『婚約破棄された令嬢は、名もなき秤を置いて去る』

ふわふわ

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第5話 必要とされる場所

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第5話 必要とされる場所

 その夜、ベルトーネ・ランナバウトは、なかなか眠りにつけずにいた。

 客室の天井を見つめながら、昼間の出来事を思い返す。
 公爵の執務室で交わした言葉、視察の途中で向けられた視線、そして最後の一言。

『必要なら、私の隣に立て』

 ただの礼儀でも、社交辞令でもない。
 あれは、はっきりとした意思だった。

(……“役に立つ”ではなく、“必要”)

 その違いが、胸の奥に静かに残っている。

 王宮にいた頃、彼女は確かに役に立っていた。
 帳簿を整え、契約を精査し、問題が表に出る前に処理してきた。

 だが、それは「いてもいなくてもいい便利な歯車」だった。

 ここでは違う。
 少なくとも、アルベリク・フォン・グラーフ公爵は、彼女を歯車として扱っていない。

 ――眠れなくても、悪い気分ではなかった。


---

 翌朝。

 朝食を終えた直後、侍女が控えめに声をかけてきた。

「ベルトーネ様、公爵様がお呼びです」

「分かりました」

 自然と返事をし、立ち上がる。

 “様”と呼ばれることにも、まだ慣れない。
 だが、拒否する理由もなかった。

 執務室へ入ると、公爵はすでに数名の側近と書類を囲んでいた。
 ベルトーネの姿を認めると、短く告げる。

「来たか。
 少し、意見を聞きたい」

 側近たちの視線が、一斉に集まる。

 驚き、訝しみ、探るような目。
 だが、敵意はない。

「現在、公爵領では新しい税制案を検討している」

 公爵が続ける。

「だが、民の反発が強い。
 数字上は正しくとも、現場が追いつかない」

 差し出された資料を、ベルトーネは受け取った。

 目を通す。
 数値、配分、時期。

 ……分かりやすい問題だった。

「この案は、“正しい”ですが、“優しくありません”」

 そう告げると、側近の一人が眉をひそめた。

「優しさが、税制に必要ですか?」

「必要です」

 即答する。

「急激な変化は、理解を得る前に反発を生みます。
 段階を分けるべきです」

 指先で資料を示す。

「初年度は免除措置を設ける。
 数字上の不足分は、別の収益で補えます」

「……別の収益とは?」

「流通です」

 空気が変わる。

「この領地は、生産力が高い。
 問題は、売り方と運び方です」

 数分間、説明を続ける。
 誰も口を挟まない。

 やがて、公爵が口を開いた。

「――採用する」

 即断だった。

 側近たちが、静かに息をのむ。

「異論はあるか」

 誰も、何も言わない。

 ベルトーネは、その様子を見て思った。

(……議論が、ちゃんと“前に進む”)

 否定のための否定も、責任回避もない。
 判断が下れば、全員が動く。

 それは、彼女が理想としていた職場の形だった。


---

 昼過ぎ。

 執務室を出たところで、若い文官に呼び止められる。

「ベルトーネ様……その、失礼ですが」

「何でしょう」

「本当に、王国では評価されていなかったのですか?」

 一瞬、言葉に詰まる。

「……評価、という形では」

 そう答えると、彼は困ったように笑った。

「もったいない話です」

 その率直さに、思わずこちらも笑みがこぼれる。

「そうかもしれませんね」

 だが、もう後悔はない。

 必要とされない場所に、戻る理由はなかった。


---

 夕刻。

 公爵に呼ばれ、再び執務室へ。

「今日の件だが」

 彼は書類から目を離さずに言う。

「君の意見がなければ、失敗していた」

「それは……」

「事実だ」

 視線が上がり、真っ直ぐに向けられる。

「そこで、提案がある」

 わずかな間。

「しばらく、この屋敷に滞在しろ」

 命令ではない。
 だが、明確な意思。

「正式な立場は、まだ用意しない。
 その代わり、君の判断は私が保証する」

 つまり――
 責任は、すべて公爵が負うということだ。

 胸が、静かに熱くなる。

「……よろしいのですか」

「構わない」

 即答。

「有能な者を、無為に遊ばせる趣味はない」

 ベルトーネは、少し考えた後、頭を下げた。

「では――お言葉に甘えさせていただきます」

 顔を上げる。

「ここで、私にできることがあるなら」

 公爵は、ほんの一瞬だけ、目を細めた。

「十分すぎるほどだ」


---

 その夜。

 客室へ戻りながら、ベルトーネは思う。

(……私は、追放されたのではない)

 むしろ――

 選ばれたのだ。

 名前も、立場も、過去も関係なく。
 “できること”だけを見て。

 それが、こんなにも心を満たすとは思わなかった。

 ベルトーネ・ランナバウトは、静かに決意する。

 ここで、自分の居場所を築こう。
 誰かの影ではなく、誰かの飾りでもなく。

 必要とされる場所で、必要とされる仕事をするために。

 その決意が、やがて彼女自身をも変えていくことを、
 この時はまだ、知らなかった。
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