『婚約破棄された令嬢は、名もなき秤を置いて去る』

ふわふわ

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第31話 名前を呼ばれない功績

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第31話 名前を呼ばれない功績

 朝の執務室は、いつもと変わらぬ静けさに包まれていた。

 書類の紙擦れ。
 遠くで聞こえる港の汽笛。
 人が動き、荷が流れ、制度が息をしている音。

 ベルトーネ・ランナバウトは、机上に積まれた報告書に目を通しながら、ふと手を止めた。

(……最近、私の名前が出てこない)

 それは、不満ではなかった。
 むしろ――

 正しく進んでいる証だった。


---

 午前の定例会議。

 議題は、港湾と物流拠点の統合運用について。
 以前なら、必ず彼女の判断を仰ぐ場面だ。

「この件は、
 現行基準に沿えば、
 こちらの手順で問題ありません」

 現場責任者が、迷いなく言う。

「例外は?」

「設けません」

 別の担当者が、即答する。

「接続点は、
 前回定義した境界に従います」

 議論は、短かった。
 感情も、駆け引きもない。

 ベルトーネは、ただ一度、頷いただけだった。

 会議は、それで終わった。


---

 会議後。

 側近が、小さく声を落として言う。

「……夫人様の判断を、
 求められませんでしたね」

「ええ」

 ベルトーネは、穏やかに答える。

「必要ありませんから」

 側近は、少し戸惑ったような顔をする。

「それは……」

「私が決めなくても、
 同じ答えに辿り着ける」

 それが、最も重要だった。


---

 昼過ぎ。

 公爵邸に、王都からの正式文書が届いた。

 内容は、港湾運用の成果に対する評価。
 王国全体の指標として、
 参考事例に挙げたい、というものだった。

 だが――

「……名前が、ありませんね」

 側近が、書面を確認しながら言う。

「ええ」

 ベルトーネは、視線を落としたまま答えた。

 そこにあるのは、
 “グラーフ公爵領の方式”。
 “港湾地区の新運用”。

 個人名は、どこにもない。

「不満は?」

 側近が、恐る恐る尋ねる。

 ベルトーネは、少し考えてから首を振った。

「いいえ」

 静かな声だった。

「名前が必要な段階は、
 もう過ぎています」


---

 午後。

 港湾地区を歩いていると、
 若い監督官が、作業員に指示を出しているのが見えた。

「その順番は、
 基準の三項目です」

「はい」

 作業員は、即座に理解し、動く。

 そこに、
 “ベルトーネがそう言ったから”
 という理由はない。

 あるのは、
 基準が、当たり前になっている現実だけだ。

(……これでいい)

 胸の奥に、静かな納得が広がる。


---

 夕刻。

 アルベリク・フォン・グラーフ公爵と、
 簡単な報告の時間を持つ。

「王都の文書、
 見たか」

「はい」

「名前がなかったな」

「ええ」

 公爵は、少しだけ彼女を見つめ、言った。

「悔しくはないか」

 ベルトーネは、首を振る。

「もし、
 私の名前が必要なら――」

 一拍。

「この仕組みは、
 まだ弱いということです」

 公爵は、低く息を吐いた。

「……なるほど」

「名前が消えても、
 仕組みが残る」

 それが、
 彼女の目指していた到達点だった。


---

 夜。

 書斎で一人、
 これまでの記録を見返す。

 そこには、
 彼女の署名が入った決裁書が、
 確かに並んでいる。

 だが、
 これから先、
 それらは参照されるだけで、
 意識されることは減っていくだろう。

(……名前を呼ばれない功績)

 称賛も、拍手もない。
 だが、
 日常が、滞りなく続く。

 それ以上の成果は、
 ない。

 ベルトーネ・ランナバウトは、
 静かに灯りを落とす。

 明日もまた、
 彼女の名前は、
 呼ばれないかもしれない。

 それでいい。

 名前が呼ばれなくても、
 世界が回っているなら。

 その功績は、
 確かに、
 ここに残っている。
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