『婚約破棄された令嬢は、名もなき秤を置いて去る』

ふわふわ

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第6話 戻れと言われても

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第6話 戻れと言われても

 その知らせは、朝食の途中で届いた。

「――王国から、使者が来ています」

 控えめな侍女の声に、ベルトーネ・ランナバウトは手を止めた。
 同時に、向かいに座っていたアルベリク・フォン・グラーフ公爵が、わずかに視線を上げる。

「人数は」

「三名です。いずれも正式な使節とのことですが……」

 その先は言わずとも分かる。
 目的は、ひとつしかない。

(……思ったより、早かったわね)

 王国の反応が鈍いとは、最初から思っていなかった。
 だが、婚約破棄から数日で、隣国の公爵邸にまで使者を送ってくるとは。

「通せ」

 公爵の声は、低く、冷静だった。

「執務室へ」

 ベルトーネは、小さく息を吸い、立ち上がる。

 逃げるつもりはない。
 だが、向き合う覚悟は、必要だった。


---

 執務室に入ると、すでに王国の使者たちが整列していた。

 中央に立つ男は、見覚えがある。
 王宮で何度か顔を合わせたことのある、外務省の高官だ。

「グラーフ公爵閣下」

 形式的な礼。

「このたびは、突然の訪問をお許しください」

「要件を」

 公爵は、椅子に腰掛けたまま促す。

 使者は一瞬、言葉を選ぶように視線を泳がせ、それから続けた。

「先日の婚約破棄について、王国側で再協議が行われました」

 その瞬間、ベルトーネは悟る。

(“再協議”。
 つまり、都合が悪くなった、ということ)

「結論として――」

 使者は、はっきりと告げた。

「ベルトーネ・ランナバウト侯爵令嬢を、王国へお戻しいただきたい」

 空気が、ぴたりと止まった。

「婚約破棄は、感情的な判断によるものでした。
 本来であれば、もっと慎重に――」

「慎重さは、破棄の前に必要なものだ」

 公爵が遮る。

 声は穏やかだが、鋭い。

「終わった後に持ち出す言葉ではない」

 使者は、一瞬言葉に詰まった。

「……とはいえ、彼女は王国の貴族です。
 このまま隣国に留まるのは、問題が――」

「問題を作っているのは、どちらだ」

 公爵は、静かにベルトーネを見た。

「本人の意思は、確認したのか」

 使者たちは、沈黙した。

 それが答えだった。

 ベルトーネは、一歩前に出る。

「確認されていませんね」

 穏やかだが、はっきりとした声。

「では、ここでお伝えします」

 使者たちの視線が集まる。

「私は、王国へ戻るつもりはありません」

 言い切った瞬間、胸の奥がすっと軽くなった。

「婚約破棄は、正式な手続きを経て行われました。
 それを、今さらなかったことにはできません」

「ですが!」

 使者の一人が、声を荒げる。

「王国では現在、財政と外交の両面で――」

「その話は、私の責任ではありません」

 ベルトーネは、冷静に言葉を切った。

「私は、王太子妃になる予定だった立場を、正式に失いました。
 同時に、王国に仕える義務も、終わっています」

 使者の顔色が変わる。

「あなたが、どれほど王国に貢献してきたか――」

「評価されていない貢献は、義務ではありません」

 静かな一言が、重く落ちた。

 それ以上、反論の余地はなかった。


---

 沈黙の後、公爵が口を開く。

「この屋敷にいる限り、彼女は私の客人だ」

 淡々と、しかし明確に。

「圧力をかけるなら、正式な外交問題として扱う」

 使者たちは、互いに視線を交わし、やがて深く頭を下げた。

「……本日のところは、引き下がります」

 そう言い残し、彼らは執務室を後にした。

 扉が閉まる。

 静寂。


---

「……申し訳ありません」

 ベルトーネが、ぽつりと言った。

「私の存在が、余計な火種に」

「違う」

 公爵は、即座に否定した。

「火種は、最初から王国にあった」

 立ち上がり、窓辺に立つ。

「君がいなくなって、ようやく燃え始めただけだ」

 その言葉に、胸の奥で何かが確かに固まった。

(……戻れと言われても)

 もう、戻る場所ではない。

「君に、選択肢を与えよう」

 公爵が振り返る。

「このまま“客人”として留まるか。
 それとも――」

 一拍。

「正式に、私の側に立つか」

 それは、保護ではない。
 責任を伴う、立場の提示だった。

 ベルトーネは、迷わなかった。

「後者を」

 短く、しかし確かに。

「私は、ここで必要とされる仕事をします」

 公爵は、わずかに頷いた。

「ならば」

 机の上の書類を示す。

「公爵領特別顧問。
 名目ではなく、実務としてだ」

 胸が、静かに熱くなる。

「……お引き受けします」

 頭を下げる。

 もう、誰かに呼び戻される立場ではない。


---

 その夜。

 自室で窓を開け、冷たい風を吸い込む。

 王国からの呼び声は、確かに届いた。
 だが、それは“必要とされた”からではない。

 困ったから、戻せと言われただけだ。

 ベルトーネ・ランナバウトは、そっと目を閉じる。

 ここには、判断があり、責任があり、そして――
 自分の名前がある。

(……私は、ここにいる)

 そう、静かに確信しながら。
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