『婚約破棄された令嬢は、名もなき秤を置いて去る』

ふわふわ

文字の大きさ
31 / 40

第31話 名前を呼ばれない功績

しおりを挟む
第31話 名前を呼ばれない功績

 朝の執務室は、いつもと変わらぬ静けさに包まれていた。

 書類の紙擦れ。
 遠くで聞こえる港の汽笛。
 人が動き、荷が流れ、制度が息をしている音。

 ベルトーネ・ランナバウトは、机上に積まれた報告書に目を通しながら、ふと手を止めた。

(……最近、私の名前が出てこない)

 それは、不満ではなかった。
 むしろ――

 正しく進んでいる証だった。


---

 午前の定例会議。

 議題は、港湾と物流拠点の統合運用について。
 以前なら、必ず彼女の判断を仰ぐ場面だ。

「この件は、
 現行基準に沿えば、
 こちらの手順で問題ありません」

 現場責任者が、迷いなく言う。

「例外は?」

「設けません」

 別の担当者が、即答する。

「接続点は、
 前回定義した境界に従います」

 議論は、短かった。
 感情も、駆け引きもない。

 ベルトーネは、ただ一度、頷いただけだった。

 会議は、それで終わった。


---

 会議後。

 側近が、小さく声を落として言う。

「……夫人様の判断を、
 求められませんでしたね」

「ええ」

 ベルトーネは、穏やかに答える。

「必要ありませんから」

 側近は、少し戸惑ったような顔をする。

「それは……」

「私が決めなくても、
 同じ答えに辿り着ける」

 それが、最も重要だった。


---

 昼過ぎ。

 公爵邸に、王都からの正式文書が届いた。

 内容は、港湾運用の成果に対する評価。
 王国全体の指標として、
 参考事例に挙げたい、というものだった。

 だが――

「……名前が、ありませんね」

 側近が、書面を確認しながら言う。

「ええ」

 ベルトーネは、視線を落としたまま答えた。

 そこにあるのは、
 “グラーフ公爵領の方式”。
 “港湾地区の新運用”。

 個人名は、どこにもない。

「不満は?」

 側近が、恐る恐る尋ねる。

 ベルトーネは、少し考えてから首を振った。

「いいえ」

 静かな声だった。

「名前が必要な段階は、
 もう過ぎています」


---

 午後。

 港湾地区を歩いていると、
 若い監督官が、作業員に指示を出しているのが見えた。

「その順番は、
 基準の三項目です」

「はい」

 作業員は、即座に理解し、動く。

 そこに、
 “ベルトーネがそう言ったから”
 という理由はない。

 あるのは、
 基準が、当たり前になっている現実だけだ。

(……これでいい)

 胸の奥に、静かな納得が広がる。


---

 夕刻。

 アルベリク・フォン・グラーフ公爵と、
 簡単な報告の時間を持つ。

「王都の文書、
 見たか」

「はい」

「名前がなかったな」

「ええ」

 公爵は、少しだけ彼女を見つめ、言った。

「悔しくはないか」

 ベルトーネは、首を振る。

「もし、
 私の名前が必要なら――」

 一拍。

「この仕組みは、
 まだ弱いということです」

 公爵は、低く息を吐いた。

「……なるほど」

「名前が消えても、
 仕組みが残る」

 それが、
 彼女の目指していた到達点だった。


---

 夜。

 書斎で一人、
 これまでの記録を見返す。

 そこには、
 彼女の署名が入った決裁書が、
 確かに並んでいる。

 だが、
 これから先、
 それらは参照されるだけで、
 意識されることは減っていくだろう。

(……名前を呼ばれない功績)

 称賛も、拍手もない。
 だが、
 日常が、滞りなく続く。

 それ以上の成果は、
 ない。

 ベルトーネ・ランナバウトは、
 静かに灯りを落とす。

 明日もまた、
 彼女の名前は、
 呼ばれないかもしれない。

 それでいい。

 名前が呼ばれなくても、
 世界が回っているなら。

 その功績は、
 確かに、
 ここに残っている。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

義母と義妹に虐げられていましたが、陰からじっくり復讐させていただきます〜おしとやか令嬢の裏の顔〜

阿里
ファンタジー
貴族の令嬢リディアは、父の再婚によりやってきた継母と義妹から、日々いじめと侮蔑を受けていた。 「あら、またそのみすぼらしいドレス? まるで使用人ね」 本当の母は早くに亡くなり、父も病死。残されたのは、冷たい屋敷と陰湿な支配。 けれど、リディアは泣き寝入りする女じゃなかった――。 おしとやかで無力な令嬢を演じながら、彼女はじわじわと仕返しを始める。 貴族社会の裏の裏。人の噂。人間関係。 「ふふ、気づいた時には遅いのよ」 優しげな仮面の下に、冷たい微笑みを宿すリディアの復讐劇が今、始まる。 ざまぁ×恋愛×ファンタジーの三拍子で贈る、スカッと復讐劇! 勧善懲悪が好きな方、読後感すっきりしたい方にオススメです!

