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第14話 白い契約に、名を刻む前に
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第14話 白い契約に、名を刻む前に
夜明け前の空は、まだ色を決めかねているようだった。
ベルトーネ・ランナバウトは、書斎の窓辺に立ち、薄い雲の向こうに滲む光を眺めていた。
机の上には、畳まれたままの婚姻契約草案。
白い紙の束は、静かにそこにあるだけなのに、確かな存在感を放っている。
(……書けば終わる。
でも、終わらせていいのかしら)
答えは「はい」とも「いいえ」とも言えた。
それが、この契約の不思議なところだった。
拒否される恐れはない。
急かされることもない。
だからこそ、軽々しく署名してはいけない――そんな気がしていた。
---
その日、公爵領の南端で小規模な騒動が起きた。
港町の商人たちが、新たに導入された時間帯別使用料に不満を示し、代表者が抗議に来たのだという。
「感情的になっていますが、話し合いは可能です」
報告を受け、ベルトーネは即座に立ち上がった。
「私が行きます」
側近が驚いたように目を見開く。
「顧問自ら、ですか?」
「ええ。
数字の話は、現場でしなければ意味がありません」
公爵は、短く頷いた。
「同行しよう」
その言葉に、胸の奥がわずかに揺れる。
だが、今はそれを考えている場合ではない。
---
港町は、いつもよりざわついていた。
倉庫の前には、数名の商人と、彼らに付き添う労働者たち。
怒声と不満が、潮の匂いと混じり合っている。
「急に料金を変えられては困る!」
「こっちは生活がかかっているんだ!」
ベルトーネは、一歩前に出た。
「話を聞かせてください」
その声は、大きくはないが、よく通った。
「反論は、その後で結構です」
一瞬、ざわめきが静まる。
「……あなたは?」
代表格の商人が、訝しげに尋ねる。
「ベルトーネ・ランナバウト。
公爵領特別顧問です」
名を告げると、周囲に小さなざわつきが広がった。
「では、率直に」
彼女は続ける。
「何が、いちばん困っていますか」
商人は、少し言葉に詰まった。
「……昼間の料金が上がったことで、
取引先が渋るようになった」
「夜間や早朝の利用は?」
「……慣れていない」
「なら、慣れるための猶予が必要ですね」
ベルトーネは、すぐにそう結論づけた。
「移行期間を設けます。
最初の三か月は、差額を補助します」
「そんなことが?」
「できます」
即答だった。
「その代わり、利用時間の分散に協力してください」
沈黙。
やがて、商人の一人が、ぽつりと言った。
「……理屈は、分かる」
別の者が続く。
「ちゃんと、話を聞いてくれるなら……」
怒りは、いつの間にか不安に変わっていた。
ベルトーネは、深く頭を下げた。
「不安を放置したのは、こちらの落ち度です。
申し訳ありません」
その一言で、空気が変わった。
誰もが、予想していなかったのだ。
上に立つ者が、謝るとは。
話し合いは、穏やかに終わった。
---
帰りの馬車の中。
沈黙が、しばらく続いた。
「……今日の対応」
公爵が、低く言う。
「契約書には、書かれていない仕事だ」
ベルトーネは、少しだけ微笑んだ。
「線を引くための契約なら、
線の内側を、ちゃんと整えなければ」
公爵は、何も言わなかった。
だが、その視線は、確かに彼女を見ていた。
値踏みではない。
評価でもない。
確認だ。
(……この人は)
私が署名するかどうかより、
私がどう在るかを見ている。
---
夜。
書斎に戻り、ベルトーネは、再び草案を手に取った。
今日、港町で交わした言葉。
謝罪。
妥協。
判断。
(……私は、もう)
守られるだけの立場ではない。
選び、決め、責任を負っている。
この契約は、その事実を「形」にするだけだ。
ベルトーネ・ランナバウトは、ペンを取った。
だが、まだ署名はしない。
代わりに、草案の余白に、小さくメモを書き添える。
――移行期間と、現場への説明を明文化すること。
(……名を刻む前に)
この契約を、より良いものにしたい。
自分のためだけでなく、
この領地のために。
白い契約は、完成していない。
だからこそ、意味がある。
夜明けは、もうすぐだった。
夜明け前の空は、まだ色を決めかねているようだった。
