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第三話 北の地という伏線
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第三話 北の地という伏線
北の領都に到着したのは、薄曇りの午後だった。
王都よりも空は低く、風は鋭い。石畳ではなく、踏み固められた土の道。華やかさはない。だが私は、胸の奥が静かに高鳴るのを感じていた。
「お帰りなさいませ、シュガー様」
出迎えた家宰が、深々と頭を下げる。
――シュガー・ビート公爵令嬢。
婚約破棄の報はすでに届いているはずだ。それでも彼らは、何も聞かない。ただ、帰還を迎える。それがこの地の流儀だ。
王都では私は「芋女」だった。
ここでは。
私は領主の娘だ。
屋敷に入り、最初に命じたのは厨房の視察だった。
古い石造りの厨房。天井は高く、煙突が太い。窓は小さいが、風通しは良い。棚に並ぶのは、保存用の根菜と穀物。肉は塩漬け、果物は乾燥。
そして、牛乳。
「本日の乳は、今朝搾ったものです」
桶に入った乳を、私は指先で触れる。
冷たい。
「外気は?」
「昼でも十五度ほど。夜は十度を下回ります」
私はゆっくりと息を吐いた。
王都なら、昼には二十度を超える。湿度も高い。だがここは違う。
涼しい。
乾いている。
粉を保存するには理想的な環境だ。
乳の腐敗も遅い。
冬になれば、外は天然の冷蔵庫。
私は屋敷の裏手にある倉庫へ向かった。
厚い石壁、北向きの小窓。地面は半地下。気温はさらに低い。
手を伸ばし、空気を感じる。
冷気が指先にまとわりつく。
「……ここって、天然冷蔵庫環境では?」
思わず前世の言葉が漏れた。
家宰が怪訝そうな顔をする。
「冬は氷も張りますゆえ、肉の保存には重宝しております」
私は笑みを浮かべた。
王都では「冷やす」という行為自体が贅沢だった。
だが北では、寒さが日常だ。
欠点だと思われていた気候が、
実は最大の武器かもしれない。
次に私は、畑へ向かった。
広がる大地。
風に揺れる葉。
そこに並ぶのは――じゃがいも。
ビート公爵家の特産。
痩せた土地でも育ち、寒さにも強い。王都では地味な食材と笑われるが、この地では主食に近い存在だ。
「今年も公爵芋は豊作でございます」
公爵芋。
名は誇らしいが、王都では「芋女」の由来にされた品種。
だが私は、その畑の奥にある別の作物に目を向けた。
白っぽい根菜。
家畜用とされるそれを、私は一本引き抜く。
土を払い、刃で切り分ける。
断面に滲む汁を舐めた。
やはり。
甘い。
前世で知っている味。
てんさい。
私は畑の端にしゃがみ込み、しばらくその根を見つめた。
王都での絶望が、頭をよぎる。
砂糖が高すぎる。
蜂蜜も贅沢品。
林檎は酸っぱい。
乳は腐る。
膨らまない生地。
だからカフェは不可能だと、私は結論づけた。
だがそれは、「王都基準」だった。
この地には、
寒さがある。
乾燥がある。
根菜がある。
畑がある。
利権に縛られない空気がある。
私は立ち上がり、家宰に告げた。
「この根菜、今年の収穫量は?」
「家畜の餌として十分な量がございますが……」
「一部を研究用に回してください」
「研究……でございますか?」
「ええ。甘味の研究です」
家宰の目がわずかに見開かれる。
甘味。
この地では、滅多に聞かない言葉だ。
私は屋敷へ戻りながら、頭の中で工程を組み立てる。
圧搾。
煮詰め。
濾過。
再結晶。
単純ではない。
だが不可能でもない。
そして、もし成功すれば。
砂糖の輸入に頼らない甘味が誕生する。
王都では成立しなかったカフェが、
この北では成立する。
硬いパンしかない世界に。
ふわふわのパンケーキを。
私は厨房へ戻り、粉袋を開いた。
乾いている。
湿気はほとんど感じない。
ここなら、粉の管理もできる。
私は牛乳を温め、卵を割り、試しに生地を混ぜる。
まだ膨らまない。
まだ甘くない。
だが。
王都で感じた絶望とは違う。
ここには、可能性がある。
私は窓の外を見た。
灰色の空。
冷たい風。
質素な町並み。
王都の貴族たちが見れば、鼻で笑うだろう。
だが私は、はっきりと理解している。
北の寒さは、罰ではない。
伏線だ。
王都では咲かない花が、
ここでは咲く。
やがてこの地は、
北のお菓子の国と呼ばれるかもしれない。
その始まりは、まだ小さな根菜一本。
だが私は知っている。
大逆転は、いつも地味な種から始まる。
