『婚約破棄された令嬢は、名もなき秤を置いて去る』

ふわふわ

文字の大きさ
12 / 40

第12話 答えを急がない理由

しおりを挟む
第12話 答えを急がない理由

 朝靄が、公爵邸の庭を淡く包んでいた。

 ベルトーネ・ランナバウトは、窓辺に立ち、その景色を静かに眺めていた。
 昨夜、何度も読み返した婚姻契約の草案は、机の上に畳まれたまま置かれている。

(……まだ、決められない)

 それを弱さだとは思わなかった。
 むしろ、これほど慎重になるほどの選択を、これまでの人生で迫られたことがなかったのだ。

 王太子との婚約は、選択肢ではなかった。
 決まっていて、従うものだった。

 だが今回は違う。

 拒むこともできる。
 受け入れることもできる。
 そして、考える時間も、与えられている。

(……だから、怖いのね)

 自由とは、時に、責任と同義だ。


---

 その日、執務は午前中から立て込んでいた。

 近隣領との物流協定が難航し、軍需物資の供給計画にも修正が必要になった。
 会議室には、いつも以上に緊張した空気が漂う。

「この条件では、こちらが不利です」

 側近の一人が言う。

「だが、相手も譲らない」

 別の声。

 ベルトーネは、黙って資料を追っていた。
 数字、日付、輸送路――どれもが絡み合っている。

「……一点、確認させてください」

 静かな声で切り出すと、自然と視線が集まる。

「この協定、最も問題なのは“条件”ではありません」

「では、何だと?」

「信頼です」

 ざわり、と空気が揺れた。

「相手は、こちらが早急に合意を欲していると見ています。
 だから、譲歩を迫ってくる」

 資料の一部を示す。

「期限を、こちらから一度引き延ばしましょう」

「それでは、供給が――」

「止まりません」

 即答。

「代替ルートは、すでに確保されています。
 ただ、それを“見せていない”だけです」

 沈黙。

 やがて、公爵が口を開いた。

「……相手に、選択肢があると思わせるわけだな」

「はい。
 対等な交渉に戻します」

「やれ」

 短い命令。

 会議は、その一言で流れを変えた。

 議事が終わった後、側近の一人が小声で言う。

「判断が、早くなりましたな」

 ベルトーネは、小さく微笑んだ。

「迷うべきところと、迷わなくていいところが、分かってきただけです」


---

 昼過ぎ。

 執務室に、思いがけない報告が入った。

「王国より、書簡が届いております」

 侍従が差し出した封書には、見覚えのある紋章が押されていた。

(……まだ、諦めていないのね)

 だが、開封は公爵の判断に委ねられた。

 アルベリク・フォン・グラーフ公爵は、内容に目を通し、短く鼻を鳴らす。

「……相変わらずだ」

「何と?」

「“元婚約者としての情誼に期待する”そうだ」

 ベルトーネは、思わず息を吐いた。

「情誼、ですか」

「都合のいい言葉だ」

 公爵は、書簡を机に置く。

「返答は、私がする。
 君が関わる必要はない」

 その配慮に、胸の奥がじんと温かくなる。

「……ありがとうございます」

 公爵は、少しだけ間を置いてから言った。

「契約の件だが」

 心臓が、わずかに強く打つ。

「今日は、答えを聞かない」

 意外な言葉だった。

「王国が動いた今、なおさらだ。
 追い込まれた状態で出す結論は、後悔を生む」

 視線が、真っ直ぐに向けられる。

「私は、君に後悔させるつもりはない」

 その一言で、胸の奥の緊張が、すっと解けた。

(……答えを急がない理由)

 それは、慎重だからではない。
 逃げ腰だからでもない。

 選ぶ重みを、理解しているからだ。


---

 夜。

 再び書斎に戻り、ベルトーネは草案を手に取った。

 今朝とは、見え方が少し違う。

 条件は変わらない。
 だが、その裏にある意図が、よりはっきりと見える。

(……この人は)

 私を守りたいのではない。
 私が、自分で立つのを、守りたいのだ。

 白い契約は、ゴールではない。
 ただの、始まりの形。

 ベルトーネ・ランナバウトは、深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。

 答えは、まだ出さない。
 だが――

(……答えを出す場所は、もう決まっている)

 それだけは、揺るがなかった。

 夜は静かに更けていく。
 彼女が、自分の人生を選び直す、その時を待つかのように。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【完結】恋人にしたい人と結婚したい人とは別だよね?―――激しく同意するので別れましょう

冬馬亮
恋愛
「恋人にしたい人と結婚したい人とは別だよね?」 セシリエの婚約者、イアーゴはそう言った。 少し離れた後ろの席で、婚約者にその台詞を聞かれているとも知らずに。 ※たぶん全部で15〜20話くらいの予定です。 さくさく進みます。

乙女ゲームの世界だと、いつから思い込んでいた?

