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第一章 義姉上の死亡記録

5.5

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 ※マークス視点の番外編です


ーーーーーー

 物音が聞こえなくなった寝室をそっと開く。ベッドの上でこんもりとした塊が、静かに上下している。坊っちゃまはおやすみになられたようだ。環境が変わったせいか、普段より眠りにつくのが遅かったが、無用の心配だったようですな。
 足音を立てないよう慎重に近づくと、すーすーと寝息が聞こえる。

「ん……」

 坊っちゃまからわずかに声が漏れ出た。ビキリと全身を硬直させる。まばたきすらも停止させて全身の細胞すべてを動かさぬよう注意をはらった。
 心臓だけがバクバクと早鐘のようで大人しくしてはくれない。目も熱を持ち始めて、乾燥したせいで涙が滲む。それを溢れさせないように気を張ると、今度は息がフーッ、フーッと荒くなる。もう自分が息をしているのが鼻なのか口なのかもわからない。
 実際には一分もないのだろうが、何時間もそうしているように思った。

「……すー……すー」

 再び規則的な呼吸が部屋に響く。再び夢の中へ旅立たれたようだ。静かに安堵のため息を吐く。
 ベッドの端の、もうほとんど匂いの無い香り袋を取り上げ、懐から同じものを取り付ける。ただ、こちらはしっかりと花の香りを放った。
 気持ち良さそうなご尊顔をじっくり目に焼き付けた。うむ、なにかが補充された。『坊っちゃま成分』とも名付けようか。
 そして、ほんの少し開けた窓から身を滑らせ外へ出る。寝室の窓は一人が立てるくらいしかない小さなバルコニーへ繋がっていて、腰ほどの高さまで落下防止の白い手すりがある。ここは七階だけあって遠くまで見通せる。この寮まで続く石畳はすぐに周りの木々に覆われ、その道筋を見ることはできない。上からみればまるで森。その森の向こう側にはこちらと瓜二つの屋敷が屋根だけ覗いている。女子寮だ。あちらへ参らねば。
 手すりに乗り、両足でまっすぐに立つ。今夜は一段と風が強い。服の端がばたばたと煽られる。その風に身を任せるようにして、 森の中へ倒れこんだ。地面へ到着するより前に体制を整え、転がりながら着地する。すぐに体を起こし、近くの木へ飛び乗った。肩や裾についた葉と土を払う。うむ、元通り。恥ずかしい格好ではいけませんからな。
 道中誰かに見つかってしまえば、坊っちゃまにもお嬢様にも、果ては旦那様にだって迷惑がかかる。枝から枝へ、ひらりひらりと飛び移る。音は最小限に、かつ素早く。巡回中の警備員も木の上でやり過ごす。隠れた月は私に味方しているようだ。
  本来はこのような移動方法に不向きな革靴も燕尾服も、もうわたくしの体の一部。

「なので、こんな罠には引っ掛かりませぬよ」

 誰に告げるでもなく、こっそりとほくそ笑んだ。
 目的地に近付くにつれて増えるワナ、わな、罠。風の魔法で作られた矢が縦横無尽に飛び交う。地面にもなにか仕掛けられているだろう。

「しかし、警備がいささか手薄でございますな。今の私にとっては好都合ですが、今少し気合いを入れていただかないと困ります」

 明日にでも学園側には要求すると致しましょう。いつ不届きな者が侵入するとも限らないのだから。

「さて……」

 最後に大きく飛び上がり、バルコニーの手すりにギリギリ届く。これは、まだ三階。小指ほどの幅しかない窓枠に足をかけて、上を目指す。四階、五階、六階、七階。
 細心の注意をして中を覗く。……ここは違うな。知らない方だ。心のなかだけで謝罪して左隣へ。ここはちょうど坊っちゃまのお部屋の向かいになるか。高い木々に阻まれるので、坊っちゃまの部屋は見えないが。

