰めている。近くにいるレイジを遠く感じるのはこういう時だ、何も話さずどこかを見ているときだ。
 沈黙に不安が増し、肌寒い風から身を庇うようにレイジに寄り添う。
 視線の先に二対の足跡が続く。 
 無限に連なる砂丘をこえた場所にある巨大な焼却炉へとヨンイルと安田は向かっている。
 取り残された俺たちは互いに寄り添い遠くを眺め、残照の最後の一滴が落ちる束の間、しずかに目を閉じて鍵屋崎の無事を祈るー…… 

 また俺たちが笑い合える日がくるように。
 食堂で馬鹿騒ぎできる日がくるように。
 
 「帰ってくるよ」
 レイジが俺の手をぎゅっと握る。
 俺も手を握り返す。
 しっとり汗ばんだ温かい手に包まれ、覚悟を決める。
 「んじゃ、火遊びが過ぎたダチを迎えにいくか」
 レイジが明るい笑顔で向き直り、俺は自然と苦笑いした。
 「手の焼けるダチをもつと苦労するぜ、本当に」
[newpage]
 サムライの手を握り締める。
 強く強く握り締める。
 僕には彼しかいないと切実な想いを込めて。
 一度断たれた絆を結びなおすように。

 「………くっ………」
 熱い。
 全身から汗が噴き出しシャツがぐっしょりと濡れそぼる。
 体力はそろそろ限界だ。
 脇腹の痛みは激化するばかりで、か細く呼吸するだけで精一杯だ。
 体に力が入らない、力が出ない。
 分散しかけた意識をかき集めて今にも消え入りそうな理性を保つのにひどく消耗する。
 脂汗が目に流れ込み視界がぼやける。頭が朦朧とする。
 意識の余力を振り絞り重たい瞼をこじ開け、鈍重な動作で首をもたげ、極限の疲労と激痛にかすむ目にサムライを映す。
 サムライは恐ろしい形相をしていた。
 顎の筋肉が盛り上がっているのは凄まじい力で奥歯を食い縛って荷重に耐えているからだ。
 サムライは僕と静流を両手にぶら下げたまま大量の脂汗を垂らして腕をもがれる激痛に耐えている。
 どちらか一人を選べばらくになる。
 どちらか一人を見捨てればもう一人を助けることができる。
 しかしできない。
 片方を見殺しに他方を助ける残酷な選択を迫られたサムライは僕らを両手に掴んだままどちらを見捨てる決心もつかず、ひたむきに思い詰めた目に絶望を映している。
 「サムライ……」
 震える唇でよわよわしく名を呼ぶ。
 サムライは僕の全体重を預かっている。
 否、僕だけじゃない。
 正確には僕と静流、二人分の体重をひとりで支えているのだ。
 自分の意志で瞼をこじ開けるのさえ困難な僕の隣では静流が宙に吊られている。前髪で表情を隠し顔を伏せている為その内心までは窺えないが、縋り付く意志も這い上がる意地もなくただサムライに掴まれるさまからは生への執着が感じられなかった。
 生命の危機に瀕しても恐怖を覚えることもなく、業火に焼かれる末期に無念を感じるでもなく、俗世に一抹の未練もなく。 
 ありのままを運命と受け入れて、ありのままを宿命と受け止めて死んでいこうとしている。
 「俺の手を放すなよ、直」
 サムライが力を込めて僕の手を握り締める。
 僕の手を放すくらないら死んだほうがマシだと言葉に代えて。
 サムライに叱咤され、無意識にその手を握り返す。
 汗でぬめった手が滑りそうになるたび力強く掴んでくれる、僕は一人じゃないと勇気づけるように逞しく骨ばった手が掴んでくれる。
 悲痛な訴えが聞こえているのかいないのか、静流は首をうなだれたまま顔を上げようともしない。

