『婚約破棄された令嬢は、名もなき秤を置いて去る』

ふわふわ

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第36話 置かれた秤は語らない

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第36話 置かれた秤は語らない

 朝、集会所の前には、思ったより人が集まっていた。

 押し寄せるような群衆ではない。
 だが、誰もが足を止め、様子を見ている。
 それだけで、この町にとっては珍しい光景だった。

 ベルトーネ・ランナバウトは、外套を脱ぎ、静かに扉を開ける。

 中央の卓の上には、何もない。

 昨日の夜、彼女は何も設えなかった。
 掲示も、演説の準備もない。

(……秤は、語らない)

 それが、彼女の選択だった。


---

 集会所に入った人々は、戸惑いを隠せない。

「……何も、ないじゃないか」

「話をするんじゃないのか」

 ざわめきが起きる。

 ベルトーネは、中央に立たず、壁際に腰掛けた。

 場の主役になる気は、ない。

「質問があれば、聞きます」

 それだけ告げる。

 沈黙が落ちる。

 誰かが前に出て、問い詰める――
 そんな展開を、皆が予想していた。

 だが、誰も動かない。

(……秤がない場所では、
 前に出る理由も、
 定まらない)


---

 やがて、昨日の年配の女商人が、ぽつりと言った。

「……あんた、
 何かを“決めに”来たんじゃないのかい」

「いいえ」

 ベルトーネは、首を振る。

「決めるのは、
 ここにいる皆さんです」

「じゃあ、
 あんたは何者だ」

「決め方を、
 置きに来ただけです」

 場が、静まる。


---

 一人の若い商人が、苛立ったように声を上げた。

「そんな曖昧な話で、
 何が変わるんだ!」

「変わりません」

 即答だった。

「変えようとしなければ」

 その言葉に、空気が張りつめる。

「私は、
 この町のやり方を、
 否定しません」

 一拍。

「ただ――
 続けるかどうかは、
 皆さんが量るべきです」

「量る?」

「はい」

 ベルトーネは、卓を指さす。

「ここに、
 秤があると仮定してください」

 何もない卓を見て、
 人々は怪訝な顔をする。

「秤は、
 善悪を決めません」

 静かな声で、続ける。

「“重いか、軽いか”
 それだけを示します」


---

 別の男が、腕を組んで言う。

「……何が、重いっていうんだ」

「決断です」

 ベルトーネは、間を置いて答えた。

「値を変える決断。
 約束を破る決断。
 例外を認める決断」

「それらが、
 誰に、どれだけの重さを
 残すのか」

 場が、しんと静まる。

 誰もが、心当たりを持っていた。


---

 女商人が、低く呟く。

「……昨日の値を、
 今日変えるのは、
 軽いと思ってた」

 一拍。

「でも、
 毎日それをやると、
 誰も信じなくなる」

 ベルトーネは、何も言わない。

 頷きもしない。

 秤は、語らない。


---

 昼が近づく頃、
 議論は自然と生まれ始めていた。

「値は、
 一日で変えていいのか」

「変えるなら、
 理由を掲げるべきじゃないか」

「例外は、
 誰が決める?」

 声は、ぶつかる。
 だが、昨日までとは違う。

 怒鳴り合いではなく、
 探り合いになっている。

(……量り始めた)

 ベルトーネは、静かに見守る。


---

 夕刻。

 集会所の掲示板に、
 新しい紙が貼られた。

 誰が書いたか、
 署名はない。

 ・値を変える場合、
  理由を掲げる
 ・例外は、
  集会所で共有する
・翌日に見直す機会を設ける

 簡素な三行。

 法でも、規則でもない。

 だが――
 秤の目盛りだった。


---

 人々は、紙を見て、何も言わない。

 剥がす者もいない。

 それだけで、十分だった。


---

 夜。

 宿に戻ったベルトーネは、
 窓を開け、町を見下ろす。

 騒がしさは、
 まだ残っている。

 だが、音の質が違う。

 焦りではない。
 怒りでもない。

 迷いだ。

 迷いは、悪くない。
 迷いは、秤が動いている証だ。

(……置かれた秤は、
 語らない)

 語らせれば、
 従う者と、反発する者が生まれる。

 だが、
 語らなければ――
 人は、自分で量る。

 ベルトーネ・ランナバウトは、
 静かに灯りを落とす。

 今日、彼女は何も決めていない。
 何も命じていない。

 それでも、
 この町は、
 昨日より少しだけ、
 揺れ方を変えた。

 秤は、
 そこにある。

 ただ、それだけで。
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