「……おられましたな」

 自然とにやつく口元を手のひらでおさえた。
 袖に忍ばせておいた先端が波状の針金。これを窓の隙間に通して掛け金を引き上げれば、簡単に開いた。まるで迎え入れていただいたようで気分が高揚する。
 忍び足で寝室へ入る。こちらの香り袋はもう取り替えられたあとなのか、柔らかな香りが鼻を抜ける。
 しかし、家具の配置が坊っちゃまの部屋似ているあたり、義理とはいえ流石はご姉弟ですね。
 さて、まずはご挨拶と致しましょう。

「御入学おめでとうございます、お嬢様。お休みのところ失礼致します」

 ベッドに向かって執事の礼をとる。お嬢様から返事はない。様子を伺うと、完全に寝入っている。これは幸いと、傍まで寄った。

「くー……くー……」

 おお、なんと可愛らしい! 平素はきつく結い上げているという銀髪もゆるやかに波打ち、頬は白い肌にほんのり桃色を映している。伏せられた睫毛は思わず触れたくなるほど艶やかであった。まさしく天使の寝顔。
 ああ! この頬をつついてしまいたい! きっとふにふにと柔らかいのであろう。十年前くらいに己の欲望に負け、つついたときは起こしてしまった。お嬢様ご本人よりも坊っちゃまのほうがおかんむりだったのをよく覚えている。

「しかし、いけませんな。ただの爺が魔法ひとつ使わずに侵入できるようでは」

「お父様がただの爺であるはずないでしょう」

 声は背後から聞こえた。ドアの隙間に立つのは、メイド服を来た壮年の女性。昔は美人とよく言われたものだが、今は美人というより愛嬌がある。顔立ちも年相応で、最近は恰幅のよくなった体型をこっそり気にしている。私はすらりと痩せていた頃の娘も今の娘も大好きだ。
 そんな彼女は、なぜか手にモップを構えているが、そんなことは気にせず両手を広げて迎え入れる。

「おお我が娘よ、元気そうでなにより」

「まぁまぁ、呑気なこと。カルミア様の御寝所に押し入った無礼者がどうなるかお分かり?」

 言いきるや否や眼前に鋭くモップが突きつけられた。
 なるほど、槍か薙刀の代わりということか。のけ反らなければ完全に顔が埋まっていた。

「近頃はよく眠れていないご様子なのです。起こさないうちにお戻りください」

 静かに、しかし重々しい口調で言い放った。
 顔は険しく、決して親に向ける顔ではない。殺意にも似ている。

「えぇ、そうでしょうとも。お嬢様は方ですから。ご心労で寝付きがよろしくないのでしょう」

「……爺馬鹿ジジバカですわね」

娘の口はへの字に曲がったままだった。
が、張り詰めていた空気がほんのわずかに和らいだ気がした。

「それよりもうジニア様もカルミア様も大きくなられたのですから、わざわざ寝顔を見に来るなんておやめください。年寄りらしく落ち着いたらどうです?」

 同じ調子で淡々と、諭すように語っている。その声にはどこか諦めも垣間見えた。

「できませぬな。これは我が生き甲斐。たとえこの両の足が折れようとやめられませんよ。
 ですが……そうですね。少しばかり改めるとしましょう」

「と、いいますと?」

「今宵はなにより愛しい娘の寝顔を逃したので、明日よりはもっと遅い時間に参上すると致しましょう」

「ーー~~っ!!」

 いやぁ、仕事用の冷徹な面を剥がした娘はなおのこといじらしい。沸騰した頭から湯気が出ている。
 思い通りの反応に満足していると、腹に強い衝撃が加わった。グフッと声が出てしまう。モップ、それも柄のほうでひと突き。油断した。よろよろと後ろへ下がると、ちょうど窓だった。
  今夜のところはここまでとしよう。身を翻し、夜の中へ飛び立った。

「もう来ないでくださいね」

 後ろからまた愛し子の声がする。それを聞きながら、私は明日の夜の計画をたてていたのだった。
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