『婚約破棄された令嬢は、名もなき秤を置いて去る』

ふわふわ

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第39話 名を持たない仕組み

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第39話 名を持たない仕組み

 朝の市場は、いつも通りに始まった。

 値を告げる声。
 品を確かめる手。
 硬貨の音。

 だが、そこにもう――
 騒がしさはなかった。

 静かだからではない。
 整っているからだ。

 ベルトーネ・ランナバウトは、通りの入口に立ち、その様子を見渡していた。

(……定着し始めている)

 誰かが先頭に立つわけでもない。
 誰かの名が、合言葉になるわけでもない。

 それでも、
 人は迷わず動いている。


---

 市場の中央。

 昨日「皆で引き受ける」と言った女商人は、今日は一人の商人として立っていた。

「今日は、この値で」

 声は穏やかだ。
 だが、理由は掲げられている。

 昨日決めた、
 “決めきれない日は、変えない”
 その延長線。

 客は、値札と掲示板を見比べ、頷く。

「……分かった」

 それだけで、取引は成立する。


---

 若い商人の店でも、同じだった。

 以前なら、
 相手の顔色を窺い、
 値を変えていた男が、
 今日は、動かない。

「理由は?」

「掲示板にある」

「……ああ」

 客は、不満そうに見えたが、
 去らなかった。

 少し考え、
 財布を開く。

 納得ではなく、理解。

 それで、十分だった。


---

 昼前、集会所。

 誰かに呼ばれたわけでもなく、
 自然と人が集まる。

 だが、議論は起きない。

 確認だけだ。

「昨日のやり方、
 問題はあったか」

「特に、
 大きな混乱はない」

「値が硬い分、
 文句は減った」

 短いやり取りで、
 人は散っていく。

(……会議ですらない)

 それが、理想だった。


---

 ベルトーネは、
 壁際で、その様子を眺めていた。

 誰も、彼女を見ない。
 誰も、判断を仰がない。

 それでいい。

 それが――
 仕組みが生きている証だから。


---

 午後、宿に戻る途中で、
 あの反発していた男に、呼び止められた。

「……あんた」

「はい」

「これ、
 あんたの手柄だろ」

 男は、
 市場の方を、顎で示す。

 ベルトーネは、首を振った。

「違います」

「だが――」

「私の名が、
 ここで必要ですか」

 男は、言葉に詰まる。

「……いや」

「なら、
 それが答えです」

 男は、
 しばらく黙っていたが、
 やがて、苦笑した。

「……名前が出ない仕組み、か」

「はい」

 ベルトーネは、静かに答える。

「名前が出るうちは、
 人は、
 仕組みではなく、
 人に従います」

「それは、
 長く持ちません」


---

 夕刻。

 掲示板の紙が、
 一枚、増えていた。

 誰が貼ったか、
 分からない。

 ・決定は、
  掲示し、
  翌日見直す
 ・異議は、
  人ではなく、
  内容に向ける

 署名はない。
 日付だけがある。

 それでいい。


---

 人々は、
 その紙を見て、
 自然に頷く。

 剥がす者はいない。
 書き足す者もいない。

 触らなくていいと、
 分かっているからだ。


---

 夜。

 宿の灯りの下で、
 ベルトーネは、最後の記録を書く。

 ・名を出さなかった
 ・命じなかった
 ・残った

 それだけで、
 十分だった。

(……これで、
 私は不要になる)

 それは、
 寂しさではない。

 完成に、
 最も近い感覚だった。

 港でも、
 この町でも、
 彼女が目指したのは、
 自分が消えることだった。

 名を残す改革は、
 名が消えれば、崩れる。

 だが――
 名を持たない仕組みは、
 誰がいなくなっても、残る。


---

 ベルトーネ・ランナバウトは、
 帳面を閉じる。

 明日、
 彼女はこの町を発つ。

 だが、
 別れの言葉は、
 必要ない。

 誰も、
 彼女の名を呼ばない。

 それでいい。

 この町には、
 もう、
 名を呼ばなくても動く仕組みがある。

 それこそが――
 彼女が、
 ここに来た理由だった。
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