15 / 40
第15話 署名は、対等の証
しおりを挟む
第15話 署名は、対等の証
その朝、公爵邸はいつもより静かだった。
早朝の回廊を歩く足音が、やけに大きく響く。
ベルトーネ・ランナバウトは、胸の内でゆっくりと呼吸を整えながら、書斎へ向かっていた。
昨夜、眠りは浅かった。
だが、それは迷いのせいではない。
(……決めた、からよ)
机の上には、白い婚姻契約の草案。
そこには、彼女自身の手で書き添えた修正案が、いくつか並んでいる。
現場への説明義務。
移行期間の明文化。
特別顧問としての権限と、公爵夫人としての立場の線引き。
どれも、誰かに言われたわけではない。
自分が、必要だと思ったから書いた。
それが、答えだった。
---
ノックの音が、短く響く。
「どうぞ」
扉を開けて入ってきたのは、アルベリク・フォン・グラーフ公爵だった。
いつも通り、無駄のない足取り。
だが、今日はどこか、空気が違う。
「……早いな」
「お待たせするより、こちらの方が良いと思いまして」
ベルトーネは、そう言って席を勧めた。
公爵は、草案に目を落とす。
最初の数行を読み、次第に、視線が止まる。
「……書き足したな」
「はい」
隠す必要はなかった。
「不要でしたか」
「いいや」
公爵は、ゆっくりと首を振る。
「むしろ、足りなかった部分だ」
その言葉に、胸の奥が静かに温かくなる。
彼は、修正点を一つひとつ確認していった。
眉をひそめることも、否定することもない。
「……これで、問題はない」
そう言って、顔を上げる。
「最終確認だ」
視線が、真っ直ぐに向けられる。
「この契約は、君を縛るものではない。
だが、外から見れば、明確な“立場”を示す」
一拍。
「それでも、署名するか」
その問いに、躊躇はなかった。
「はい」
短く、しかしはっきりと。
「私は、守られるために署名するのではありません」
ペンを取り、続ける。
「この場所で、対等に立つために署名します」
公爵の目が、わずかに見開かれた。
そして――
ほんの一瞬だけ、確かに、柔らかくなる。
「……そうか」
それだけ言って、彼もペンを取った。
---
署名は、驚くほど静かに行われた。
羊皮紙に刻まれる音は、かすかで、しかし確かな響きを持っていた。
――ベルトーネ・ランナバウト。
――アルベリク・フォン・グラーフ。
二つの名が、並ぶ。
それは、主従でも、保護でもない。
合意だった。
公爵は、署名を終えると、静かに書類を閉じた。
「これで、君は――」
「いいえ」
ベルトーネは、穏やかに遮る。
「“公爵夫人になる”のではありません」
公爵が、視線を向ける。
「“公爵領の一員として、同じ責任を負う”だけです」
一瞬の沈黙。
そして、低く、確かな声が返る。
「異論はない」
それは、受け入れではなく、承認だった。
---
昼。
正式な発表は、最小限で行われた。
豪奢な披露も、祝宴もない。
ただ、必要な相手に、必要な事実だけが伝えられる。
だが、その影響は静かに、確実に広がっていった。
「……公爵夫人が、顧問業務も続けるそうだ」
「形式だけの婚姻、だとか」
「だが、決定権は変わらない」
噂は、以前とは違う色を帯びていた。
嫉妬でも、軽視でもない。
理解しようとする声が混じり始めている。
---
夕刻。
公爵邸の庭で、ベルトーネは一人、風に吹かれていた。
肩書きが増えた。
責任も、増えた。
だが、不思議と、重くはない。
「……後悔は?」
いつの間にか、隣に立っていた公爵が、静かに尋ねる。
「ありません」
即答だった。
「むしろ、はっきりしました」
「何が」
「私は、誰かに選ばれたくなかったんです」
視線を前に向けたまま、続ける。
「でも――
誰かと並んで立つことは、拒んでいなかった」
公爵は、何も言わなかった。
ただ、その沈黙は、否定ではない。
夕日が、二人の影を並べて地面に落とす。
どちらが前でも、後ろでもない。
同じ高さで、同じ方向を向いた影だった。
---
その夜。
ベルトーネ・ランナバウトは、自室で静かに書類を整理していた。
