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第34話 外へ出る理由
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第34話 外へ出る理由
港を離れる朝、空は不思議なほど澄んでいた。
雲が少なく、風は穏やかで、潮の匂いも軽い。
まるで、「今日は何も起きない」と保証されているかのようだ。
ベルトーネ・ランナバウトは、その空を一度だけ見上げ、静かに息を吸った。
(……だからこそ、出られる)
ここが揺れないと分かった今、
留まる理由は、もうなかった。
---
執務室では、簡潔な引き継ぎが行われていた。
「定例判断は、
この三名で回せます」
「例外対応は?」
「基準内で処理します。
逸脱した場合のみ、
公爵へ報告します」
言葉は淡々としている。
不安も、引き止めもない。
それが、胸に沁みた。
「……私に、連絡は?」
側近が、確認するように尋ねる。
「不要です」
ベルトーネは、首を振った。
「ここは、
もう“私がいなくて困る場所”ではありません」
一瞬の沈黙のあと、
側近は深く頭を下げた。
「……はい」
その一言に、
すべてが込められていた。
---
出立の前、
アルベリク・フォン・グラーフ公爵と、
短い時間を持つ。
「本当に、行くのだな」
「ええ」
「どこへ?」
「まだ、決めていません」
正直な答えだった。
「ただ――」
一拍。
「揺れている場所へ」
公爵は、低く息を吐く。
「君らしい」
「そうでしょうか」
ベルトーネは、わずかに微笑む。
「ここで学んだことは、
揺れている場所でしか、
使えませんから」
公爵は、しばらく黙っていたが、
やがて言った。
「……戻る場所は?」
「戻る必要があるなら、
そのとき考えます」
それ以上の約束は、交わさなかった。
---
馬車は、ゆっくりと動き出す。
港の音が、
少しずつ遠ざかる。
人の声。
荷のぶつかる音。
規則正しい日常。
それらは、
もう追いかけてこない。
---
道中、
隣国との境に近い町で、
短い休憩を取った。
市場は賑わっているが、
どこか落ち着きがない。
値段は日替わり。
基準は曖昧。
声の大きい商人が、
場を支配している。
(……揺れている)
人々は忙しそうだが、
足元は定まっていない。
ひとりの若い商人が、
疲れた顔で話しかけてきた。
「……値を下げろと言われて、
断ったら、
次は取引を切ると」
「それで?」
「……どうすればいいか、
分からなくなって」
ベルトーネは、
少しだけ考えてから言った。
「基準は、ありますか」
「……ありません」
「では、
相手の気分で、
すべてが決まります」
商人は、黙り込む。
「それは、
あなたの商いではありません」
彼女は、
断定しなかった。
説教もしなかった。
ただ、
事実を置いただけだ。
---
馬車に戻りながら、
ベルトーネは思う。
(……ここだ)
揺れている場所。
判断が軽く、
責任が流れ、
誰も足元を示さない。
ここに、
秤がない。
だから、人は疲れる。
---
夜。
簡素な宿で、
灯りの下、
彼女は一枚の紙を広げた。
書くのは、計画ではない。
理想でもない。
ただ、
これまで積み上げてきた
選択の理由だ。
・なぜ例外を作らなかったか
・なぜ急がなかったか
・なぜ評価を求めなかったか
・なぜ名前を消したか
書き出すほどに、
線は一本に収束していく。
(……外へ出る理由は、
もう、十分だ)
揺れない場所を作ることと、
揺れている場所へ行くことは、
矛盾しない。
むしろ、
揺れない場所を知った者だけが、
揺れを止められる。
ベルトーネ・ランナバウトは、
ペンを置く。
ここから先は、
まだ形になっていない。
だが――
理由は、
はっきりしている。
彼女は、
外へ出る人間だ。
それは逃避ではない。
使命でもない。
ただ、
必要だから行く。
その選択は、
評価されないかもしれない。
だが、
誰かの足元を、
確かに支えるだろう。
