『婚約破棄された令嬢は、名もなき秤を置いて去る』

ふわふわ

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第17話 名で呼ばれる重み

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第17話 名で呼ばれる重み

 その日、公爵邸の正門前は、朝から人の気配が絶えなかった。

 公式な披露は行っていない。
 祝宴も、宣言もない。
 それでも、情報というものは、必ず外へ滲み出る。

(……思ったより、早いわね)

 ベルトーネ・ランナバウトは、執務室の窓から下を見下ろし、小さく息を吐いた。
 集まっているのは、野次馬だけではない。商会の使者、近隣領の書記、そして――王国の気配をまとった者たち。

 肩書きが増えた朝は、静かだった。
 だが、肩書きが伝わった翌日は、必ず騒がしくなる。

 それが、政治というものだ。


---

「……外が、騒がしいですね」

 側近の一人が、控えめに言った。

「ええ。ですが、問題ありません」

 ベルトーネは、机上の書類から目を離さない。

「必要な者だけを通してください。
 順番は、今まで通りで」

「公爵夫人として、優先枠を――」

「不要です」

 即答だった。

「特別扱いは、混乱を生みます。
 順序があるから、判断が成立する」

 側近は、一瞬言葉に詰まり、それから深く頷いた。

「……承知しました」

 その背を見送りながら、ベルトーネは思う。

(“夫人”と呼ばれることよりも、
 “判断を変えない”ことの方が、ずっと大事)


---

 午前の執務は、対外的な面会が中心だった。

 最初に通されたのは、近隣都市の商会長。
 形式的な祝辞を述べたあと、すぐに本題に入る。

「今後の取引条件について、改めて――」

「条件は、変わりません」

 ベルトーネは、穏やかに、しかしはっきりと告げた。

「婚姻は、統治方針を変える理由にはなりません」

 商会長は、一瞬だけ目を瞬かせた。

「……それは、つまり」

「これまでと同じ評価基準で、判断するということです」

 沈黙。

 やがて、商会長は小さく笑った。

「噂に聞くより、ずっと分かりやすい方だ」

「そうですか?」

「ええ。
 肩書きで測られないのは、助かります」

 その言葉に、胸の奥で何かが静かにほどけた。


---

 昼前。

 最後に通されたのは、王国から来たと名乗る使者だった。

 形式は丁重。
 言葉は柔らかい。
 だが、視線の奥にあるものは、明確だった。

「このたびのご婚姻、誠におめでとうございます」

「ありがとうございます」

 ベルトーネは、淡々と返す。

「王国としても、友好関係の継続を――」

「その件でしたら」

 彼女は、相手の言葉を遮らず、しかし流れを変えた。

「窓口は、公爵殿下です。
 私は、補佐の立場に過ぎません」

 使者の表情が、わずかに硬くなる。

「……しかし、公爵夫人として」

「名で、お呼びください」

 静かな声だった。

 だが、空気が変わる。

「私は、ベルトーネ・ランナバウトです」

 一拍。

「王国にとって都合のいい“元婚約者”ではありません」

 使者は、言葉を失った。

 それは、拒絶ではない。
 線引きだった。

「こちらからも、友好は望んでいます」

 ベルトーネは、最後にそう付け加える。

「ですが、立場を利用した交渉には、応じません」

 使者は、深く頭を下げた。

「……承知しました」

 それ以上、踏み込むことはなかった。


---

 面会がすべて終わり、執務室に静けさが戻る。

「……少し、強く出たかしら」

 独り言のように呟くと、背後から声がした。

「適切だ」

 アルベリク・フォン・グラーフ公爵だった。

「王国は、まだ君を“使える存在”として見ている」

「ええ」

 ベルトーネは、振り返らずに答える。

「だからこそ、名で呼ばせました」

 公爵は、しばらく黙っていたが、やがて言う。

「君は、もう“付属物”ではない」

「……分かっています」

 そう答えながら、胸の奥が、じんわりと熱くなる。

 それは、認められたからではない。
 自分で、線を引けたからだ。


---

 夕刻。

 書類を整理し終えたベルトーネは、庭に出た。

 風が、柔らかく木々を揺らす。
 騒がしかった一日が、嘘のように静かだ。

(……名で呼ばれる、ということ)

 それは、守られることでも、持ち上げられることでもない。

 責任を、直接引き受けること。

 逃げ道が減る代わりに、
 言葉が、判断が、そのまま自分に返ってくる。

 でも――

(……悪くない)

 むしろ、ようやく地に足がついた気がしていた。

「疲れたか」

 隣に並んだ公爵が、低く尋ねる。

「少しだけ」

 正直に答える。

「ですが、後悔はありません」

「それならいい」

 短い言葉。

 それ以上の労いも、評価もない。
 だが、それが、何よりも対等だった。

 夕日が沈み、空が色を変えていく。

 ベルトーネ・ランナバウトは、胸の内で静かに確認する。

 もう、誰かの肩書きで呼ばれる必要はない。
 選んだ名前で、選んだ場所に立っている。

 その重みを、
 今日、確かに受け取ったのだった。
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