 助けられるのはどちらか一人だ。
 僕と静流、どちらか一人だ。

 サムライの体力もあまりもたない。
 僕ら二人を支え続けることでサムライが体力を消耗しきってるのは明白。サムライの腕が徐徐に垂れて、宙吊りにされた僕らがずりおちてるのがその証拠。いくら僕らが華奢で体重が軽いとはいえ二人合わせて100キロはある。100キロの錘を吊り下げたままひたすら耐え続けるのは拷問だ。 
 ぽたり、顔に水滴がおちる。
 右の瞼を濡らした水滴が鼻梁沿いに顔を伝い、口の端に流れ込む。
 塩辛い。
 顔に落ちた水滴の正体は汗だった。サムライは全身にびっしょり汗をかいていた。眉間には苦痛の皺が刻まれて双眸には葛藤の光が揺れて、口角が下がった唇は激しくわなないている。
 「くそっ……」
 自力で這い上がれと四肢に指令をだす、これ以上サムライを苦しめるなと自分に命令する。
 だができない。
 僕の四肢はだらりと垂れたまま指一本すら自分の意志で動かない状態で弛緩しきっている。
 サムライの腕を掴んで這い上がりたくとも体が動かないのではしかたがない、どんなに足掻きたくともその力すら残されてないのでは抗いようがないではないか。
 動け動け動け。
 焦燥に焼かれて一心に念じる、死の恐怖が狂気の衝動を呼び覚まし不意に絶叫したくなる。
 いっそ発狂してしまいたい。
 生殺しの状態が続くのは耐えられない、激痛と疲労に苛まれて朦朧とする頭では思考が纏まらず『死にたくない』死への恐怖『生きたい』生への渇望『生きていたい』意志『生きていたい』かすかな希望『サムライと一緒に』生きたい生きたい生きたい……
 感情の洪水が理性を押し流す。
 死ぬのはイヤだ、こんなところでこんなふうに死ぬのはいやだ、恵に会えずサムライと抱き合えず焼け死ぬのはいやだ。
 世界中の本を読み尽くすまで死ねない、生きてここを出るまで死ねない、生きてここを出て恵を迎えに行くまで絶対死ねない。

 「死んでたまるか、畜生」

 下品な悪態を吐き、なけなしの力を振り絞りしがみつく。
 生き汚いと自嘲する心の余裕はない、ぶざまな天才だと卑屈に笑う余裕もない。
 僕はただただ必死だった、生き延びたくて生き残りたくてサムライと一緒に……
 「何故手を放さない?」 
 声が、聞こえた。
 場違いに落ち着き払った声音。
 静流がゆっくりと顔を上げ、水のように澄んだ目でサムライを見る。
 取り澄ました表情に達観の笑みさえ浮かべるゆとりを見せ、抑揚なく疑問を紡ぐ。
 「勝負は決した。僕は敗けた。敗者は潔く死あるのみ、それが帯刀家の掟だ。手を放しなよ、帯刀貢。みじめな負け犬に哀れみをかけるなんて自己満足以外のなにものでもない。それとも……僕が憎くないのかい、貢くんは」
 「憎い」
 沸騰する感情を押し殺しサムライが断言、静流が軽やかな笑い声を立てる。
 「いい答えだ。ずっとそれを聞きたかった。僕が憎いならためらうことはない、早く手を放して炎の坩堝に叩き込めばいい。僕は苗さんを殺した。門下生に慰み者にされて放心の体の苗さんに真実を教えて首を吊らせた、のみならずそこにいる直くんを犯して殺そうとした。姉さんの匂いがする紅襦袢を羽織らせて、生白い肌に手と舌を這わせて、慰み者のあかしの艶めく痣を付けて……」
 「やめろ静流」
 僕の制止を無視し、興に乗った饒舌で続ける。