契約書は、もう草案ではない。
正式な文書として、封がされている。
(……署名は、終わった)
だが、始まりは、これからだ。
白い契約は、ゴールではない。
対等であることを、続けるための約束にすぎない。
ベルトーネは、窓を開け、夜風を吸い込む。
選ばれる人生は、終わった。
これからは、選び続ける人生だ。
そしてその隣には――
同じ責任を負う相手が、いる。
それだけで、十分だった。
その朝、公爵邸はいつもより静かだった。
早朝の回廊を歩く足音が、やけに大きく響く。
ベルトーネ・ランナバウトは、胸の内でゆっくりと呼吸を整えながら、書斎へ向かっていた。
昨夜、眠りは浅かった。
だが、それは迷いのせいではない。
(……決めた、からよ)
机の上には、白い婚姻契約の草案。
そこには、彼女自身の手で書き添えた修正案が、いくつか並んでいる。
現場への説明義務。
移行期間の明文化。
特別顧問としての権限と、公爵夫人としての立場の線引き。
どれも、誰かに言われたわけではない。
自分が、必要だと思ったから書いた。
それが、答えだった。
---
ノックの音が、短く響く。
「どうぞ」
扉を開けて入ってきたのは、アルベリク・フォン・グラーフ公爵だった。
いつも通り、無駄のない足取り。
だが、今日はどこか、空気が違う。
「……早いな」
「お待たせするより、こちらの方が良いと思いまして」
ベルトーネは、そう言って席を勧めた。
公爵は、草案に目を落とす。
最初の数行を読み、次第に、視線が止まる。
「……書き足したな」
「はい」
隠す必要はなかった。
「不要でしたか」
「いいや」
公爵は、ゆっくりと首を振る。
「むしろ、足りなかった部分だ」
その言葉に、胸の奥が静かに温かくなる。
彼は、修正点を一つひとつ確認していった。
眉をひそめることも、否定することもない。
「……これで、問題はない」
そう言って、顔を上げる。
「最終確認だ」
視線が、真っ直ぐに向けられる。
「この契約は、君を縛るものではない。
だが、外から見れば、明確な“立場”を示す」
一拍。
「それでも、署名するか」
その問いに、躊躇はなかった。
「はい」
短く、しかしはっきりと。
「私は、守られるために署名するのではありません」
ペンを取り、続ける。
「この場所で、対等に立つために署名します」
公爵の目が、わずかに見開かれた。
そして――
ほんの一瞬だけ、確かに、柔らかくなる。
「……そうか」
それだけ言って、彼もペンを取った。
---
署名は、驚くほど静かに行われた。
羊皮紙に刻まれる音は、かすかで、しかし確かな響きを持っていた。
――ベルトーネ・ランナバウト。
――アルベリク・フォン・グラーフ。
二つの名が、並ぶ。
それは、主従でも、保護でもない。
合意だった。
公爵は、署名を終えると、静かに書類を閉じた。
「これで、君は――」
「いいえ」
ベルトーネは、穏やかに遮る。
「“公爵夫人になる”のではありません」
公爵が、視線を向ける。
「“公爵領の一員として、同じ責任を負う”だけです」
一瞬の沈黙。
そして、低く、確かな声が返る。
「異論はない」
それは、受け入れではなく、承認だった。
---
昼。
正式な発表は、最小限で行われた。
豪奢な披露も、祝宴もない。
ただ、必要な相手に、必要な事実だけが伝えられる。
だが、その影響は静かに、確実に広がっていった。
「……公爵夫人が、顧問業務も続けるそうだ」
「形式だけの婚姻、だとか」
「だが、決定権は変わらない」
噂は、以前とは違う色を帯びていた。
嫉妬でも、軽視でもない。
理解しようとする声が混じり始めている。
---
夕刻。
公爵邸の庭で、ベルトーネは一人、風に吹かれていた。
肩書きが増えた。
責任も、増えた。
だが、不思議と、重くはない。
「……後悔は?」
いつの間にか、隣に立っていた公爵が、静かに尋ねる。
「ありません」
即答だった。
「むしろ、はっきりしました」
「何が」
「私は、誰かに選ばれたくなかったんです」
視線を前に向けたまま、続ける。
「でも――