私は静かに呟いた。
「……シュガー大逆転、ですわね」
芋女と笑われた名を、
甘さで塗り替えてみせる。
北の領都に到着したのは、薄曇りの午後だった。
王都よりも空は低く、風は鋭い。石畳ではなく、踏み固められた土の道。華やかさはない。だが私は、胸の奥が静かに高鳴るのを感じていた。
「お帰りなさいませ、シュガー様」
出迎えた家宰が、深々と頭を下げる。
――シュガー・ビート公爵令嬢。
婚約破棄の報はすでに届いているはずだ。それでも彼らは、何も聞かない。ただ、帰還を迎える。それがこの地の流儀だ。
王都では私は「芋女」だった。
ここでは。
私は領主の娘だ。
屋敷に入り、最初に命じたのは厨房の視察だった。
古い石造りの厨房。天井は高く、煙突が太い。窓は小さいが、風通しは良い。棚に並ぶのは、保存用の根菜と穀物。肉は塩漬け、果物は乾燥。
そして、牛乳。
「本日の乳は、今朝搾ったものです」
桶に入った乳を、私は指先で触れる。
冷たい。
「外気は?」
「昼でも十五度ほど。夜は十度を下回ります」
私はゆっくりと息を吐いた。
王都なら、昼には二十度を超える。湿度も高い。だがここは違う。
涼しい。
乾いている。
粉を保存するには理想的な環境だ。
乳の腐敗も遅い。
冬になれば、外は天然の冷蔵庫。
私は屋敷の裏手にある倉庫へ向かった。
厚い石壁、北向きの小窓。地面は半地下。気温はさらに低い。
手を伸ばし、空気を感じる。
冷気が指先にまとわりつく。
「……ここって、天然冷蔵庫環境では?」
思わず前世の言葉が漏れた。
家宰が怪訝そうな顔をする。
「冬は氷も張りますゆえ、肉の保存には重宝しております」
私は笑みを浮かべた。
王都では「冷やす」という行為自体が贅沢だった。
だが北では、寒さが日常だ。
欠点だと思われていた気候が、
実は最大の武器かもしれない。
次に私は、畑へ向かった。
広がる大地。
風に揺れる葉。
そこに並ぶのは――じゃがいも。
ビート公爵家の特産。
痩せた土地でも育ち、寒さにも強い。王都では地味な食材と笑われるが、この地では主食に近い存在だ。
「今年も公爵芋は豊作でございます」
公爵芋。
名は誇らしいが、王都では「芋女」の由来にされた品種。
だが私は、その畑の奥にある別の作物に目を向けた。
白っぽい根菜。
家畜用とされるそれを、私は一本引き抜く。
土を払い、刃で切り分ける。
断面に滲む汁を舐めた。
やはり。
甘い。
前世で知っている味。
てんさい。
私は畑の端にしゃがみ込み、しばらくその根を見つめた。
王都での絶望が、頭をよぎる。
砂糖が高すぎる。
蜂蜜も贅沢品。
林檎は酸っぱい。
乳は腐る。
膨らまない生地。
だからカフェは不可能だと、私は結論づけた。
だがそれは、「王都基準」だった。
この地には、
寒さがある。
乾燥がある。
根菜がある。
畑がある。
利権に縛られない空気がある。
私は立ち上がり、家宰に告げた。
「この根菜、今年の収穫量は?」
「家畜の餌として十分な量がございますが……」
「一部を研究用に回してください」
「研究……でございますか?」
「ええ。甘味の研究です」
家宰の目がわずかに見開かれる。
甘味。
この地では、滅多に聞かない言葉だ。
私は屋敷へ戻りながら、頭の中で工程を組み立てる。
圧搾。
煮詰め。
濾過。
再結晶。
単純ではない。
だが不可能でもない。
そして、もし成功すれば。
砂糖の輸入に頼らない甘味が誕生する。
王都では成立しなかったカフェが、
この北では成立する。
硬いパンしかない世界に。
ふわふわのパンケーキを。
私は厨房へ戻り、粉袋を開いた。
乾いている。
湿気はほとんど感じない。
ここなら、粉の管理もできる。
私は牛乳を温め、卵を割り、試しに生地を混ぜる。
まだ膨らまない。
まだ甘くない。
だが。
王都で感じた絶望とは違う。
ここには、可能性がある。
私は窓の外を見た。
灰色の空。
冷たい風。
質素な町並み。
王都の貴族たちが見れば、鼻で笑うだろう。
だが私は、はっきりと理解している。
北の寒さは、罰ではない。
伏線だ。
王都では咲かない花が、
ここでは咲く。
やがてこの地は、
北のお菓子の国と呼ばれるかもしれない。
その始まりは、まだ小さな根菜一本。
だが私は知っている。
大逆転は、いつも地味な種から始まる。
私は静かに呟いた。
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