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第33話 揺れない場所に立つ人
しおりを挟む朝、港に立つと、風が少し強かった。
潮の匂いが濃く、遠くで帆が鳴る。
だが、足元は揺れない。
板は乾き、縄は張り、荷の流れは滞りなく続いている。
ベルトーネ・ランナバウトは、その様子をしばらく黙って眺めていた。
(……揺れているのは、風だけ)
ここに至るまで、どれだけの選択を積み重ねてきたか。
その多くは、誰にも評価されず、
誰にも物語られず、
ただ“揺れない”という結果だけを残している。
---
午前の執務は、珍しく静かな内容だった。
報告はある。
決裁もある。
だが、緊急の判断はない。
「……新規申請、三件です」
「条件は?」
「全て、基準通りです」
「なら、進めてください」
会話は、それだけで終わる。
誰も、顔色を窺わない。
誰も、特別な許可を求めない。
それは、
“この場所では、そうするものだ”
という共通認識が、
すでに根付いている証だった。
---
昼前。
王都から、また一つ文書が届いた。
今度は、評価でも、要請でもない。
問い合わせだった。
「……“なぜ、混乱が起きないのか”
と、ありますね」
側近が、少し困ったように言う。
「混乱が起きない理由を、
知りたいと」
ベルトーネは、書面を読み、
小さく息を吐いた。
「答えは、簡単です」
「何と?」
「混乱が起きる選択を、
していないから」
それ以上でも、それ以下でもない。
急ぎすぎない。
例外を作らない。
誰かの顔色で、基準を変えない。
それだけだ。
---
午後。
港湾地区の一角で、
小さな揉め事が起きた。
荷の優先順位を巡る、意見の食い違い。
以前なら、すぐに上へ判断を仰いだだろう。
だが――
「基準の二項、
緊急性の定義に従おう」
「そうだな。
感情を挟む話じゃない」
現場で、自然に話がまとまる。
ベルトーネは、少し離れた場所から、
その様子を見ていた。
(……私は、必要ない)
それが、何より嬉しかった。
---
夕刻。
アルベリク・フォン・グラーフ公爵と、
港を歩きながら話す。
「最近、
君の出番が減ったな」
「ええ」
ベルトーネは、素直に答える。
「良いことです」
「寂しくはないか」
少しだけ、冗談めいた問い。
彼女は、首を振る。
「ここが揺れないなら、
私が立つ場所は、
もうここじゃなくていい」
公爵は、足を止め、
彼女を見る。
「……では、
どこに立つ?」
ベルトーネは、少し考え、答えた。
「揺れない場所の、
外側です」
「外側?」
「はい」
穏やかに、言葉を続ける。
「ここが揺れないなら、
私は、
次に揺れそうな場所を見ます」
「基準がなく、
選択が軽く、
声の大きい人が、
流れを決めてしまう場所」
そこに、
同じ秤を置けるかどうか。
それが、
次の仕事だ。
---
夜。
書斎で一人、
これまでの記録を閉じる。
名前を呼ばれない功績。
評価されない選択。
事故が起きなかった日々。
それらは、
揺れない場所を作った。
そして今――
その場所は、
自分が立ち続けなくても、
立っている。
(……ようやく、
立てる)
揺れない場所に、
寄りかかるのではなく。
揺れない場所を背に、
次へ進むために。
ベルトーネ・ランナバウトは、
灯りを落とす。
ここは、もう大丈夫だ。
揺れない場所には、
揺れない人が、
自然と残る。
そして彼女は――
その外側へ、
歩き出す準備を整えていた。
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