誰かと並んで立つことは、拒んでいなかった」
公爵は、何も言わなかった。
ただ、その沈黙は、否定ではない。
夕日が、二人の影を並べて地面に落とす。
どちらが前でも、後ろでもない。
同じ高さで、同じ方向を向いた影だった。
---
その夜。
ベルトーネ・ランナバウトは、自室で静かに書類を整理していた。
契約書は、もう草案ではない。
正式な文書として、封がされている。
(……署名は、終わった)
だが、始まりは、これからだ。
白い契約は、ゴールではない。
対等であることを、続けるための約束にすぎない。
ベルトーネは、窓を開け、夜風を吸い込む。
選ばれる人生は、終わった。
これからは、選び続ける人生だ。
そしてその隣には――
同じ責任を負う相手が、いる。
それだけで、十分だった。
11
あなたにおすすめの小説
【完結】恋人にしたい人と結婚したい人とは別だよね?―――激しく同意するので別れましょう
冬馬亮
恋愛
「恋人にしたい人と結婚したい人とは別だよね?」
セシリエの婚約者、イアーゴはそう言った。
少し離れた後ろの席で、婚約者にその台詞を聞かれているとも知らずに。
※たぶん全部で15〜20話くらいの予定です。
さくさく進みます。
乙女ゲームの世界だと、いつから思い込んでいた?
シナココ
ファンタジー
母親違いの妹をいじめたというふわふわした冤罪で婚約破棄された上に、最北の辺境地に流された公爵令嬢ハイデマリー。勝ち誇る妹・ゲルダは転生者。この世界のヒロインだと豪語し、王太子妃に成り上がる。乙女ゲームのハッピーエンドの確定だ。
……乙女ゲームが終わったら、戦争ストラテジーゲームが始まるのだ。
10日後に婚約破棄される公爵令嬢
雨野六月(旧アカウント)
恋愛
公爵令嬢ミシェル・ローレンは、婚約者である第三王子が「卒業パーティでミシェルとの婚約を破棄するつもりだ」と話しているのを聞いてしまう。
「そんな目に遭わされてたまるもんですか。なんとかパーティまでに手を打って、婚約破棄を阻止してみせるわ!」「まあ頑張れよ。それはそれとして、課題はちゃんとやってきたんだろうな? ミシェル・ローレン」「先生ったら、今それどころじゃないって分からないの? どうしても提出してほしいなら先生も協力してちょうだい」
これは公爵令嬢ミシェル・ローレンが婚約破棄を阻止するために(なぜか学院教師エドガーを巻き込みながら)奮闘した10日間の備忘録である。
【完結】悪役令嬢の断罪から始まるモブ令嬢の復讐劇
夜桜 舞
恋愛
「私がどんなに頑張っても……やっぱり駄目だった」
その日、乙女ゲームの悪役令嬢、「レイナ・ファリアム」は絶望した。転生者である彼女は、前世の記憶を駆使して、なんとか自身の断罪を回避しようとしたが、全て無駄だった。しょせんは悪役令嬢。ゲームの絶対的勝者であるはずのヒロインに勝てるはずがない。自身が断罪する運命は変えられず、婚約者……いや、”元”婚約者である「デイファン・テリアム」に婚約破棄と国外追放を命じられる。みんな、誰一人としてレイナを庇ってはくれず、レイナに冷たい視線を向けていた。そして、国外追放のための馬車に乗り込むと、馬車の中に隠れていた何者かによって……レイナは殺害されてしまった。
「なぜ、レイナが……あの子は何も悪くないのに!!」
彼女の死に唯一嘆いたものは、家族以上にレイナを知る存在……レイナの親友であり、幼馴染でもある、侯爵令嬢、「ヴィル・テイラン」であった。ヴィルは親友のレイナにすら教えていなかったが、自身も前世の記憶を所持しており、自身がゲームのモブであるということも知っていた。
「これまでは物語のモブで、でしゃばるのはよくないと思い、見て見ぬふりをしていましたが……こればかりは見過ごせません!!」
そして、彼女は決意した。レイナの死は、見て見ぬふりをしてきた自身もにも非がある。だからこそ、彼女の代わりに、彼女への罪滅ぼしのために、彼女を虐げてきた者たちに復讐するのだ、と。これは、悪役令嬢の断罪から始まる、モブ令嬢の復讐劇である。
お前が産め!
星森
ファンタジー
結婚して3ヶ月、夫ジュダルから突然の離婚宣言。
しかし妻アルネは、あっさり「はい、いいですよ」と返答。
だがその裏には、冷徹な計画があった──。
姑ロザリアの暴走、夫ジュダルの迷走、義父バルドランの混乱。
魔方陣が光り、契約精霊が応え、屋敷はいつしか常識の彼方へ。
そして誕生するオシリーナとオシリーネ。
「子供が欲しい? なら、産めばいいじゃない」
冷静沈着な契約者アルネが、家族の常識を魔法でぶち壊す!
愛も情もどこ吹く風、すべては計画通り(?)の異色魔法家族劇、ここに完結。
⚠️本作は下品です。性的描写があります。
AIの生成した文章を使用しています。
《本編完結》あの人を綺麗さっぱり忘れる方法
本見りん
恋愛
メラニー アイスナー子爵令嬢はある日婚約者ディートマーから『婚約破棄』を言い渡される。
ショックで落ち込み、彼と婚約者として過ごした日々を思い出して涙していた───が。
……あれ? 私ってずっと虐げられてない? 彼からはずっと嫌な目にあった思い出しかないんだけど!?
やっと自分が虐げられていたと気付き目が覚めたメラニー。
しかも両親も昔からディートマーに騙されている為、両親の説得から始めなければならない。
そしてこの王国ではかつて王子がやらかした『婚約破棄騒動』の為に、世間では『婚約破棄、ダメ、絶対』な風潮がある。
自分の思うようにする為に手段を選ばないだろう元婚約者ディートマーから、メラニーは無事自由を勝ち取る事が出来るのだろうか……。
『選ばれなかった令嬢は、世界の外で静かに微笑む』
ふわふわ
恋愛
婚約者エステランス・ショウシユウに一方的な婚約破棄を告げられ、
偽ヒロイン・エア・ソフィアの引き立て役として切り捨てられた令嬢
シャウ・エッセン。
「君はもう必要ない」
そう言われた瞬間、彼女は絶望しなかった。
――なぜなら、その言葉は“自由”の始まりだったから。
王宮の表舞台から退き、誰にも選ばれない立場を自ら選んだシャウ。
だが皮肉なことに、彼女が去った後の世界は、少しずつ歪みを正し始める。
奇跡に頼らず、誰かを神格化せず、
一人に負担を押し付けない仕組みへ――
それは、彼女がかつて静かに築き、手放した「考え方」そのものだった。
元婚約者はようやく理解し、
偽ヒロインは役割を降り、
世界は「彼女がいなくても回る場所」へと変わっていく。
復讐も断罪もない。
あるのは、物語の中心から降りるという、最も静かな“ざまぁ”。
これは、
選ばれなかった令嬢が、
誰の期待にも縛られず、
名もなき日々を生きることを選ぶ物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる