19 / 40
第19話 切り離された名前
しおりを挟む
第19話 切り離された名前
王太子が去った翌朝、公爵邸は不思議なほど静かだった。
前日の出来事が、嵐のように空気を掻き乱すこともなく、
まるで最初から何もなかったかのように、淡々と朝が始まる。
それが、何よりも象徴的だった。
(……もう、終わったのね)
ベルトーネ・ランナバウトは、書斎の窓を開け、冷たい空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
胸の奥に残っていた、わずかな緊張が、ようやく溶けていく。
昨夜は、ほとんど眠れなかった。
だがそれは、後悔や動揺のせいではない。
整理していたのだ。
自分の中に残っていた、
「王太子の婚約者だった頃の自分」を。
---
午前の執務は、いつも通り始まった。
港湾の数値報告。
北部鉱山の進捗。
移行期間を設けた料金制度の反応。
どれも、確実に前に進んでいる。
「……商人たちの反発は、ほぼ収まりました」
側近の報告に、ベルトーネは頷いた。
「説明が届けば、感情は落ち着きます」
「王国からの影響は?」
「今のところ、ありません」
それを聞いて、ほんのわずかに口元が緩む。
(……当然ね)
昨日、あれだけ明確に線を引いたのだ。
今さら、強く出れば、王国側の非が際立つだけだ。
彼らは、慎重になる。
それが分かっているからこそ、
ベルトーネは、もう恐れていなかった。
---
昼過ぎ。
公爵邸に、ひとつの噂が届く。
「……王国で、殿下が荒れているそうです」
耳打ちするような報告だった。
「側近を叱責し、
“なぜ止めなかった”と怒鳴っていたとか」
ベルトーネは、一瞬だけ目を伏せた。
(……止められるはず、なかったでしょう)
あの人は、
誰かに止められるような決断は、最初からしない。
自分の選択が正しいと信じて、
間違いだったと気づいたときは、
誰かのせいにする。
それが、彼のやり方だった。
「同情は、しません」
ぽつりと、そう言う。
「同情すると、また“選ばれる側”に戻ってしまう」
側近は、深く頷いた。
「……よく分かります」
---
午後。
アルベリク・フォン・グラーフ公爵との定例の確認が行われた。
「昨日の件で、動揺は?」
「ありません」
即答だった。
「むしろ、はっきりしました」
「何が」
「私の中で、
“王国の人間としての名前”が、完全に切り離されたことが」
公爵は、静かに彼女を見る。
「……名は、重い」
「ええ」
ベルトーネは、頷く。
「だからこそ、
自分で持つ名を、選びたかった」
王国では、
彼女は常に「王太子の婚約者」だった。
ベルトーネ・ランナバウトという名は、
飾りのように扱われ、
意味を持たなかった。
だが今は違う。
「私は、もう
誰かの立場を補強するための名前ではありません」
公爵は、短く言った。
「それでいい」
それ以上の言葉は、必要なかった。
---
夕刻。
ベルトーネは、一人で古い書類棚の整理をしていた。
そこには、彼女が公爵領に来てから関わった案件の記録が、丁寧に保管されている。
港湾改革。
鉱山の工程見直し。
周辺領との協定。
一つひとつ、彼女の判断が刻まれている。
(……これが、私の“名前”)
婚約者としての名ではない。
夫人としての名でもない。
判断した者としての名。
それが、紙の上に残っている。
書類を閉じ、深く息を吐く。
胸の奥に、奇妙なほどの静けさがあった。
---
夜。
庭に出ると、空は澄み渡り、星がくっきりと浮かんでいた。
「……少し、顔色がいいな」
背後から、公爵の声がする。
「ええ」
ベルトーネは、正直に答えた。
「昨日までは、
まだ過去が追いすがってくる気がしていました」
