『婚約破棄された令嬢は、名もなき秤を置いて去る』

ふわふわ

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第8話 契約という名の境界線

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第8話 契約という名の境界線

 公爵領特別顧問として正式に名を連ねてから、数日が過ぎていた。

 ベルトーネ・ランナバウトは、執務室の一角で書類に目を通しながら、静かに息を整える。
 机の上に積まれた書類は、どれも重い内容だ。税制、物流、軍需の調達、近隣都市との協定――。

(……量は多いけれど)

 不思議と、疲労感は少なかった。
 やるべきことが明確で、判断が尊重される。
 それだけで、人はここまで前向きになれるものなのかと、我ながら驚く。

「ベルトーネ」

 名を呼ばれ、顔を上げる。

 アルベリク・フォン・グラーフ公爵が、扉の前に立っていた。
 相変わらず表情は淡々としているが、以前よりも距離が近い。

「少し、時間をいいか」

「はい」

 短く答え、書類を整える。

 案内されたのは、執務室のさらに奥――
 普段は使われない、小さな会議室だった。

 机の上には、一枚の羊皮紙が置かれている。

「……これは?」

「契約書だ」

 公爵は椅子に腰を下ろし、彼女にも座るよう促した。

「君を特別顧問として迎えたが、口約束のままでは、君の立場が不安定だ」

 淡々とした説明。
 だが、その内容は、思った以上に踏み込んでいた。

「王国が再び圧力をかけてくる可能性もある。
 その時、“保護されている客人”では足りない」

 ベルトーネは、契約書に視線を落とす。

 そこには、明確な文言が並んでいた。

 ――公爵領特別顧問としての権限。
 ――公爵による全面的な庇護。
――本人の意思なく、第三国へ引き渡されないこと。

(……守るための、線引き)

 そう理解した瞬間、胸の奥が静かに熱くなった。

「……よろしいのですか」

 思わず問いかける。

「ここまで、明文化する必要が?」

「ある」

 即答だった。

「君は、有能だ。
 だからこそ、狙われる」

 その言葉に、息をのむ。

 有能だから、切り捨てられた。
 有能だから、今さら戻せと言われた。

 そして今――
 有能だから、守る価値があると判断された。

「契約は、鎖ではない」

 公爵が続ける。

「境界線だ。
 誰が、どこまで踏み込めるかを決める」

 ベルトーネは、ゆっくりと頷いた。

「……読ませていただきます」

 細部まで目を通す。
 不利な条項はない。
 むしろ、彼女にとって有利すぎるほどだ。

「報酬も、ここまで必要ありません」

「必要だ」

 これも即答。

「無償の善意は、誤解を生む。
 対価を払うことで、対等になる」

 その言葉に、胸がきゅっと締め付けられた。

(……対等)

 守られる存在ではなく、
 利用される存在でもなく。

 同じ線の内側に立つ者として。

「分かりました」

 ベルトーネは、羽ペンを取った。

 だが、すぐには署名せず、公爵を見つめる。

「ひとつだけ、条件を」

「言え」

「私は、あなたの判断に異を唱えることがあります」

 一瞬、空気が止まる。

 側近ですら、滅多に口にしない覚悟。

「それでも、構いませんか」

 公爵は、わずかに目を細めた。

「それを望んでいる」

 短く、しかし確かな返答。

「ならば」

 ベルトーネは、はっきりと署名した。

 ――ベルトーネ・ランナバウト。

 その名前が、羊皮紙に刻まれる。

 ただの元婚約者でも、追放令嬢でもない。
 公爵領の一員としての名だ。


---

 契約を終え、部屋を出る。

 廊下を歩きながら、ベルトーネは深く息を吐いた。

(……戻れなくなった、ではない)

 戻らないと、決めたのだ。

 王国との境界線は、今、はっきりと引かれた。

 夕刻。

 執務室で再び仕事に戻ると、側近の一人が、少し緊張した面持ちで声をかけてくる。

「……噂になっています」

「何の、でしょう」

「王国の元婚約者が、公爵領で正式な地位を得た、と」

 ベルトーネは、小さく笑った。

「噂は、事実より遅れて広がるものです」

「……確かに」

 その表情には、敬意が混じっていた。


---

 夜。

 窓辺に立ち、遠くの灯りを見る。

 王国との境界線は、目には見えない。
 だが、確かにそこにある。

 そして、その線を越えて、誰かが踏み込もうとするなら――
 もう、一人で受け止める必要はない。

(……契約という名の境界線)

 それは、彼女を縛るものではなく、
 自由を守るための線だった。

 ベルトーネ・ランナバウトは、静かに微笑む。

 この場所で、自分の価値を証明し続ける覚悟を、
 改めて胸に刻みながら。
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