『婚約破棄された令嬢は、名もなき秤を置いて去る』

ふわふわ

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第15話 署名は、対等の証

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第15話 署名は、対等の証

 その朝、公爵邸はいつもより静かだった。

 早朝の回廊を歩く足音が、やけに大きく響く。
 ベルトーネ・ランナバウトは、胸の内でゆっくりと呼吸を整えながら、書斎へ向かっていた。

 昨夜、眠りは浅かった。
 だが、それは迷いのせいではない。

(……決めた、からよ)

 机の上には、白い婚姻契約の草案。
 そこには、彼女自身の手で書き添えた修正案が、いくつか並んでいる。

 現場への説明義務。
 移行期間の明文化。
 特別顧問としての権限と、公爵夫人としての立場の線引き。

 どれも、誰かに言われたわけではない。
 自分が、必要だと思ったから書いた。

 それが、答えだった。


---

 ノックの音が、短く響く。

「どうぞ」

 扉を開けて入ってきたのは、アルベリク・フォン・グラーフ公爵だった。
 いつも通り、無駄のない足取り。
 だが、今日はどこか、空気が違う。

「……早いな」

「お待たせするより、こちらの方が良いと思いまして」

 ベルトーネは、そう言って席を勧めた。

 公爵は、草案に目を落とす。
 最初の数行を読み、次第に、視線が止まる。

「……書き足したな」

「はい」

 隠す必要はなかった。

「不要でしたか」

「いいや」

 公爵は、ゆっくりと首を振る。

「むしろ、足りなかった部分だ」

 その言葉に、胸の奥が静かに温かくなる。

 彼は、修正点を一つひとつ確認していった。
 眉をひそめることも、否定することもない。

「……これで、問題はない」

 そう言って、顔を上げる。

「最終確認だ」

 視線が、真っ直ぐに向けられる。

「この契約は、君を縛るものではない。
 だが、外から見れば、明確な“立場”を示す」

 一拍。

「それでも、署名するか」

 その問いに、躊躇はなかった。

「はい」

 短く、しかしはっきりと。

「私は、守られるために署名するのではありません」

 ペンを取り、続ける。

「この場所で、対等に立つために署名します」

 公爵の目が、わずかに見開かれた。

 そして――
 ほんの一瞬だけ、確かに、柔らかくなる。

「……そうか」

 それだけ言って、彼もペンを取った。


---

 署名は、驚くほど静かに行われた。

 羊皮紙に刻まれる音は、かすかで、しかし確かな響きを持っていた。

 ――ベルトーネ・ランナバウト。
 ――アルベリク・フォン・グラーフ。

 二つの名が、並ぶ。

 それは、主従でも、保護でもない。
 合意だった。

 公爵は、署名を終えると、静かに書類を閉じた。

「これで、君は――」

「いいえ」

 ベルトーネは、穏やかに遮る。

「“公爵夫人になる”のではありません」

 公爵が、視線を向ける。

「“公爵領の一員として、同じ責任を負う”だけです」

 一瞬の沈黙。

 そして、低く、確かな声が返る。

「異論はない」

 それは、受け入れではなく、承認だった。


---

 昼。

 正式な発表は、最小限で行われた。

 豪奢な披露も、祝宴もない。
 ただ、必要な相手に、必要な事実だけが伝えられる。

 だが、その影響は静かに、確実に広がっていった。

「……公爵夫人が、顧問業務も続けるそうだ」

「形式だけの婚姻、だとか」

「だが、決定権は変わらない」

 噂は、以前とは違う色を帯びていた。

 嫉妬でも、軽視でもない。
 理解しようとする声が混じり始めている。


---

 夕刻。

 公爵邸の庭で、ベルトーネは一人、風に吹かれていた。

 肩書きが増えた。
 責任も、増えた。

 だが、不思議と、重くはない。

「……後悔は?」

 いつの間にか、隣に立っていた公爵が、静かに尋ねる。

「ありません」

 即答だった。

「むしろ、はっきりしました」

「何が」

「私は、誰かに選ばれたくなかったんです」

 視線を前に向けたまま、続ける。

「でも――
 誰かと並んで立つことは、拒んでいなかった」

 公爵は、何も言わなかった。
 ただ、その沈黙は、否定ではない。

 夕日が、二人の影を並べて地面に落とす。

 どちらが前でも、後ろでもない。

 同じ高さで、同じ方向を向いた影だった。


---

 その夜。

 ベルトーネ・ランナバウトは、自室で静かに書類を整理していた。

 契約書は、もう草案ではない。
 正式な文書として、封がされている。

(……署名は、終わった)

 だが、始まりは、これからだ。

 白い契約は、ゴールではない。
 対等であることを、続けるための約束にすぎない。

 ベルトーネは、窓を開け、夜風を吸い込む。

 選ばれる人生は、終わった。
 これからは、選び続ける人生だ。

 そしてその隣には――
 同じ責任を負う相手が、いる。

 それだけで、十分だった。
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