「今は?」
「今は、置いてきたと、はっきり分かります」
公爵は、しばらく夜空を見上げ、それから言う。
「名を切り離すのは、勇気がいる」
「でも、必要でした」
ベルトーネは、静かに微笑んだ。
「切り離さなければ、
新しい名で、生きられませんから」
風が、二人の間を通り抜ける。
過去を運ぶ風ではない。
前へ進むための、軽い風だ。
ベルトーネ・ランナバウトは、胸の内で確かめる。
もう、呼び戻されることはない。
もう、振り返る必要もない。
切り離された名前は、
彼女を弱くするものではなく、
彼女を自由にするものだった。
夜は静かに更けていく。
次に来るのは、
過去ではない。
未来だ。
王太子が去った翌朝、公爵邸は不思議なほど静かだった。
前日の出来事が、嵐のように空気を掻き乱すこともなく、
まるで最初から何もなかったかのように、淡々と朝が始まる。
それが、何よりも象徴的だった。
(……もう、終わったのね)
ベルトーネ・ランナバウトは、書斎の窓を開け、冷たい空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
胸の奥に残っていた、わずかな緊張が、ようやく溶けていく。
昨夜は、ほとんど眠れなかった。
だがそれは、後悔や動揺のせいではない。
整理していたのだ。
自分の中に残っていた、
「王太子の婚約者だった頃の自分」を。
---
午前の執務は、いつも通り始まった。
港湾の数値報告。
北部鉱山の進捗。
移行期間を設けた料金制度の反応。
どれも、確実に前に進んでいる。
「……商人たちの反発は、ほぼ収まりました」
側近の報告に、ベルトーネは頷いた。
「説明が届けば、感情は落ち着きます」
「王国からの影響は?」
「今のところ、ありません」
それを聞いて、ほんのわずかに口元が緩む。
(……当然ね)
昨日、あれだけ明確に線を引いたのだ。
今さら、強く出れば、王国側の非が際立つだけだ。
彼らは、慎重になる。
それが分かっているからこそ、
ベルトーネは、もう恐れていなかった。
---
昼過ぎ。
公爵邸に、ひとつの噂が届く。
「……王国で、殿下が荒れているそうです」
耳打ちするような報告だった。
「側近を叱責し、
“なぜ止めなかった”と怒鳴っていたとか」
ベルトーネは、一瞬だけ目を伏せた。
(……止められるはず、なかったでしょう)
あの人は、
誰かに止められるような決断は、最初からしない。
自分の選択が正しいと信じて、
間違いだったと気づいたときは、
誰かのせいにする。
それが、彼のやり方だった。
「同情は、しません」
ぽつりと、そう言う。
「同情すると、また“選ばれる側”に戻ってしまう」
側近は、深く頷いた。
「……よく分かります」
---
午後。
アルベリク・フォン・グラーフ公爵との定例の確認が行われた。
「昨日の件で、動揺は?」
「ありません」
即答だった。
「むしろ、はっきりしました」
「何が」
「私の中で、
“王国の人間としての名前”が、完全に切り離されたことが」
公爵は、静かに彼女を見る。
「……名は、重い」
「ええ」
ベルトーネは、頷く。
「だからこそ、
自分で持つ名を、選びたかった」
王国では、
彼女は常に「王太子の婚約者」だった。
ベルトーネ・ランナバウトという名は、
飾りのように扱われ、
意味を持たなかった。
だが今は違う。
「私は、もう
誰かの立場を補強するための名前ではありません」
公爵は、短く言った。
「それでいい」
それ以上の言葉は、必要なかった。
---
夕刻。
ベルトーネは、一人で古い書類棚の整理をしていた。
そこには、彼女が公爵領に来てから関わった案件の記録が、丁寧に保管されている。
港湾改革。
鉱山の工程見直し。
周辺領との協定。
一つひとつ、彼女の判断が刻まれている。
(……これが、私の“名前”)
婚約者としての名ではない。
夫人としての名でもない。
判断した者としての名。
それが、紙の上に残っている。
書類を閉じ、深く息を吐く。
胸の奥に、奇妙なほどの静けさがあった。
---
夜。
庭に出ると、空は澄み渡り、星がくっきりと浮かんでいた。
「……少し、顔色がいいな」
背後から、公爵の声がする。
「ええ」
ベルトーネは、正直に答えた。
「昨日までは、
まだ過去が追いすがってくる気がしていました」
「今は?」
「今は、置いてきたと、はっきり分かります」
公爵は、しばらく夜空を見上げ、それから言う。
「名を切り離すのは、勇気がいる」
「でも、必要でした」
ベルトーネは、静かに微笑んだ。
「切り離さなければ、
新しい名で、生きられませんから」
風が、二人の間を通り抜ける。
過去を運ぶ風ではない。
前へ進むための、軽い風だ。
ベルトーネ・ランナバウトは、胸の内で確かめる。
もう、呼び戻されることはない。
もう、振り返る必要もない。
切り離された名前は、
彼女を弱くするものではなく、
彼女を自由にするものだった。
夜は静かに更けていく。
次に来るのは、
過去ではない。
未来だ。
2
あなたにおすすめの小説
義母と義妹に虐げられていましたが、陰からじっくり復讐させていただきます〜おしとやか令嬢の裏の顔〜
阿里
ファンタジー
貴族の令嬢リディアは、父の再婚によりやってきた継母と義妹から、日々いじめと侮蔑を受けていた。
「あら、またそのみすぼらしいドレス? まるで使用人ね」
本当の母は早くに亡くなり、父も病死。残されたのは、冷たい屋敷と陰湿な支配。
けれど、リディアは泣き寝入りする女じゃなかった――。
おしとやかで無力な令嬢を演じながら、彼女はじわじわと仕返しを始める。
貴族社会の裏の裏。人の噂。人間関係。
「ふふ、気づいた時には遅いのよ」
優しげな仮面の下に、冷たい微笑みを宿すリディアの復讐劇が今、始まる。
ざまぁ×恋愛×ファンタジーの三拍子で贈る、スカッと復讐劇!
勧善懲悪が好きな方、読後感すっきりしたい方にオススメです!
「証拠なら全て記録してあります」——記録魔法しか取り柄がないと捨てられた令嬢、婚約破棄の場で三年分の不正を読み上げる
歩人
ファンタジー
伯爵令嬢アネットの唯一の魔法は『記録《レコード》』——見たもの聞いたものを
一字一句記憶する地味な能力。婚約者の侯爵子息ヴィクトルは「戦えない魔法など
無価値だ」と婚約破棄を宣言する。だがアネットは微笑んだ。「承知いたしました。
では最後に一つだけ——」。彼女が読み上げ始めたのは、ヴィクトルが三年間で横領した
軍事費の明細。日付、金額、共犯者の名前、密会の会話。全て『記録』済み。
満座の貴族が凍りつく中、王宮監察官が静かに立ち上がった。
「……続けてください、アネット嬢」。
婚約破棄の舞台は、そのまま公開裁判になった。
とある令嬢の優雅な別れ方 〜婚約破棄されたので、笑顔で地獄へお送りいたします〜
入多麗夜
恋愛
【完結まで執筆済!】
社交界を賑わせた婚約披露の茶会。
令嬢セリーヌ・リュミエールは、婚約者から突きつけられる。
「真実の愛を見つけたんだ」
それは、信じた誠実も、築いてきた未来も踏みにじる裏切りだった。だが、彼女は微笑んだ。
愛よりも冷たく、そして美しく。
笑顔で地獄へお送りいたします――
『外見しか見なかったあなたへ。私はもう、選ぶ側です』
鷹 綾
恋愛
「お前のようなガキは嫌いだ」
幼く見える容姿を理由に、婚約者ライオネルから一方的に婚約を破棄された
