『婚約破棄された令嬢は、名もなき秤を置いて去る』

ふわふわ

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第20話 揺るがない現在

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第20話 揺るがない現在

 その朝、公爵領は穏やかな天候に恵まれていた。

 空は高く、雲は薄く流れ、遠くの山並みまでくっきりと見える。
 数日前まで胸に残っていた緊張が嘘のように、空気は澄んでいた。

 ベルトーネ・ランナバウトは、執務室の机に向かいながら、静かに思う。

(……追いついてきた過去は、もう通り過ぎた)

 王太子との面会。
 その後に届いた噂。
 そして、完全に切り離された名前。

 どれもが、今の自分を否定するためのものではなかった。
 むしろ、現在地をはっきりさせるための、最後の確認だったのだと、ようやく理解できる。


---

 午前の会議は、重要な議題から始まった。

 公爵領西部で進めていた新たな物流拠点の稼働報告だ。
 港湾改革と連動した計画で、失敗すれば領内経済に大きな影響が出る。

「試験稼働の結果は、良好です」

 報告役の文官が、少し誇らしげに言う。

「輸送時間は平均で二割短縮。
 人員負担も軽減されています」

 ざわりと、安堵の空気が広がる。

 ベルトーネは、資料を確認しながら頷いた。

「現場の反応は?」

「当初は戸惑いもありましたが……
 今は“楽になった”という声が多いです」

「それなら、問題ありません」

 彼女は、はっきりと告げた。

「制度は、数字のためではなく、人のためにあります」

 その言葉に、会議室の空気が引き締まる。

 理想論ではない。
 現場を見てきた者の、実感のこもった言葉だった。

 アルベリク・フォン・グラーフ公爵は、静かに頷く。

「正式稼働に移行しよう」

 短い決定。

 それは、この数か月の積み重ねが、確かな形になった瞬間だった。


---

 会議後。

 側近の一人が、ふと感慨深そうに言った。

「……最初にこの案が出たとき、
 正直、ここまでうまくいくとは思っていませんでした」

「そうですか?」

 ベルトーネは、少しだけ微笑む。

「私も、完璧だとは思っていません」

「ですが、結果が出ています」

「ええ」

 頷きながら、続ける。

「だから、次を考えられる」

 失敗しても立て直せる。
 成功すれば、さらに先へ進める。

 その循環が、今は自然に回っている。

(……これが、揺るがない現在)

 過去に縛られず、
 未来に怯えず、
 今ここで、判断を重ねていく状態。


---

 昼過ぎ。

 公爵と二人、簡単な昼食を取りながら、報告の確認を行う。

「王国の動きは?」

「静かです」

 公爵は、淡々と答えた。

「こちらが動じなければ、向こうも手出ししにくい」

「……当然ですね」

 ベルトーネは、静かに言う。

「私が揺れれば、また利用される。
 でも、今は揺れていません」

 それは、強がりではなかった。

 事実として、心が落ち着いている。

「それでいい」

 公爵は、短く言った。

「君が立っている場所が、
 今の“答え”だ」

 その言葉に、胸の奥が静かに満たされる。


---

 午後。

 ベルトーネは、執務の合間に、久しぶりに領内の孤児院からの報告書に目を通していた。

 物資の供給状況。
 教育支援の進捗。
 職業訓練の希望者数。

(……ちゃんと、前に進んでいる)

 かつて王国で提案したときは、
 「余裕がない」「後回しだ」と却下された案件。

 だが今は、現実として動いている。

 派手さはない。
 だが、確実に、人の生活を支えている。

 ペンを置き、深く息を吐く。

(……これでいい)

 評価されなくてもいい。
 誰かの功績にならなくてもいい。

 ただ、必要なことが、必要な形で進めば、それで十分だ。


---

 夕刻。

 庭を歩きながら、ベルトーネは空を見上げた。

 沈みゆく太陽が、穏やかな光を投げかけている。

「……落ち着いた顔をしているな」

 隣に並んだ公爵が、ふとそう言う。

「そう見えますか」

「ああ」

 短い肯定。

「ようやく、地に足がついた」

 その言葉に、ベルトーネは小さく笑った。

「不思議ですね」

「何が」

「ずっと“次は何が起きるか”を考えて生きてきたのに」

 一歩、足を進めながら続ける。

「今は、“今日何をするか”だけを考えています」

 公爵は、少しだけ考え、それから言う。

「それが、一番強い状態だ」

 確かに、そうかもしれない。

 過去に引き戻されず、
 未来に怯えず、
 現在に集中できること。

 それは、簡単そうで、最も難しい。


---

 夜。

 ベルトーネ・ランナバウトは、自室の窓を開け、夜風を感じていた。

 王国で過ごした日々。
 婚約者だった自分。
 追放されるように去った過去。

 それらは、確かに存在した。
 だが、今の自分を揺るがすものではない。

(……私は、ここにいる)

 誰かの代わりでも、
 誰かの付属でもなく。

 選び、判断し、責任を負う者として。

 揺るがない現在は、
 静かで、地味で、しかし確かなものだった。

 そして、その現在こそが――
 これから先のすべてを支えていく。

 ベルトーネ・ランナバウトは、静かに目を閉じる。

 明日もまた、
 今日の続きが、ここから始まる。
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