 「僕に先を越されて悔しいかい?悔しいだろう。本家を引き立てる分家の跡取りと見下してきた僕に先を越されてさぞかしはらわた煮えくり返っているだろうね。嗚呼おかしい、ざまあみろ、君がぐずぐずしてるのが悪いんだよ、肉親の情に振り回されて何度裏切られても肝心な所で僕を見捨てないお優しい貢!!図書室の出来事は傑作だった、最高の茶番劇だったよ。君ときたら僕の演技に簡単に騙されて大事な親友を詰りに詰ってくれちゃって、全部僕が書いた台本どおりに事が運んで腹ん中じゃ笑いが止まらなかったよ!嘘泣きのふりでおかし泣きしてたのに目が節穴の君はとうとう真実に気付かなかったね。身内の情けでまわりを敵に回して僕を庇い続けた結果がこれだこのざまだ、思い知ったか腐れ魔羅!!!」

 静流が仰け反るようにして笑い出す。
 宙に吊られた体が不規則に痙攣し僕の顔にも唾のしぶきがかかる。
 体が言うことを聞くなら静流を殴り飛ばすか蹴り飛ばすかしたかった、暴力を使ってでもサムライへの侮辱を取り消させたかった。 
 静流は狂ったように笑い続ける。
 双眸に絶望と悲哀を去来させ、それでも声高らかに空虚な哄笑を上げ続ける。口汚くサムライを罵り人格を貶めて煽ろうとし、だがしかしサムライが押し黙ったまま表情を変えずにいるのを訝しみ、次第に笑い声が萎んでいく。

 「さあ殺せ殺すんだ殺してくれ僕にとどめをさしてくれ、己の手で僕を地獄に送り恨みをはらせ復讐をはたせ、僕が君にしたように苗と直の仇をとれ、僕と同じ所まで堕ちてこい!!僕も君も所詮は帯刀の人間、血の呪縛から逃げきれず修羅となるべく宿命付けられた武家の末裔なんだ。ならばそれらしく生きて逝こうじゃないか、僕らの中の人斬りの血が命じるままに息絶えるまで殺し合いを続けようじゃないか!!」

 目を爛々と輝かせた邪悪な表情に魅せられる。
 ある時は澄んだ水のように清らかな笑みを浮かべある時は濁った水のような呪詛を吐き出し、清濁併せ呑むさまざまな表情を見せる静流は、相対した人の心を映す水鏡に似ている。相手が憎悪をむければ憎悪を返す、相手が善意をむければ善意で応じる。

 相手次第で汚くも清くもなれる水鏡の本性は、ある意味どこまでも純粋で。
 けなげで。
 生まれてこのかた水鏡の目が映してきたものを思う。
 分家と本家を比べて静流を嘲笑する者たち、周囲から向けられる悪意、誰からも共感されない孤独、自分が欲しかったものを労せず手に入れたかに見える従兄への嫉妬………辛い日々の中の唯一の安らぎだった姉の笑顔。
 水鏡が歪んだのは誰のせいだ。
 何が水鏡を歪ませたんだ。
 静流の目がこんなにも澄んでいるのは、生まれてこのかたずっと汚いものを見てきたが故の自浄作用を備えたからなのか。 

 どこまでも深く澄み底が見えない目を細め、妖艶に紅い唇を蠢かせ、囁く。
 「僕を生かせば彼を殺す」
 吐息と衣擦れに紛れて消えそうなかすかな声は、しかし僕の耳にもサムライの耳にもしっかり届いた。
 艶めく流し目で僕をとらえ、大胆不敵にサムライを挑発する。
 「僕が東京プリズンに来たのは君を殺すため、君を殺して母さんと姉さんの仇をとるためだ。僕は君に幸せになってほしくない、姉さんのいない世界で君に幸せになってほしくないんだ。君は姉さんの伴侶となるべく生まれてきたんだ、他の人と添い遂げるなんて認めない」
 「何度同じ事を言わせれば気が済むんだ、薫流が本当に好きだったのは……っ」 
 サムライの喉が鳴る。
 先を続けていいものか一瞬のためらいが双眸を過ぎる。
 悲嘆に打ちひしがれたサムライを見上げ、虚ろな無表情で反駁する。
 「薫流姉さんが本当に好きだったのは、帯刀貢だ」
 感情を封じた抑揚ない声。
 「違う。薫流が本当に好きだったのは俺ではない………お前だ」
 サムライが首を振る。
 どうしてもこれだけは伝えねばならないと名伏しがたい衝動に駆られ。
 「薫流はずっと俺と苗の仲を羨んでいた。本家を訪れる度どこか物欲しげに俺と苗を見詰めていた。ある日薫流に言われた。道場での稽古を終えて屋敷にもどる途中、紫陽花の茂みのそばで呼び止められたのだ」
 汗でぬめる手を握りなおし、僕と静流を支え、息も絶え絶えに続ける。
 「薫流はこう言ったんだ」

