『婚約破棄された令嬢は、名もなき秤を置いて去る』

ふわふわ

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第40話 静かに去る者の足音

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第40話 静かに去る者の足音

 朝、町はいつも通りに目を覚ました。

 鐘が鳴る。
 店が開く。
 人が歩く。

 そこに、特別な儀式はない。
 別れを惜しむ声も、見送りの列もない。

 ベルトーネ・ランナバウトは、宿の一室で外套を羽織り、最後に窓の外を見た。

(……何も、起きていない)

 それが、何よりの証だった。


---

 市場を通り抜ける。

 誰も、彼女に気づかない。
 気づいても、足を止めない。

 それでいい。

 値は掲げられ、理由が添えられている。
 昨日と同じものもあれば、少し変わったものもある。

 だが――
 変わった理由は、必ず書かれている。

「今日は、こう判断した」
「昨日とは、条件が違った」

 その一行があるだけで、
 争いは起きない。

 人は、納得しなくても、理解する。

 それが、秤の仕事だった。


---

 集会所の前を通る。

 掲示板には、新しい紙が一枚。

 ・例外は、理由と期限を明示する
 ・期限を過ぎた例外は、無効とする

 署名はない。
 命令でもない。

 ただ、
 誰かが、そう決めたという痕跡だけがある。

(……もう、私の言葉ではない)

 それが、完成だった。


---

 町の外れ、
 道が分かれる場所で、
 声をかけられた。

「……あんた」

 振り返ると、
 あの年配の女商人が立っていた。

「今日、
 行くのかい」

「はい」

 短い答え。

「そうか」

 一拍。

「……名前は?」

 ベルトーネは、少しだけ考えた。

 名を名乗れば、
 記憶に残る。

 残れば、
 仕組みより、人が先に立つ。

 だから――

「名は、
 必要ありません」

 女商人は、
 一瞬、驚いた顔をしたが、
 すぐに頷いた。

「……そういう人だったね」

 それだけ言って、
 背を向ける。

 引き止めない。
 感謝も言わない。

 それで、十分だった。


---

 町を離れる道すがら、
 ベルトーネは、これまでの歩みを振り返る。

 港で、
 評価されない選択を積み重ねた日々。

 揺れない場所を作り、
 自分が不要になるまで立ち続けたこと。

 そして――
 揺れている町に、
 秤を置いたこと。

 彼女は、
 どこでも同じことをしてきた。

 目立たないように整え、
 自分が消える準備をする。

 それは、
 英雄の仕事ではない。

 だが、
 世界を長く持たせる仕事だ。


---

 夕刻。

 道の先に、
 見覚えのある馬車が止まっていた。

 紋章は、
 アルベリク・フォン・グラーフ公爵家のもの。

「……迎えに来るとは」

 馬車の扉が開き、
 公爵が降りてくる。

「報告が、
 一切来なかったからな」

「問題が、
 起きなかった証です」

「そうだな」

 一拍。

「……終わったか」

「はい」

 それ以上の説明は、
 不要だった。


---

 馬車に乗り込む。

 町は、
 ゆっくりと遠ざかる。

 振り返らない。

 振り返る必要が、
 もうない。


---

 夜。

 馬車の中、
 ランプの灯りの下で、
 アルベリクが、静かに言う。

「君は、
 何も残さなかったな」

「いいえ」

 ベルトーネは、首を振る。

「人が、自分で決める余地を、
 残しました」

「それが、
 最も残る」

 公爵は、短く笑った。

「……相変わらずだ」


---

 外は、静かな夜だ。

 どこかで、
 また揺れている町があるだろう。

 秤のない場所。
 決断が軽い場所。

 ベルトーネ・ランナバウトは、
 目を閉じる。

 次に向かう場所を、
 まだ決めていない。

 だが――
 行く理由は、いつも同じだ。

 誰かが、
 立ち尽くしている場所に。

 誰かが、
 決められずにいる場所に。

 静かに、
 秤を置くために。

 足音は、小さい。

 名も、
 称賛も、
 残さない。

 それでも、
 世界は、
 一歩だけ、長く立つ。

 それで、十分だ。

 ――物語は、
 ここで終わる。

 だが、
 秤の仕事は、
 今日も、
 どこかで続いている。
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