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第10話 白い契約の提案
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第10話 白い契約の提案
その提案は、夕刻の執務がひと段落したあとに出された。
執務室には、アルベリク・フォン・グラーフ公爵と、ベルトーネ・ランナバウトの二人だけ。
窓の外では、沈みゆく夕日が公爵邸の石壁を赤く染めている。
「今日は、ここまでにしよう」
公爵がそう言って書類を閉じたとき、ベルトーネはわずかに首を傾げた。
「まだ、港湾税の再配分案が――」
「急がせすぎだ」
淡々とした声。
「君は、働きすぎる」
その一言に、思わず言葉を失う。
(……そんなこと、言われたのは初めてだわ)
王宮では、仕事をどれだけ抱えても「それが役目だ」で片付けられてきた。
気遣われることなど、一度もなかった。
「今日は、別の話がある」
公爵は、そう前置きしてから、机の引き出しを開けた。
取り出したのは、一通の文書。
だが、それは契約書ではなかった。
正式な書式ではあるが、まだ署名も印章も入っていない。
「……これは?」
「草案だ」
短く答え、公爵はベルトーネに差し出した。
「読め」
彼女は静かに受け取り、目を通す。
数行読んだところで、動きが止まった。
(……え?)
再度、最初から読み返す。
――婚姻契約書。
――ただし、形式上のもの。
――互いに私的な干渉は行わない。
――義務は、対外的な立場の共有のみ。
いわゆる――白い結婚。
ベルトーネは、顔を上げた。
「……冗談、ではありませんよね」
「冗談なら、こんな書式は使わない」
公爵は、相変わらず表情を変えない。
「理由を、聞いても?」
「もちろんだ」
彼は、椅子に深く腰掛け、言葉を選ぶように一拍置いた。
「王国の動きが、想定より早い」
低く、静かな声。
「君を“奪われた存在”に仕立て上げるために、噂と外交圧力を使い始めている」
「……ええ」
それは、ベルトーネ自身も感じていた。
「このままでは、君は常に“元婚約者”として扱われ続ける」
公爵は、淡々と続ける。
「特別顧問という立場だけでは、政治的に弱い」
ベルトーネは、文書に視線を落とす。
「だから……妻、ですか」
「そうだ」
即答。
「私の妻であれば、王国は手出しできない」
それは、冷静で合理的な判断だった。
――だが。
「……私で、よろしいのですか」
思わず、そう尋ねていた。
「公爵夫人となれば、社交や儀礼も――」
「必要ない」
きっぱりと否定される。
「それらは、私が処理する」
「ですが――」
「君に求めるのは、それではない」
公爵の視線が、真っ直ぐに向けられる。
「私は、君の判断力と実務能力を信頼している」
一拍。
「それ以上のものを、今は望まない」
その言葉は、冷たいようでいて、奇妙な安心感を伴っていた。
愛を求められない。
期待を押しつけられない。
ただ、対等な立場として。
「……条件を、確認させてください」
ベルトーネは、草案に視線を戻す。
「婚姻は、形式のみ。
私生活への干渉なし。
必要とあらば、解消も可能」
「その通りだ」
公爵は、頷く。
「期限は設けないが、君が望めば、いつでも見直す」
それは、驚くほど誠実な条件だった。
(……逃げ道を、最初から用意している)
支配ではない。
囲い込みでもない。
あくまで――選択肢。
ベルトーネは、しばらく沈黙した。
この提案を受け入れれば、王国との関係は完全に断たれる。
同時に、“公爵の妻”という新たな肩書きを背負うことになる。
(……でも)
思い浮かぶのは、不思議と恐怖ではなかった。
信頼され、判断を尊重され、必要とされてきた日々。
ここでは、誰かの飾りではなかった。
名前を持つ一人の人間として、扱われている。
「……ひとつ、確認を」
顔を上げ、まっすぐに見る。
「この契約で、私が失うものは何ですか」
公爵は、少しだけ考え、それから答えた。
「形式上の自由」
正直な答え。
「だが、実質的な自由は、何も奪わない」
その言葉に、ベルトーネは小さく笑った。
「……王太子の婚約者だった頃より、よほど自由ですね」
公爵の口元が、ほんのわずかに動く。
それは、笑みと呼ぶには控えめすぎたが――
確かに、柔らかい表情だった。
「すぐに答えを出さなくていい」
公爵は言う。
「考える時間は与える」
ベルトーネは、草案を胸に抱き、静かに頷いた。
「……ありがとうございます」
部屋を出ると、夜の空気がひんやりと肌を撫でた。
(……白い契約)
愛も、義務も、押しつけられない関係。
それは、彼女がこれまで拒んできた“縛り”とは、まったく違う形だった。
ベルトーネ・ランナバウトは、夜空を見上げる。
この提案が、
新たな檻になるのか、
それとも――
完全な自由への扉になるのか。
その答えを、彼女は慎重に、しかし前向きに考え始めていた。
その提案は、夕刻の執務がひと段落したあとに出された。
執務室には、アルベリク・フォン・グラーフ公爵と、ベルトーネ・ランナバウトの二人だけ。
窓の外では、沈みゆく夕日が公爵邸の石壁を赤く染めている。
「今日は、ここまでにしよう」
公爵がそう言って書類を閉じたとき、ベルトーネはわずかに首を傾げた。
「まだ、港湾税の再配分案が――」
「急がせすぎだ」
淡々とした声。
「君は、働きすぎる」
その一言に、思わず言葉を失う。
(……そんなこと、言われたのは初めてだわ)
王宮では、仕事をどれだけ抱えても「それが役目だ」で片付けられてきた。
気遣われることなど、一度もなかった。
「今日は、別の話がある」
公爵は、そう前置きしてから、机の引き出しを開けた。
取り出したのは、一通の文書。
だが、それは契約書ではなかった。
正式な書式ではあるが、まだ署名も印章も入っていない。
「……これは?」
「草案だ」
短く答え、公爵はベルトーネに差し出した。
「読め」
彼女は静かに受け取り、目を通す。
数行読んだところで、動きが止まった。
(……え?)