シナココ
ファンタジー
母親違いの妹をいじめたというふわふわした冤罪で婚約破棄された上に、最北の辺境地に流された公爵令嬢ハイデマリー。勝ち誇る妹・ゲルダは転生者。この世界のヒロインだと豪語し、王太子妃に成り上がる。乙女ゲームのハッピーエンドの確定だ。 ……乙女ゲームが終わったら、戦争ストラテジーゲームが始まるのだ。

愚かな者たちは国を滅ぼす【完結】

春の小径
ファンタジー
婚約破棄から始まる国の崩壊 『知らなかったから許される』なんて思わないでください。 それ自体、罪ですよ。 ⭐︎他社でも公開します

10日後に婚約破棄される公爵令嬢

雨野六月(旧アカウント)
恋愛
公爵令嬢ミシェル・ローレンは、婚約者である第三王子が「卒業パーティでミシェルとの婚約を破棄するつもりだ」と話しているのを聞いてしまう。 「そんな目に遭わされてたまるもんですか。なんとかパーティまでに手を打って、婚約破棄を阻止してみせるわ!」「まあ頑張れよ。それはそれとして、課題はちゃんとやってきたんだろうな? ミシェル・ローレン」「先生ったら、今それどころじゃないって分からないの? どうしても提出してほしいなら先生も協力してちょうだい」 これは公爵令嬢ミシェル・ローレンが婚約破棄を阻止するために(なぜか学院教師エドガーを巻き込みながら)奮闘した10日間の備忘録である。

【完結】悪役令嬢の断罪から始まるモブ令嬢の復讐劇

夜桜 舞
恋愛
「私がどんなに頑張っても……やっぱり駄目だった」 その日、乙女ゲームの悪役令嬢、「レイナ・ファリアム」は絶望した。転生者である彼女は、前世の記憶を駆使して、なんとか自身の断罪を回避しようとしたが、全て無駄だった。しょせんは悪役令嬢。ゲームの絶対的勝者であるはずのヒロインに勝てるはずがない。自身が断罪する運命は変えられず、婚約者……いや、”元”婚約者である「デイファン・テリアム」に婚約破棄と国外追放を命じられる。みんな、誰一人としてレイナを庇ってはくれず、レイナに冷たい視線を向けていた。そして、国外追放のための馬車に乗り込むと、馬車の中に隠れていた何者かによって……レイナは殺害されてしまった。 「なぜ、レイナが……あの子は何も悪くないのに!!」 彼女の死に唯一嘆いたものは、家族以上にレイナを知る存在……レイナの親友であり、幼馴染でもある、侯爵令嬢、「ヴィル・テイラン」であった。ヴィルは親友のレイナにすら教えていなかったが、自身も前世の記憶を所持しており、自身がゲームのモブであるということも知っていた。 「これまでは物語のモブで、でしゃばるのはよくないと思い、見て見ぬふりをしていましたが……こればかりは見過ごせません!!」 そして、彼女は決意した。レイナの死は、見て見ぬふりをしてきた自身もにも非がある。だからこそ、彼女の代わりに、彼女への罪滅ぼしのために、彼女を虐げてきた者たちに復讐するのだ、と。これは、悪役令嬢の断罪から始まる、モブ令嬢の復讐劇である。

お前が産め!

星森
ファンタジー
結婚して3ヶ月、夫ジュダルから突然の離婚宣言。 しかし妻アルネは、あっさり「はい、いいですよ」と返答。 だがその裏には、冷徹な計画があった──。 姑ロザリアの暴走、夫ジュダルの迷走、義父バルドランの混乱。 魔方陣が光り、契約精霊が応え、屋敷はいつしか常識の彼方へ。 そして誕生するオシリーナとオシリーネ。 「子供が欲しい? なら、産めばいいじゃない」 冷静沈着な契約者アルネが、家族の常識を魔法でぶち壊す! 愛も情もどこ吹く風、すべては計画通り(?)の異色魔法家族劇、ここに完結。 ⚠️本作は下品です。性的描写があります。 AIの生成した文章を使用しています。

《本編完結》あの人を綺麗さっぱり忘れる方法

本見りん
恋愛
メラニー アイスナー子爵令嬢はある日婚約者ディートマーから『婚約破棄』を言い渡される。  ショックで落ち込み、彼と婚約者として過ごした日々を思い出して涙していた───が。  ……あれ? 私ってずっと虐げられてない? 彼からはずっと嫌な目にあった思い出しかないんだけど!?  やっと自分が虐げられていたと気付き目が覚めたメラニー。  しかも両親も昔からディートマーに騙されている為、両親の説得から始めなければならない。  そしてこの王国ではかつて王子がやらかした『婚約破棄騒動』の為に、世間では『婚約破棄、ダメ、絶対』な風潮がある。    自分の思うようにする為に手段を選ばないだろう元婚約者ディートマーから、メラニーは無事自由を勝ち取る事が出来るのだろうか……。

『選ばれなかった令嬢は、世界の外で静かに微笑む』

ふわふわ
恋愛
婚約者エステランス・ショウシユウに一方的な婚約破棄を告げられ、 偽ヒロイン・エア・ソフィアの引き立て役として切り捨てられた令嬢 シャウ・エッセン。 「君はもう必要ない」 そう言われた瞬間、彼女は絶望しなかった。 ――なぜなら、その言葉は“自由”の始まりだったから。 王宮の表舞台から退き、誰にも選ばれない立場を自ら選んだシャウ。 だが皮肉なことに、彼女が去った後の世界は、少しずつ歪みを正し始める。 奇跡に頼らず、誰かを神格化せず、 一人に負担を押し付けない仕組みへ―― それは、彼女がかつて静かに築き、手放した「考え方」そのものだった。 元婚約者はようやく理解し、 偽ヒロインは役割を降り、 世界は「彼女がいなくても回る場所」へと変わっていく。 復讐も断罪もない。 あるのは、物語の中心から降りるという、最も静かな“ざまぁ”。 これは、 選ばれなかった令嬢が、 誰の期待にも縛られず、 名もなき日々を生きることを選ぶ物語。

処理中です...