公爵令嬢シルフィーネ・エルフィンベルク。
その夜、嫉妬に狂った伯爵令嬢に突き落とされ、
彼女は一年もの間、意識不明の重体に陥る――。
目を覚ました彼女は、大人びた美貌を手に入れていた。
だが、中身は何ひとつ変わっていない。
にもかかわらず、
かつて彼女を「幼すぎる」と切り捨てた元婚約者は態度を一変させ、
「やり直したい」とすり寄ってくる。
「見かけが変わっても、中身は同じです。
それでもあなたは、私の外見しか見ていなかったのですね?」
静かにそう告げ、シルフィーネは過去を見限る。
やがて彼女に興味を示したのは、
隣国ノルディアの王太子エドワルド。
彼が見ていたのは、美貌ではなく――
対話し、考え、異論を述べる彼女の“在り方”だった。
これは、
外見で価値を決められた令嬢が、
「選ばれる人生」をやめ、
自分の意思で未来を選び直す物語。
静かなざまぁと、
対等な関係から始まる大人の恋。
そして――
自分の人生を、自分の言葉で生きるための物語。
---
夫に捨てられた私は冷酷公爵と再婚しました
香木陽灯
恋愛
伯爵夫人のマリアーヌは「夜を共に過ごす気にならない」と突然夫に告げられ、わずか五ヶ月で離縁することとなる。
これまで女癖の悪い夫に何度も不倫されても、役立たずと貶されても、文句ひとつ言わず彼を支えてきた。だがその苦労は報われることはなかった。
実家に帰っても父から不当な扱いを受けるマリアーヌ。気分転換に繰り出した街で倒れていた貴族の男性と出会い、彼を助ける。
「離縁したばかり? それは相手の見る目がなかっただけだ。良かったじゃないか。君はもう自由だ」
「自由……」
もう自由なのだとマリアーヌが気づいた矢先、両親と元夫の策略によって再婚を強いられる。相手は婚約者が逃げ出すことで有名な冷酷公爵だった。
ところが冷酷公爵と会ってみると、以前助けた男性だったのだ。
再婚を受け入れたマリアーヌは、公爵と少しずつ仲良くなっていく。
ところが公爵は王命を受け内密に仕事をしているようで……。
一方の元夫は、財政難に陥っていた。
「頼む、助けてくれ! お前は俺に恩があるだろう?」
元夫の悲痛な叫びに、マリアーヌはにっこりと微笑んだ。
「なぜかしら? 貴方を助ける気になりませんの」
※ふんわり設定です
辺境は独自路線で進みます! ~見下され搾取され続けるのは御免なので~
紫月 由良
恋愛
辺境に領地を持つマリエ・オリオール伯爵令嬢は、貴族学院の食堂で婚約者であるジョルジュ・ミラボーから婚約破棄をつきつけられた。二人の仲は険悪で修復不可能だったこともあり、マリエは快諾すると学院を早退して婚約者の家に向かい、その日のうちに婚約が破棄された。辺境=田舎者という風潮によって居心地が悪くなっていたため、これを機に学院を退学して領地に引き籠ることにした。
魔法契約によりオリオール伯爵家やフォートレル辺境伯家は国から離反できないが、関わり合いを最低限にして独自路線を歩むことに――。
※小説家になろう、カクヨムにも投稿しています
婚約破棄の翌日に謝罪されるも、再び婚約する気はありません
黒木 楓
恋愛
子爵令嬢パトリシアは、カルスに婚約破棄を言い渡されていた。
激務だった私は婚約破棄になったことに内心喜びながら、家に帰っていた。
婚約破棄はカルスとカルスの家族だけで決めたらしく、他の人は何も知らない。
婚約破棄したことを報告すると大騒ぎになり、私の協力によって領地が繁栄していたことをカルスは知る。
翌日――カルスは謝罪して再び婚約して欲しいと頼み込んでくるけど、婚約する気はありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる