『婚約破棄された令嬢は、名もなき秤を置いて去る』

ふわふわ

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第12話 答えを急がない理由

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第12話 答えを急がない理由

 朝靄が、公爵邸の庭を淡く包んでいた。

 ベルトーネ・ランナバウトは、窓辺に立ち、その景色を静かに眺めていた。
 昨夜、何度も読み返した婚姻契約の草案は、机の上に畳まれたまま置かれている。

(……まだ、決められない)

 それを弱さだとは思わなかった。
 むしろ、これほど慎重になるほどの選択を、これまでの人生で迫られたことがなかったのだ。

 王太子との婚約は、選択肢ではなかった。
 決まっていて、従うものだった。

 だが今回は違う。

 拒むこともできる。
 受け入れることもできる。
 そして、考える時間も、与えられている。

(……だから、怖いのね)

 自由とは、時に、責任と同義だ。


---

 その日、執務は午前中から立て込んでいた。

 近隣領との物流協定が難航し、軍需物資の供給計画にも修正が必要になった。
 会議室には、いつも以上に緊張した空気が漂う。

「この条件では、こちらが不利です」

 側近の一人が言う。

「だが、相手も譲らない」

 別の声。

 ベルトーネは、黙って資料を追っていた。
 数字、日付、輸送路――どれもが絡み合っている。

「……一点、確認させてください」

 静かな声で切り出すと、自然と視線が集まる。

「この協定、最も問題なのは“条件”ではありません」

「では、何だと?」

「信頼です」

 ざわり、と空気が揺れた。

「相手は、こちらが早急に合意を欲していると見ています。
 だから、譲歩を迫ってくる」

 資料の一部を示す。

「期限を、こちらから一度引き延ばしましょう」

「それでは、供給が――」

「止まりません」

 即答。

「代替ルートは、すでに確保されています。
 ただ、それを“見せていない”だけです」

 沈黙。

 やがて、公爵が口を開いた。

「……相手に、選択肢があると思わせるわけだな」

「はい。
 対等な交渉に戻します」

「やれ」

 短い命令。

 会議は、その一言で流れを変えた。

 議事が終わった後、側近の一人が小声で言う。

「判断が、早くなりましたな」

 ベルトーネは、小さく微笑んだ。

「迷うべきところと、迷わなくていいところが、分かってきただけです」


---

 昼過ぎ。

 執務室に、思いがけない報告が入った。

「王国より、書簡が届いております」

 侍従が差し出した封書には、見覚えのある紋章が押されていた。

(……まだ、諦めていないのね)

 だが、開封は公爵の判断に委ねられた。

 アルベリク・フォン・グラーフ公爵は、内容に目を通し、短く鼻を鳴らす。

「……相変わらずだ」

「何と?」

「“元婚約者としての情誼に期待する”そうだ」

 ベルトーネは、思わず息を吐いた。

「情誼、ですか」

「都合のいい言葉だ」

 公爵は、書簡を机に置く。

「返答は、私がする。
 君が関わる必要はない」

 その配慮に、胸の奥がじんと温かくなる。

「……ありがとうございます」

 公爵は、少しだけ間を置いてから言った。

「契約の件だが」

 心臓が、わずかに強く打つ。

「今日は、答えを聞かない」

 意外な言葉だった。

「王国が動いた今、なおさらだ。
 追い込まれた状態で出す結論は、後悔を生む」

 視線が、真っ直ぐに向けられる。

「私は、君に後悔させるつもりはない」

 その一言で、胸の奥の緊張が、すっと解けた。

(……答えを急がない理由)

 それは、慎重だからではない。
 逃げ腰だからでもない。

 選ぶ重みを、理解しているからだ。


---

 夜。

 再び書斎に戻り、ベルトーネは草案を手に取った。

 今朝とは、見え方が少し違う。

 条件は変わらない。
 だが、その裏にある意図が、よりはっきりと見える。

(……この人は)

 私を守りたいのではない。
 私が、自分で立つのを、守りたいのだ。

 白い契約は、ゴールではない。
 ただの、始まりの形。

 ベルトーネ・ランナバウトは、深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。

 答えは、まだ出さない。
 だが――

(……答えを出す場所は、もう決まっている)

 それだけは、揺るがなかった。

 夜は静かに更けていく。
 彼女が、自分の人生を選び直す、その時を待つかのように。
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