『婚約破棄された令嬢は、名もなき秤を置いて去る』

ふわふわ

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第32話 評価されない選択

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第32話 評価されない選択

 その日は、何の前触れもなく始まった。

 朝の執務室に差し込む光も、港から届く音も、昨日までと変わらない。
 だが、机の上に置かれた一通の文書だけが、わずかに空気を変えていた。

 ――王国評議会 議事要旨(抜粋)

 形式ばった表題。
 だが、ベルトーネ・ランナバウトが視線を走らせたのは、その末尾だった。

「……評価対象外、ですか」

 側近が、気まずそうに呟く。

 内容はこうだ。
 港湾および物流制度の安定運用は評価する。
 しかし――

 「特筆すべき革新性は認められず、
  王国全体の改革事例としての表彰対象には該当しない」

 淡々とした文言。
 悪意も、称賛もない。

 ただ、拾われなかった。


---

 執務室に、短い沈黙が落ちる。

 側近は、様子を窺うように言った。

「……不当では、ありませんか」

「いいえ」

 ベルトーネは、即座に答えた。

「想定内です」

 むしろ、自然だった。

 王国が好むのは、
 劇的な成果。
 分かりやすい改革。
 短期間で数字が跳ねる事例。

 ここで行われているのは、その逆だ。

 派手さを削ぎ、
 例外を削ぎ、
 失敗の余地を削いだだけ。

 評価しにくい。
 物語にしにくい。

「評価されない選択を、
 積み重ねてきましたから」

 ベルトーネは、静かにそう言った。


---

 午前の会議。

 議題は、港湾設備の更新計画だった。

 新技術の導入案が、一つ挙がる。

「導入すれば、
 処理速度は上がります」

「コストは?」

「初期費用が高く、
 回収には十年以上かかります」

 ベルトーネは、資料を読み、少し考えた。

「今回は、見送ります」

 即断だった。

 会議室に、誰も異論を挟まない。

「現行設備で、
 十分に回っている」

「無理に変えれば、
 現場が混乱します」

 責任者たちの言葉は、
 彼女の判断をなぞるようだった。

 そこに、
 革新はない。

 だが、
 破綻もない。


---

 昼過ぎ。

 港湾地区を視察していると、
 年配の作業員が、ぽつりと声をかけてきた。

「……最近、
 何も起きませんな」

「それは、良いことです」

「ええ」

 彼は、少し笑う。

「前は、
 “何か変わる”たびに、
 身構えていました」

 一拍。

「今は、
 明日も同じだと思える」

 その言葉に、
 胸の奥が、静かに温かくなる。

(……評価されない理由が、
 ここにある)

 何も起きない。
 だから、話題にならない。

 だが、
 人が安心して働ける。


---

 夕刻。

 アルベリク・フォン・グラーフ公爵と、
 書斎で向かい合う。

「評議会の件、
 聞いた」

「はい」

「不満は?」

 ベルトーネは、少し考え、首を振った。

「評価されないのは、
 失敗したからではありません」

「ほう」

「事故が起きなかったからです」

 公爵は、短く息を吐いた。

「……確かにな」

「事故が起きて、
 それを解決すれば、
 評価されます」

「でも、
 起きないようにした選択は、
 評価されにくい」

 それでも――

「私は、
 こちらを選びます」

 迷いのない声だった。


---

 夜。

 書斎で一人、
 灯りを落とす前に、
 ベルトーネは窓の外を見る。

 港の灯りは、
 いつも通りに揺れている。

 誰も、
 彼女の名前を呼ばない。

 誰も、
 改革者だと讃えない。

 だが――

(……今日も、
 誰も困っていない)

 それで、十分だ。

 評価されない選択は、
 記録にも、歴史にも、
 残らないかもしれない。

 だが、
 人の一日を、
 確実に守る。

 ベルトーネ・ランナバウトは、
 静かに目を閉じる。

 明日もまた、
 評価されない選択を、
 積み重ねるだろう。

 それが、
 ここで生きるということなのだから。
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