『婚約破棄された令嬢は、名もなき秤を置いて去る』

ふわふわ

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第18話 過去が、追いついてくる

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第18話 過去が、追いついてくる

 それは、昼下がりの静けさを破るように届いた。

「……ベルトーネ様。
 王国より、個人的な書簡が」

 侍従の声は、いつもより低かった。

 “個人的”――
 その言葉だけで、誰からのものか、察しがつく。

(……来たわね)

 ベルトーネ・ランナバウトは、書類から視線を上げ、深く息を吸った。
 逃げる気はない。
 だが、向き合う覚悟は必要だった。

「お預かりします」

 差し出された封書には、見覚えのある王家の紋章。
 しかし、正式文書ではない。
 あくまで――私信だ。

 それが、何よりも雄弁だった。


---

 書斎に戻り、ベルトーネは封を切る。

 数行読んだだけで、指先がわずかに強ばった。

 ――突然の婚姻に、驚いている。
 ――本意ではなかったのではないか。
 ――一度、話がしたい。
 ――誤解があれば、解きたい。

 署名は、アーヴェル王太子。

(……誤解、ですって)

 思わず、乾いた笑みが漏れる。

 婚約破棄を一方的に告げ、
 彼女の意見も聞かず、
 都合が悪くなった途端、呼び戻そうとした。

 それを――
 “誤解”の一言で、片づけようとする。

 だが、怒りは湧かなかった。

 代わりに、ひどく冷静な感情が胸に広がる。

(……遅すぎる)

 彼が求めているのは、和解ではない。
 失敗の修正だ。

 自分が間違えたことを、
 彼女に認めさせることで、帳消しにしたいだけ。

 それが、はっきりと見えた。


---

「……どうする?」

 いつの間にか、アルベリク・フォン・グラーフ公爵が、書斎の扉口に立っていた。

 無言で書簡を差し出すと、公爵は一読し、短く息を吐く。

「予想通りだな」

「ええ」

 ベルトーネは、机に視線を落としたまま答える。

「会うべきでしょうか」

 公爵は、即答しなかった。

 だが、その沈黙は、判断を委ねるためのものだ。

「……会います」

 ベルトーネは、はっきりと言った。

 自分でも、驚くほど迷いがなかった。

「ただし、条件があります」

「聞こう」

「場所は、ここです」

 顔を上げ、公爵を見る。

「公爵領内、公の場。
 二人きりでは会いません」

 それは、恐れではない。
 線引きだった。

「それでいい」

 公爵は、短く頷く。

「立ち会いは?」

「不要です」

 少し考え、そう答える。

「私自身で、終わらせたい」

 公爵は、しばらく彼女を見つめ、それから静かに言った。

「分かった」

 その一言には、信頼が含まれていた。


---

 数日後。

 応接の間は、あくまで簡素に整えられた。
 威圧も、歓迎もない。

 やがて、扉が開く。

「……久しぶりだな、ベルトーネ」

 アーヴェル王太子は、以前と変わらぬ装いで立っていた。
 だが、どこか落ち着きがない。

「お久しぶりです、殿下」

 ベルトーネは、形式的に一礼する。

 それ以上でも、それ以下でもない。

「婚姻の件、驚いた」

「そうでしょうね」

 彼女は、静かに答えた。

「ですが、正式な手続きを経ています」

「君は……本当に、ここに残るつもりなのか」

 その問いに、迷いはなかった。

「はい」

 短い答え。

「なぜだ」

 思わず、声が強くなる。

「君は、本来、王国に必要な存在だ。
 私の隣に――」

「必要になったのは、今ですか」

 ベルトーネは、言葉を被せた。

 声を荒げることはない。
 だが、逃がさない。

「私が追い出される前ではなく?」

 王太子は、言葉を失った。

「私は、何度も意見しました。
 何度も、提案しました」

 一歩も引かず、続ける。

「そのたびに、聞き流したのは、あなたです」

 沈黙。

「今さら“誤解”と言われても、
 修正できる関係ではありません」

 王太子の表情が、歪む。

「……それでも」

「それでも、何ですか」

 静かな問い。

「私が戻れば、
 あなたの判断は正しかったことになりますか」

 答えは、返ってこなかった。

 それが、すべてだった。


---

 しばらくして、王太子は立ち上がった。

「……分かった」

 声は、どこか擦れている。

「これ以上、無理強いはしない」

「ありがとうございます」

 それは、礼ではなく、区切りだった。

 扉が閉まる。

 部屋に残ったのは、静けさだけ。


---

 庭に出ると、風が強く吹いていた。

 胸の奥に、わずかな疲労感が残っている。
 だが、後悔はない。

(……過去は、確かに追いついてきた)

 だが、それは――
 今の自分を引き戻すためではなく、
 切り離すために現れたのだ。

「終わったか」

 公爵の声がする。

「はい」

 ベルトーネは、頷いた。

「ようやく」

 公爵は、それ以上、何も言わなかった。
 だが、その沈黙は、十分だった。

 過去は、背後に置いていけばいい。

 ベルトーネ・ランナバウトは、前を向く。

 追いついてきた過去は、
 もう、彼女の足を止める力を持っていなかった。
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