 『貴方たちがうらやましい』
 『稽古を見させてもらったわ。貴方と苗はいつも一緒ね。無心に剣を振るう貴方のそばで苗は幸せそうに微笑んでいたわ』
 『お互いの事が本当に好きなのね』
 『私も苗みたいになれたらいいのに。ああしていつまでも彼のそばに居られたらいいのに』
 『好きだという気持ちを偽りも隠しもせず、ああしてそばに居ることになんら疚しさを感じず、ずっと彼といられたらいいのに』
 『…………しずる。私のしずる』
 『本当は貴方たちみたいになりたかった。貴方たちみたいに愛し合いたかった』

 ごめんなさい、しずる。

 嗚咽を堪えるように筋張った喉が鳴り、自責の念に耐えて瞠目する。
 「……薫流は俺たちの関係そのものを妬んでいた。姉弟だといざ知らず無邪気に無知に惚れあっていた俺たちに激しく嫉妬していた。静流、お前は視線の意味を取り違えていたんだ。同じ嫉妬でもあれは恋敵への嫉妬ではない、己と同じ立場でありながら何らやましさを感じず互いを慕い合う俺たちを妬んでいただけだ」
 視線と視線が絡み合う。
 宙に吊り下げられた静流の目が、ひたりと虚空を映す。
 「薫流はお前の事を愛していた。お前が薫流を愛していたように」

 愛していた。
 本来嬉しいはずのその言葉が、こんなにも残酷に響くのはどうしてだ?
 こんなにも哀しく救いがたく響くのは?

 「……僕には姉さんだけだった。姉さんだけが僕を褒めてくれたんだ。上から見下すでも下から仰ぐでもなく、同じ目線で真っ直ぐに僕を見てくれたんだ。水鏡に映したように面差しの似た僕を、真っ直ぐに」
 瞬きも忘れた目に水がたまる。
 虚ろな無表情のままに、一筋の涙が頬を伝う。

 「『しずるはすごいわね』『本家の貢にもひけをとらないんだから自信をもちなさい』って……。好きだったんだ。どうしようもなく好きだったんだ。姉さんだけど、血の繋がった僕の姉さんだけど、一度好きだと想ったら止まらなかったんだ。後戻りできなかったんだ。莞爾さんが姉さんと本家跡取りの縁談を進めてるって聞いて目の前が真っ暗になった、君は最初から何でも持ってるくせにこの上姉さんまで奪うのかと次には怒りで真っ赤になった。姉さんの幸せのために尽くしたなんて嘘だ、綺麗事だ、僕はただ君の大事なものを奪いたかったんだ、君を不幸にして僕と同じ絶望を味あわせたかったんだ!!だから苗さんを慰み者にした、苗さんを追い詰めて首を吊らせた、小さい頃から優しくしてくれた苗さんを……」

