『婚約破棄された令嬢は、名もなき秤を置いて去る』

ふわふわ

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第9話 噂は、歪んで届く

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第9話 噂は、歪んで届く

 それは、ほんの小さな違和感から始まった。

 午前の執務を終えたベルトーネ・ランナバウトが、廊下を歩いていたときのことだ。
 すれ違った使用人たちが、いつもより一瞬だけ言葉を止め、視線を逸らした。

(……?)

 無視されているわけではない。
 挨拶も、礼も、これまで通りだ。

 だが、そこに微妙な「間」がある。

 それは、彼女が王宮で嫌というほど味わってきたもの――
 噂が先行し始めたとき特有の、空気だった。


---

 執務室に戻ると、若い文官が資料を抱えて立っていた。

「ベルトーネ様、こちらを」

「ありがとうございます」

 書類を受け取ろうとした瞬間、彼は一瞬だけ口を開きかけ、すぐに閉じた。

「……何か?」

 促すと、文官は少し困ったように視線を泳がせた。

「いえ、その……失礼な噂を耳にしまして」

 ベルトーネは、心の中で静かに息を吐いた。

(やっぱり、ね)

「どのような噂ですか」

 あえて、穏やかに尋ねる。

「……公爵様に取り入って、地位を得たのではないか、と」

 一瞬、沈黙が落ちる。

 だが、胸に湧いたのは怒りではなかった。
 むしろ、どこか冷静な納得だった。

(なるほど。
 そう見える人も、いるでしょうね)

 外から見れば、元婚約者が突然隣国で地位を得た。
 そこに感情や裏取引を想像するのは、自然な流れだ。

「噂というのは、事実よりも早く走ります」

 ベルトーネは、淡々と答えた。

「そして、事実よりも、都合のいい形に歪みます」

 文官は、はっとしたように顔を上げる。

「……失礼しました」

「いいえ」

 彼女は、小さく首を振った。

「教えてくれて、ありがとうございます」

 文官は深く頭を下げ、執務室を後にした。


---

 その日の午後。

 公爵領の評議会が開かれた。

 通常より人数が多い。
 それだけで、何かが動いていると分かる。

 ベルトーネは、公爵の隣ではなく、あえて少し離れた席に座った。
 特別顧問という立場は、前に出すぎても、引きすぎてもいけない。

「議題に入る前に」

 アルベリク・フォン・グラーフ公爵が、低く告げる。

「ひとつ、確認しておく」

 視線が集まる。

「最近、公爵領内で妙な噂が流れている」

 その言葉に、空気がわずかに張りつめた。

「――私の判断が、私情によるものだ、という噂だ」

 ざわり、と小さなざわめき。

 ベルトーネは、何も言わず、背筋を伸ばした。

「結論から言う」

 公爵は、淡々と続ける。

「私情は、一切ない」

 短い断言。

「ベルトーネ・ランナバウトを特別顧問に据えた理由は、ひとつだ」

 視線が、彼女に向けられる。

「結果を出しているからだ」

 資料が、机に置かれる。

「港湾の流通改善、税制案の修正、商会との再交渉。
 すべて、彼女の提案によって成果が出ている」

 一枚、また一枚。

「これを、私情と呼ぶなら――」

 公爵の声が、少しだけ低くなる。

「それは、私の統治そのものを否定するということだ」

 評議会は、静まり返った。

 反論は、出ない。

 数字と結果は、誰の目にも明らかだった。


---

 会議後。

 ベルトーネは、公爵に呼び止められた。

「気にするな」

 短い言葉。

「噂は、力の証だ」

「……承知しています」

 彼女は、静かに答える。

「ですが、利用される噂もあります」

 公爵は、わずかに眉を動かした。

「王国ですね」

「だろうな」

 即答だった。

「向こうは、君を“奪われた”形にしたい」

 つまり――
 彼女が自ら選んだという事実を、消したいのだ。

「そうなれば、王太子の判断ミスではなく、外圧のせいにできる」

 ベルトーネは、苦く笑った。

「相変わらず、都合がいいですね」

「だからこそ、噂は放置しない」

 公爵は、彼女を見る。

「君が前に出る必要はない。
 だが、結果は出し続けろ」

 それが、最も静かで、最も確実な反論だった。

「……はい」

 胸の奥で、何かが確かに定まった。


---

 その夜。

 ベルトーネは、灯りの下で一人、書類を整理していた。

 噂は、確かに煩わしい。
 だが、それは避けられない。

(……私が、ここにいる理由)

 それは、誰かに選ばれたからではない。
 誰かに愛されたからでもない。

 必要とされる仕事をし、結果を出したからだ。

 その事実は、噂では覆せない。

 ベルトーネ・ランナバウトは、静かにペンを取る。

 歪んだ噂の向こう側で、
 真実は、今日も積み重なっていくのだから。
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