「証拠なら全て記録してあります」——記録魔法しか取り柄がないと捨てられた令嬢、婚約破棄の場で三年分の不正を読み上げる

歩人
ファンタジー
伯爵令嬢アネットの唯一の魔法は『記録《レコード》』——見たもの聞いたものを 一字一句記憶する地味な能力。婚約者の侯爵子息ヴィクトルは「戦えない魔法など 無価値だ」と婚約破棄を宣言する。だがアネットは微笑んだ。「承知いたしました。 では最後に一つだけ——」。彼女が読み上げ始めたのは、ヴィクトルが三年間で横領した 軍事費の明細。日付、金額、共犯者の名前、密会の会話。全て『記録』済み。 満座の貴族が凍りつく中、王宮監察官が静かに立ち上がった。 「……続けてください、アネット嬢」。 婚約破棄の舞台は、そのまま公開裁判になった。

とある令嬢の優雅な別れ方 〜婚約破棄されたので、笑顔で地獄へお送りいたします〜

入多麗夜
恋愛
【完結まで執筆済!】 社交界を賑わせた婚約披露の茶会。 令嬢セリーヌ・リュミエールは、婚約者から突きつけられる。 「真実の愛を見つけたんだ」 それは、信じた誠実も、築いてきた未来も踏みにじる裏切りだった。だが、彼女は微笑んだ。 愛よりも冷たく、そして美しく。 笑顔で地獄へお送りいたします――

『外見しか見なかったあなたへ。私はもう、選ぶ側です』

鷹 綾
恋愛
「お前のようなガキは嫌いだ」 幼く見える容姿を理由に、婚約者ライオネルから一方的に婚約を破棄された 公爵令嬢シルフィーネ・エルフィンベルク。 その夜、嫉妬に狂った伯爵令嬢に突き落とされ、 彼女は一年もの間、意識不明の重体に陥る――。 目を覚ました彼女は、大人びた美貌を手に入れていた。 だが、中身は何ひとつ変わっていない。 にもかかわらず、 かつて彼女を「幼すぎる」と切り捨てた元婚約者は態度を一変させ、 「やり直したい」とすり寄ってくる。 「見かけが変わっても、中身は同じです。 それでもあなたは、私の外見しか見ていなかったのですね?」 静かにそう告げ、シルフィーネは過去を見限る。 やがて彼女に興味を示したのは、 隣国ノルディアの王太子エドワルド。 彼が見ていたのは、美貌ではなく―― 対話し、考え、異論を述べる彼女の“在り方”だった。 これは、 外見で価値を決められた令嬢が、 「選ばれる人生」をやめ、 自分の意思で未来を選び直す物語。 静かなざまぁと、 対等な関係から始まる大人の恋。 そして―― 自分の人生を、自分の言葉で生きるための物語。 ---

夫に捨てられた私は冷酷公爵と再婚しました

香木陽灯
恋愛
 伯爵夫人のマリアーヌは「夜を共に過ごす気にならない」と突然夫に告げられ、わずか五ヶ月で離縁することとなる。  これまで女癖の悪い夫に何度も不倫されても、役立たずと貶されても、文句ひとつ言わず彼を支えてきた。だがその苦労は報われることはなかった。  実家に帰っても父から不当な扱いを受けるマリアーヌ。気分転換に繰り出した街で倒れていた貴族の男性と出会い、彼を助ける。 「離縁したばかり? それは相手の見る目がなかっただけだ。良かったじゃないか。君はもう自由だ」 「自由……」  もう自由なのだとマリアーヌが気づいた矢先、両親と元夫の策略によって再婚を強いられる。相手は婚約者が逃げ出すことで有名な冷酷公爵だった。  ところが冷酷公爵と会ってみると、以前助けた男性だったのだ。  再婚を受け入れたマリアーヌは、公爵と少しずつ仲良くなっていく。  ところが公爵は王命を受け内密に仕事をしているようで……。  一方の元夫は、財政難に陥っていた。 「頼む、助けてくれ! お前は俺に恩があるだろう?」  元夫の悲痛な叫びに、マリアーヌはにっこりと微笑んだ。 「なぜかしら? 貴方を助ける気になりませんの」 ※ふんわり設定です

辺境は独自路線で進みます! ~見下され搾取され続けるのは御免なので~

紫月 由良
恋愛
 辺境に領地を持つマリエ・オリオール伯爵令嬢は、貴族学院の食堂で婚約者であるジョルジュ・ミラボーから婚約破棄をつきつけられた。二人の仲は険悪で修復不可能だったこともあり、マリエは快諾すると学院を早退して婚約者の家に向かい、その日のうちに婚約が破棄された。辺境=田舎者という風潮によって居心地が悪くなっていたため、これを機に学院を退学して領地に引き籠ることにした。  魔法契約によりオリオール伯爵家やフォートレル辺境伯家は国から離反できないが、関わり合いを最低限にして独自路線を歩むことに――。   ※小説家になろう、カクヨムにも投稿しています

婚約破棄の翌日に謝罪されるも、再び婚約する気はありません

黒木 楓
恋愛
 子爵令嬢パトリシアは、カルスに婚約破棄を言い渡されていた。  激務だった私は婚約破棄になったことに内心喜びながら、家に帰っていた。  婚約破棄はカルスとカルスの家族だけで決めたらしく、他の人は何も知らない。  婚約破棄したことを報告すると大騒ぎになり、私の協力によって領地が繁栄していたことをカルスは知る。  翌日――カルスは謝罪して再び婚約して欲しいと頼み込んでくるけど、婚約する気はありません。

処理中です...