『婚約破棄された令嬢は、名もなき秤を置いて去る』

ふわふわ

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第19話 切り離された名前

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第19話 切り離された名前

 王太子が去った翌朝、公爵邸は不思議なほど静かだった。

 前日の出来事が、嵐のように空気を掻き乱すこともなく、
 まるで最初から何もなかったかのように、淡々と朝が始まる。

 それが、何よりも象徴的だった。

(……もう、終わったのね)

 ベルトーネ・ランナバウトは、書斎の窓を開け、冷たい空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
 胸の奥に残っていた、わずかな緊張が、ようやく溶けていく。

 昨夜は、ほとんど眠れなかった。
 だがそれは、後悔や動揺のせいではない。

 整理していたのだ。

 自分の中に残っていた、
 「王太子の婚約者だった頃の自分」を。


---

 午前の執務は、いつも通り始まった。

 港湾の数値報告。
 北部鉱山の進捗。
 移行期間を設けた料金制度の反応。

 どれも、確実に前に進んでいる。

「……商人たちの反発は、ほぼ収まりました」

 側近の報告に、ベルトーネは頷いた。

「説明が届けば、感情は落ち着きます」

「王国からの影響は?」

「今のところ、ありません」

 それを聞いて、ほんのわずかに口元が緩む。

(……当然ね)

 昨日、あれだけ明確に線を引いたのだ。
 今さら、強く出れば、王国側の非が際立つだけだ。

 彼らは、慎重になる。

 それが分かっているからこそ、
 ベルトーネは、もう恐れていなかった。


---

 昼過ぎ。

 公爵邸に、ひとつの噂が届く。

「……王国で、殿下が荒れているそうです」

 耳打ちするような報告だった。

「側近を叱責し、
 “なぜ止めなかった”と怒鳴っていたとか」

 ベルトーネは、一瞬だけ目を伏せた。

(……止められるはず、なかったでしょう)

 あの人は、
 誰かに止められるような決断は、最初からしない。

 自分の選択が正しいと信じて、
 間違いだったと気づいたときは、
 誰かのせいにする。

 それが、彼のやり方だった。

「同情は、しません」

 ぽつりと、そう言う。

「同情すると、また“選ばれる側”に戻ってしまう」

 側近は、深く頷いた。

「……よく分かります」


---

 午後。

 アルベリク・フォン・グラーフ公爵との定例の確認が行われた。

「昨日の件で、動揺は?」

「ありません」

 即答だった。

「むしろ、はっきりしました」

「何が」

「私の中で、
 “王国の人間としての名前”が、完全に切り離されたことが」

 公爵は、静かに彼女を見る。

「……名は、重い」

「ええ」

 ベルトーネは、頷く。

「だからこそ、
 自分で持つ名を、選びたかった」

 王国では、
 彼女は常に「王太子の婚約者」だった。

 ベルトーネ・ランナバウトという名は、
 飾りのように扱われ、
 意味を持たなかった。

 だが今は違う。

「私は、もう
 誰かの立場を補強するための名前ではありません」

 公爵は、短く言った。

「それでいい」

 それ以上の言葉は、必要なかった。


---

 夕刻。

 ベルトーネは、一人で古い書類棚の整理をしていた。

 そこには、彼女が公爵領に来てから関わった案件の記録が、丁寧に保管されている。

 港湾改革。
 鉱山の工程見直し。
 周辺領との協定。

 一つひとつ、彼女の判断が刻まれている。

(……これが、私の“名前”)

 婚約者としての名ではない。
 夫人としての名でもない。

 判断した者としての名。

 それが、紙の上に残っている。

 書類を閉じ、深く息を吐く。

 胸の奥に、奇妙なほどの静けさがあった。


---

 夜。

 庭に出ると、空は澄み渡り、星がくっきりと浮かんでいた。

「……少し、顔色がいいな」

 背後から、公爵の声がする。

「ええ」

 ベルトーネは、正直に答えた。

「昨日までは、
 まだ過去が追いすがってくる気がしていました」

「今は?」

「今は、置いてきたと、はっきり分かります」

 公爵は、しばらく夜空を見上げ、それから言う。

「名を切り離すのは、勇気がいる」

「でも、必要でした」

 ベルトーネは、静かに微笑んだ。

「切り離さなければ、
 新しい名で、生きられませんから」

 風が、二人の間を通り抜ける。

 過去を運ぶ風ではない。
 前へ進むための、軽い風だ。

 ベルトーネ・ランナバウトは、胸の内で確かめる。

 もう、呼び戻されることはない。
 もう、振り返る必要もない。

 切り離された名前は、
 彼女を弱くするものではなく、
 彼女を自由にするものだった。

 夜は静かに更けていく。

 次に来るのは、
 過去ではない。

 未来だ。
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