『婚約破棄された令嬢は、名もなき秤を置いて去る』

ふわふわ

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第29話 動かなかった背中

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第29話 動かなかった背中

 返答を送った翌日、公爵邸は驚くほど静かだった。

 怒号も、抗議も、即座の反応もない。
 まるで、世界が一拍、呼吸を止めたかのように。

 ベルトーネ・ランナバウトは、その静けさを、嫌な予感としてではなく――
 結果が出る前の、空白として受け取っていた。

(……秤は、もう揺れていない)

 動くべき者は、すでに動いた。
 動かないと決めた者も、同じく。

 残るのは、
 その選択がもたらす現実だけだ。


---

 午前。

 港湾地区からの定例報告は、淡々とした内容だった。

「離脱者は、想定内に収まっています」

「新規の動きは?」

「様子見が増えました。
 ただし……」

 報告役が、少し言葉を選ぶ。

「“こちらが動かなかった”ことを、
 評価する声が出ています」

 ベルトーネは、顔を上げた。

「評価、ですか」

「はい。
 条件を吊り上げるでもなく、
 妥協するでもなく」

「“背中を動かさなかった”ことが、
 信頼につながっているようです」

 彼女は、静かに息を吐いた。

(……伝わったのね)

 動かない、という選択は、
 何もしないことではない。

 重さに耐えることだ。


---

 昼前。

 公爵邸に、ひとりの訪問者があった。

 派手さのない装い。
 だが、足取りは迷いがない。

「……お時間をいただけますか」

 周辺領で小規模ながら、
 堅実な商いを続けてきた女商人だった。

「もちろん」

 応接室で向かい合うと、
 彼女は、深く頭を下げる。

「今回の共同運用の話、
 断られたと聞きました」

「ええ」

「……正直に言って、
 ほっとしました」

 意外な言葉だった。

「理由を、伺っても?」

 女商人は、少しだけ笑う。

「もし、あそこで受けていたら、
 ここは“動けば得をする場所”になっていた」

 一拍。

「私は、
 “動かなくても、
 足場が崩れない場所”で
 商いをしたかったのです」

 ベルトーネは、ゆっくりと頷いた。

「だから、来ました」

「来た、というのは?」

「正式に、
 こちらの条件で契約したい」

 迷いのない声だった。


---

 午後。

 契約書に目を通しながら、
 ベルトーネは思う。

 この商人は、
 規模も、影響力も、大きくない。

 だが――

 動かなかった背中に、
 歩み寄ってきた。

 それは、
 派手な成果よりも、
 確かな証だった。


---

 夕刻。

 アルベリク・フォン・グラーフ公爵と、
 簡単な確認を行う。

「反応は?」

「静かです」

 ベルトーネは、そう答えた。

「騒ぐ者は、
 すでに別の場所へ行きました」

「残った者は?」

「こちらを見ています」

 公爵は、短く笑った。

「動かなかったことが、
 ここまで効くとはな」

「ええ」

 彼女は、窓の外を見る。

「背中を向けなかった。
 それだけです」

 公爵は、しばらく考え、
 低く言った。

「……強いな」

「いいえ」

 ベルトーネは、首を振る。

「重いだけです」

 軽く動けば、
 風向きに振り回される。

 重く立てば、
 風は、先に諦める。


---

 夜。

 港の灯りが、水面に揺れている。

 人の行き来は、
 昨日と変わらない。

 だが、
 空気が違う。

 焦りがない。
 探りもない。

 それは、
 “ここは、
 簡単には動かない”
 という認識が、
 共有された証だった。

(……動かなかった背中は、
 言葉よりも雄弁ね)

 ベルトーネ・ランナバウトは、
 静かに窓を閉める。

 選択は、
 いつも拍手を伴うわけではない。

 だが――

 動かなかったという事実は、
 確実に、誰かの足を止め、
 誰かの足をこちらへ向ける。

 それでいい。

 背中は、
 今日も、動いていない。

 そして、その背中が――
 ここを、
 揺るがせないでいた。
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