ベルトーネ・ランナバウトは、書斎の窓辺に立ち、薄い雲の向こうに滲む光を眺めていた。
机の上には、畳まれたままの婚姻契約草案。
白い紙の束は、静かにそこにあるだけなのに、確かな存在感を放っている。
(……書けば終わる。
でも、終わらせていいのかしら)
答えは「はい」とも「いいえ」とも言えた。
それが、この契約の不思議なところだった。
拒否される恐れはない。
急かされることもない。
だからこそ、軽々しく署名してはいけない――そんな気がしていた。
---
その日、公爵領の南端で小規模な騒動が起きた。
港町の商人たちが、新たに導入された時間帯別使用料に不満を示し、代表者が抗議に来たのだという。
「感情的になっていますが、話し合いは可能です」
報告を受け、ベルトーネは即座に立ち上がった。
「私が行きます」
側近が驚いたように目を見開く。
「顧問自ら、ですか?」
「ええ。
数字の話は、現場でしなければ意味がありません」
公爵は、短く頷いた。
「同行しよう」
その言葉に、胸の奥がわずかに揺れる。
だが、今はそれを考えている場合ではない。
---
港町は、いつもよりざわついていた。
倉庫の前には、数名の商人と、彼らに付き添う労働者たち。
怒声と不満が、潮の匂いと混じり合っている。
「急に料金を変えられては困る!」
「こっちは生活がかかっているんだ!」
ベルトーネは、一歩前に出た。
「話を聞かせてください」
その声は、大きくはないが、よく通った。
「反論は、その後で結構です」
一瞬、ざわめきが静まる。
「……あなたは?」
代表格の商人が、訝しげに尋ねる。
「ベルトーネ・ランナバウト。
公爵領特別顧問です」
名を告げると、周囲に小さなざわつきが広がった。
「では、率直に」
彼女は続ける。
「何が、いちばん困っていますか」
商人は、少し言葉に詰まった。
「……昼間の料金が上がったことで、
取引先が渋るようになった」
「夜間や早朝の利用は?」
「……慣れていない」
「なら、慣れるための猶予が必要ですね」
ベルトーネは、すぐにそう結論づけた。
「移行期間を設けます。
最初の三か月は、差額を補助します」
「そんなことが?」
「できます」
即答だった。
「その代わり、利用時間の分散に協力してください」
沈黙。
やがて、商人の一人が、ぽつりと言った。
「……理屈は、分かる」
別の者が続く。
「ちゃんと、話を聞いてくれるなら……」
怒りは、いつの間にか不安に変わっていた。
ベルトーネは、深く頭を下げた。
「不安を放置したのは、こちらの落ち度です。
申し訳ありません」
その一言で、空気が変わった。
誰もが、予想していなかったのだ。
上に立つ者が、謝るとは。
話し合いは、穏やかに終わった。
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帰りの馬車の中。
沈黙が、しばらく続いた。
「……今日の対応」
公爵が、低く言う。
「契約書には、書かれていない仕事だ」
ベルトーネは、少しだけ微笑んだ。
「線を引くための契約なら、
線の内側を、ちゃんと整えなければ」
公爵は、何も言わなかった。
だが、その視線は、確かに彼女を見ていた。
値踏みではない。
評価でもない。
確認だ。
(……この人は)
私が署名するかどうかより、
私がどう在るかを見ている。
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夜。
書斎に戻り、ベルトーネは、再び草案を手に取った。
今日、港町で交わした言葉。
謝罪。
妥協。
判断。
(……私は、もう)
守られるだけの立場ではない。
選び、決め、責任を負っている。
この契約は、その事実を「形」にするだけだ。
ベルトーネ・ランナバウトは、ペンを取った。
だが、まだ署名はしない。
代わりに、草案の余白に、小さくメモを書き添える。
――移行期間と、現場への説明を明文化すること。
(……名を刻む前に)
この契約を、より良いものにしたい。
自分のためだけでなく、
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白い契約は、完成していない。
だからこそ、意味がある。
夜明けは、もうすぐだった。
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