 「静流」
 なめらかな頬をあとからあとから涙が伝い、顎先から垂直に滴る。
 憑かれたように口走り泣きじゃくり、しかし瞬きさえしない無表情のままに心情を吐露する。
 「姉さんごめんなさい、ごめんなさい、姉さんが誇れる弟じゃなくてごめんなさい。分家の跡取りにふさわしくなくてごめんなさい母さん、何も期待に応えられなくて申し訳ありません、どうか許してください、お願いですからこの通りですから帯刀家に生まれた事を許してください、僕がひとを好きになる事を許してください、見逃してください。あとでどんな罰でもうけるから地獄におちても構わないから、せめて姉さんを好きでい続けることだけは許してください。姉さんだけは僕からとらないでください、取り上げないでください」
 「違う、そうじゃない、薫流の心はお前の物だったんだ最初から!」
 サムライが激しく首を振り、砕けそうな力を込めて静流の手を握る。
 「殺したくなかった、刀を捨てて抱きしめたかった。あんな物本当は欲しくなかったのにいらなかったのにどうして捨てられなかったんだ、刀なんて硬くて冷たいばかりでずっと握っていると心まで冷えてしまう、姉さんのほうが余程いい、姉さんのぬくもりのほうがよっぽど……姉さんは僕が苗さんにしたことを知っていたんだ、勘付いていたんだ。だから僕の代わりに罰を受けた、もし僕が苗さんにしたことを知ったら母さんは自害を命じる、だから姉さんは黙ったまま……僕を庇って!!!」

 愛していた。
 愛していた。
 世界中のだれより愛していた。
 もういないひとを。
 だれより近くにいたひとを。 
 愛していたのに殺してしまった。
 愛する人に命じられるがまま、胸の奥深くに刀を突き刺してしまった。
 愛する人を殺すより、愛する人に嫌われるほうが怖くて。

 「僕があやまるのは姉さんだけだ。苗さんにも直くんにも君にも謝罪しない。君に詫びるくらいなら舌を噛み切ったほうがマシだ」
 見開いた目からとめどなく涙を零しつつ、緩慢な動作でサムライの手首に縋り付く。
 「懺悔するくらいなら、散華を選ぶ」
 爪を立てる。
 「!!―っ、」
 「やめろ静流!!」
 静流の爪が容赦なく手首の肉を抉り痛みを与える。
 それでもサムライは手を放さない。
 額に脂汗を滲ませ眉を顰め、すさまじい忍耐力でもって静流の手を握り続ける。僕は我を忘れ静流に食って掛かる、サムライの手首を抉る静流を引き剥がそうと底を尽きかけた体力を振り絞り手をのばすー……
 「サムライを奪わないでくれ!!!」
 炉が炎を噴き上げる。
 華やかに舞い飛ぶ火の粉越しに驚愕の形相の静流を見る。
 長い夢から醒めたような自失の顔つき。
 「ねえさ」
 え?
 静流の唇が儚く動き、かすれた声を紡いだ次の瞬間。
 一際激しい炎が炉から立ち上り、宙吊りにされた僕らを呑みこもうとする。
 
 死ぬ。
 
 死を確信して固く目を閉じた僕は誰かの絶叫を聞く、瞼の向こうで誰かが僕を呼んでいる。
 力強い腕が背中に回されて体を引き上げる、背中が何か固い物にぶつかる。誰かが身を挺して僕に覆い被さる、炉から噴き上がる炎と視界を朱に染める火の粉から身を盾にして僕を庇っている。僕もまた僕に覆い被さる人物を夢中で抱擁する、広い背中に腕を回し強く強く抱きしめる、互いを庇い合うように。
 彼を守りたいと気持ちを込めて。
 閉じた瞼の裏側を過ぎるたくさんの断片。
 僕がまだ外にいた頃の記憶に東京プリズンに来てからの記憶も含まれている。

 『おにいちゃん』
 恵の無邪気な笑顔。 
 『また本かよ鍵屋崎、お前ほんっとネクラだな』
 ロンのあきれ顔。 
 『お前もたまにゃ本読めよ。日本語の勉強になるぜ』
 レイジが茶々を入れる。
 『ロンロンには漫画のがむいとるでー』
 ヨンイルの笑い声。
 『ところで鍵屋崎、ブラックジャックの素晴らしさについて語り合いたいのだが……』 
 入院中のベッドの傍ら、折り畳み式の椅子に腰掛けた安田が眼鏡のブリッジを押し上げる。
 『直』 
 猛禽めいた眼光を宿す切れ長の双眸を僕を見る間だけは優しく和ませ。
 サムライが口を開く。
 『好きだ』
 「僕も好きだ。大好きだ」

 大事な仲間がいる。
 大事な人がいる。
 東京プリズンでの過酷な日々を支えてくれた大事な仲間の為にも僕は生き残らねばならない、侍と一緒に生還せねばならない。
 生き残りたい。 
 どこまでもどこまでも、希望が尽きぬ限り。
 記憶の中の光景が紅蓮に染まる。
 いつか見た展望台の光景に記憶の洪水が収束する。
 紅蓮に染まる展望台の突端にこちらに背を向けて佇む人影、砂漠に沈む太陽をまばゆげに眺める少年……
 今にも残照に溶けて消えそうに儚い笑顔。
 
 目を見開く。
 世界が紅蓮に染まっていた。
 世界に炎が吹き荒れていた。

 紅蓮の嵐が過ぎ去ったとき、静流はどこにもいなかった。 
 「…………しずるは?」
 サムライの肩越しにあたりを見回すも、静流の姿は跡形もなく消失している。
 手摺の一部が壊れた通路のどこにも彼の痕跡はなく、下方の炉が泡立つばかり。
 「……………っ…………」
 あまりに強く抱きしめられて痛みを感じる。
 サムライは僕を抱きしめたまま、火の勢いが衰えて風が止んでも放そうとしない。
 「俺が殺した」
 サムライが吐いた言葉に硬直、探るように表情を覗き込む。
 サムライは僕の肩口に額を預けたまま微動だにせず、茫然自失の体でいる。
 「俺が殺したんだ」
 感情の伴わぬ口調で繰り返し、脱力したように僕の肩に凭れ掛かる。救い難く虚ろな目には何の感情も浮かんでおらず、死のような虚無だけを眼窩に溜めている。    
 「炎から僕を庇うために、自分から手を放したんだな」
 そうするしかなかった。
 そうしなければ二人とも、否、三人とも焼き殺されていた。
 サムライは僕を助ける為に咄嗟に静流を放し、両腕でもって僕を引っ張り上げたのだ。
 静流の辿る運命を予期していながらも僕を助けるにはそれしかなく、炎がおさまるまでのあいだしっかりと僕を抱きしめてくれた。
 全身至る所に酷いやけどを作り、皮膚を爛れさせ、服をぼろぼろにして。
 自分の身を犠牲にしてまでも、約束どおり僕を守り抜いてくれた。
 「俺が殺した。静流を、あいつを………炎で溶かされて跡形もなくなると知っていながら、火炙りの地獄に悶え苦しむとわかっていながら自分の命ほしさに見殺しにしたんだ」 
 「……先の発言には重大な欠陥がある」
 サムライの手首には肉を抉った爪あとが残り、痛々しく血が滲んでいた。
 サムライの手首を慎重にとり、顔の前に持ってくる。
 「『殺した』んじゃない、『助けた』んだ」
 サムライの手を頬にあてる。
 「一度しか言わないからよく聞けよ」
 頬を包む手のぬくもりに安らかに身を委ね、僕は言った。 
 哀しみを癒すことも絶望を救うこともできなくとも、言葉に何もできないと決まったわけではないと一縷の希望を捨てず。 
 掛け値なしの本心を、哀しくなる位不器用で優しい男に告げる。

 「君は人殺しだが人を生かすこともできるんだ。現に今、こうして僕は生かされている」

 サムライが前にも増して力強く僕を抱きしめる。
 嗚咽が聞こえてきたのは、それからしばらくたってからだった。
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騎士と戦乙女が真の儀式を演じるまで

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