夜は静かに更けていく。
揺れない場所を背に、
彼女は、
次の揺れへと向かっていた。
港を離れる朝、空は不思議なほど澄んでいた。
雲が少なく、風は穏やかで、潮の匂いも軽い。
まるで、「今日は何も起きない」と保証されているかのようだ。
ベルトーネ・ランナバウトは、その空を一度だけ見上げ、静かに息を吸った。
(……だからこそ、出られる)
ここが揺れないと分かった今、
留まる理由は、もうなかった。
---
執務室では、簡潔な引き継ぎが行われていた。
「定例判断は、
この三名で回せます」
「例外対応は?」
「基準内で処理します。
逸脱した場合のみ、
公爵へ報告します」
言葉は淡々としている。
不安も、引き止めもない。
それが、胸に沁みた。
「……私に、連絡は?」
側近が、確認するように尋ねる。
「不要です」
ベルトーネは、首を振った。
「ここは、
もう“私がいなくて困る場所”ではありません」
一瞬の沈黙のあと、
側近は深く頭を下げた。
「……はい」
その一言に、
すべてが込められていた。
---
出立の前、
アルベリク・フォン・グラーフ公爵と、
短い時間を持つ。
「本当に、行くのだな」
「ええ」
「どこへ?」
「まだ、決めていません」
正直な答えだった。
「ただ――」
一拍。
「揺れている場所へ」
公爵は、低く息を吐く。
「君らしい」
「そうでしょうか」
ベルトーネは、わずかに微笑む。
「ここで学んだことは、
揺れている場所でしか、
使えませんから」
公爵は、しばらく黙っていたが、
やがて言った。
「……戻る場所は?」
「戻る必要があるなら、
そのとき考えます」
それ以上の約束は、交わさなかった。
---
馬車は、ゆっくりと動き出す。
港の音が、
少しずつ遠ざかる。
人の声。
荷のぶつかる音。
規則正しい日常。
それらは、
もう追いかけてこない。
---
道中、
隣国との境に近い町で、
短い休憩を取った。
市場は賑わっているが、
どこか落ち着きがない。
値段は日替わり。
基準は曖昧。
声の大きい商人が、
場を支配している。
(……揺れている)
人々は忙しそうだが、
足元は定まっていない。
ひとりの若い商人が、
疲れた顔で話しかけてきた。
「……値を下げろと言われて、
断ったら、
次は取引を切ると」
「それで?」
「……どうすればいいか、
分からなくなって」
ベルトーネは、
少しだけ考えてから言った。
「基準は、ありますか」
「……ありません」
「では、
相手の気分で、
すべてが決まります」
商人は、黙り込む。
「それは、
あなたの商いではありません」
彼女は、
断定しなかった。
説教もしなかった。
ただ、
事実を置いただけだ。
---
馬車に戻りながら、
ベルトーネは思う。
(……ここだ)
揺れている場所。
判断が軽く、
責任が流れ、
誰も足元を示さない。
ここに、
秤がない。
だから、人は疲れる。
---
夜。
簡素な宿で、
灯りの下、
彼女は一枚の紙を広げた。
書くのは、計画ではない。
理想でもない。
ただ、
これまで積み上げてきた
選択の理由だ。
・なぜ例外を作らなかったか
・なぜ急がなかったか
・なぜ評価を求めなかったか
・なぜ名前を消したか
書き出すほどに、
線は一本に収束していく。
(……外へ出る理由は、
もう、十分だ)
揺れない場所を作ることと、
揺れている場所へ行くことは、
矛盾しない。
むしろ、
揺れない場所を知った者だけが、
揺れを止められる。
ベルトーネ・ランナバウトは、
ペンを置く。
ここから先は、
まだ形になっていない。
だが――
理由は、
はっきりしている。
彼女は、
外へ出る人間だ。
それは逃避ではない。
使命でもない。
ただ、
必要だから行く。
その選択は、
評価されないかもしれない。
だが、
誰かの足元を、
確かに支えるだろう。
夜は静かに更けていく。
揺れない場所を背に、
彼女は、
次の揺れへと向かっていた。
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