再度、最初から読み返す。
――婚姻契約書。
――ただし、形式上のもの。
――互いに私的な干渉は行わない。
――義務は、対外的な立場の共有のみ。
いわゆる――白い結婚。
ベルトーネは、顔を上げた。
「……冗談、ではありませんよね」
「冗談なら、こんな書式は使わない」
公爵は、相変わらず表情を変えない。
「理由を、聞いても?」
「もちろんだ」
彼は、椅子に深く腰掛け、言葉を選ぶように一拍置いた。
「王国の動きが、想定より早い」
低く、静かな声。
「君を“奪われた存在”に仕立て上げるために、噂と外交圧力を使い始めている」
「……ええ」
それは、ベルトーネ自身も感じていた。
「このままでは、君は常に“元婚約者”として扱われ続ける」
公爵は、淡々と続ける。
「特別顧問という立場だけでは、政治的に弱い」
ベルトーネは、文書に視線を落とす。
「だから……妻、ですか」
「そうだ」
即答。
「私の妻であれば、王国は手出しできない」
それは、冷静で合理的な判断だった。
――だが。
「……私で、よろしいのですか」
思わず、そう尋ねていた。
「公爵夫人となれば、社交や儀礼も――」
「必要ない」
きっぱりと否定される。
「それらは、私が処理する」
「ですが――」
「君に求めるのは、それではない」
公爵の視線が、真っ直ぐに向けられる。
「私は、君の判断力と実務能力を信頼している」
一拍。
「それ以上のものを、今は望まない」
その言葉は、冷たいようでいて、奇妙な安心感を伴っていた。
愛を求められない。
期待を押しつけられない。
ただ、対等な立場として。
「……条件を、確認させてください」
ベルトーネは、草案に視線を戻す。
「婚姻は、形式のみ。
私生活への干渉なし。
必要とあらば、解消も可能」
「その通りだ」
公爵は、頷く。
「期限は設けないが、君が望めば、いつでも見直す」
それは、驚くほど誠実な条件だった。
(……逃げ道を、最初から用意している)
支配ではない。
囲い込みでもない。
あくまで――選択肢。
ベルトーネは、しばらく沈黙した。
この提案を受け入れれば、王国との関係は完全に断たれる。
同時に、“公爵の妻”という新たな肩書きを背負うことになる。
(……でも)
思い浮かぶのは、不思議と恐怖ではなかった。
信頼され、判断を尊重され、必要とされてきた日々。
ここでは、誰かの飾りではなかった。
名前を持つ一人の人間として、扱われている。
「……ひとつ、確認を」
顔を上げ、まっすぐに見る。
「この契約で、私が失うものは何ですか」
公爵は、少しだけ考え、それから答えた。
「形式上の自由」
正直な答え。
「だが、実質的な自由は、何も奪わない」
その言葉に、ベルトーネは小さく笑った。
「……王太子の婚約者だった頃より、よほど自由ですね」
公爵の口元が、ほんのわずかに動く。
それは、笑みと呼ぶには控えめすぎたが――
確かに、柔らかい表情だった。
「すぐに答えを出さなくていい」
公爵は言う。
「考える時間は与える」
ベルトーネは、草案を胸に抱き、静かに頷いた。
「……ありがとうございます」
部屋を出ると、夜の空気がひんやりと肌を撫でた。
(……白い契約)
愛も、義務も、押しつけられない関係。
それは、彼女がこれまで拒んできた“縛り”とは、まったく違う形だった。
ベルトーネ・ランナバウトは、夜空を見上げる。
この提案が、
新たな檻になるのか、
それとも――
完全な自由への扉になるのか。
その答えを、彼女は慎重に、しかし前向きに考え始めていた。
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