『婚約破棄された令嬢は、名もなき秤を置いて去る』

ふわふわ

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第7話 名前を持つということ

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第7話 名前を持つということ

 公爵邸の朝は、静かだ。

 鳥の鳴き声と、遠くで交わされる兵士たちの短い号令。
 王宮で慣れ親しんだ、過剰な挨拶や無意味な報告の声は、ここにはない。

 ベルトーネ・ランナバウトは、執務室へ向かう廊下を歩きながら、その静けさを噛みしめていた。

 昨日、正式に告げられた。

 ――公爵領特別顧問。

 肩書きは控えめだが、意味は重い。
 単なる保護対象でも、都合のいい助言役でもない。

 「名前を持って、ここに立つ」

 その事実が、胸の奥でまだ少しだけ、落ち着かずに揺れていた。


---

 執務室に入ると、すでに数名の側近が集まっていた。
 皆、顔を上げ、彼女を見る。

 その視線は、昨日までとは微妙に違っていた。

 値踏みでも、好奇でもない。
 ――確認だ。

 この女は、どこまで踏み込むのか。

「来たか」

 アルベリク・フォン・グラーフ公爵が、短く声をかける。

「本日から、正式に議事に参加してもらう」

 側近たちが一斉に姿勢を正した。

 公爵は、はっきりと告げる。

「紹介する。
 ベルトーネ・ランナバウト。
 本日より、公爵領特別顧問だ」

 空気が、わずかに張りつめる。

 だが、異論は出ない。
 公爵の決定は、絶対だ。

「……よろしくお願いいたします」

 ベルトーネは、簡潔に一礼した。

 過剰な自己紹介はしない。
 必要なのは、言葉ではなく、結果だと分かっている。


---

 議題は、港湾都市の流通問題だった。

 表面上は順調に見えるが、細部に歪みが出始めている。
 報告を聞きながら、ベルトーネは静かに資料に目を走らせた。

「現状、輸送量は増加していますが――」

 文官が説明を続ける。

「倉庫の回転が追いついていません」

 そこで、彼女は手を挙げた。

「ひとつ、確認を」

 室内の視線が集まる。

「港の使用料、三年前から据え置きですね」

「はい」

「では、混雑が起きるのは当然です。
 需要に対して、価格が低すぎる」

 ざわり、と小さな波紋が広がる。

「値上げ、ですか?」

 誰かが慎重に問う。

「いいえ」

 即座に否定する。

「全面的な値上げは反発を招きます。
 時間帯別の使用料を導入すべきです」

 資料に指を滑らせながら、淡々と続ける。

「夜間と早朝を安くし、昼間をやや高く。
 流れが分散され、倉庫も回ります」

 沈黙。

 やがて、公爵が口を開いた。

「実行可能か」

「可能です。
 既存の契約を壊さずに、附則で対応できます」

「……やれ」

 一言で、決まった。

 側近たちは、即座に動き出す。

 その様子を見ながら、ベルトーネは思う。

(……ここでは)

 意見が「意見」で終わらない。
 採用され、実行され、結果に結びつく。

 それは、かつて彼女が夢見ていた場所だった。


---

 昼休憩の時間。

 執務室を出たところで、年配の側近に声をかけられる。

「……失礼ですが」

「はい」

「あなたは、王国で本当に……」

 言葉を選ぶ様子に、彼女は小さく微笑んだ。

「評価されていなかった、ですね」

 側近は、苦笑する。

「信じられませんな」

「よく言われます」

 冗談めかして返すと、彼は深く頭を下げた。

「ようこそ、公爵領へ」

 その一言が、胸に沁みた。


---

 夕刻。

 公爵に呼ばれ、二人きりで執務室に残る。

「今日の判断、悪くなかった」

 相変わらず、簡潔な評価。

「ありがとうございます」

「……一点だけ」

 公爵は、少し間を置いて言った。

「これからは、遠慮するな」

 視線が、真っ直ぐ向けられる。

「顧問とは、飾りではない。
 必要なら、私の判断にも異を唱えろ」

 その言葉に、心臓が少し強く脈打った。

「……よろしいのですか」

「そうでなければ、意味がない」

 断言。

 それは、信頼の証だった。

「分かりました」

 ベルトーネは、はっきりと頷く。

「では、私も“顧問”として、責任を果たします」

 公爵は、わずかに口元を緩めた。

 それは、ほとんど見逃してしまいそうな変化だったが――
 確かに、認められた証だった。


---

 その夜。

 自室で一人、書類を整理しながら、ベルトーネは思う。

 かつて、彼女は「王太子の婚約者」という肩書きに縛られていた。
 名前よりも、立場で見られていた。

 今は違う。

 ベルトーネ・ランナバウトとして、
 判断し、意見を述べ、責任を負う。

(……名前を持つということは)

 誰かの影に隠れることでも、
 誰かに守られることでもない。

 自分の言葉で立ち、
 自分の結果で認められることだ。

 その実感が、静かに、しかし確かに、彼女の中に根を下ろしていた。

 そしてそれは――
 やがて、アルベリク・フォン・グラーフ公爵にとっても、
 かけがえのない存在へと変わっていく兆しでもあった。
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