4 / 40
第四話 てんさい糖、最初の一粒
しおりを挟む
第四話 てんさい糖、最初の一粒
研究室と呼ぶにはあまりにも素朴な、屋敷の裏手の小部屋。
石壁に囲まれ、北向きの小窓から冷たい風が差し込む。火を入れなければ、室温は外気とほとんど変わらない。冬には氷が張るこの部屋を、私はあえて選んだ。
砂糖は、湿気に弱い。
前世の記憶が、淡くよみがえる。製糖工場の映像。遠心分離機。真っ白な結晶。――あれほどの設備は望めない。だが原理は同じだ。
甘い汁を取り出し、濃縮し、結晶化させる。
それだけ。
「家畜用の根菜を、こんなに……?」
厨房長が不安げにてんさいを見つめる。
「ええ。全部は使いません。まずは十本だけ」
私は刃を取り、皮を厚めに剥く。泥を落とし、細かく刻む。すり潰し、布で包み、圧をかける。
じわり、と透明な汁が滲み出た。
それを鍋に集め、弱火にかける。
甘い香りが、ほのかに立ちのぼる。
てんさいの糖度は高い。だが同時に、不純物も多い。濾過しなければ濁ったままだ。
私は灰を水で溶き、簡易的な濾過材を作る。布を重ね、汁をゆっくりと通す。
透明度が、わずかに上がる。
「これで……甘くなるのですか?」
「なります。きっと」
自分に言い聞かせるように、私は頷いた。
火加減を調整しながら、ひたすら煮詰める。
時間がかかる。
単調で、地味で、根気のいる作業。
婚約破棄のあの日、大広間で浴びせられた嘲笑を思い出す。
芋女。
甘い夢を語る愚か者。
カフェなど幻想。
王都では、私は現実を知らない令嬢だった。
だが。
私は知っている。
甘さは、作れる。
やがて鍋の中身は、とろりとした琥珀色の液体になった。
これが第一段階。
まだ砂糖ではない。
私はそれを浅い皿に移し、冷気の強い部屋へ置く。
夜。
外気温は十度を下回る。
この寒さが、結晶を助けるはずだ。
翌朝。
私は誰よりも早く研究室へ向かった。
皿を覗き込む。
琥珀色の表面に、わずかな白い粒が見えた。
息を止める。
指先でそっと触れる。
固い。
砂糖の結晶だ。
「……できた」
思わず、笑いがこぼれる。
ほんの少量。
不揃いで、粗い粒。
だが確かに、砂糖だ。
私はそれを舌に乗せた。
甘い。
蜂蜜とは違う、澄んだ甘さ。
王都で高値で売られていた南方の砂糖に、決して劣らない。
「本当に……甘い」
厨房長が、目を丸くする。
家宰も、無言で粒を舐め、驚愕の表情を浮かべた。
「これを……この地で?」
「ええ。まだ改良の余地はありますけれど」
不純物は残っている。色も茶色い。だが精製を繰り返せば、より白く、より純度の高い砂糖へと近づくはずだ。
私は鍋を見つめながら、静かに計算する。
畑の面積。
収穫量。
糖分含有率。
労働力。
燃料。
輸入砂糖にかかる関税と輸送費を引けば。
十分、勝てる。
王都の商人ギルドは、南方航路を握っている。
だが彼らは、この地の根菜には興味を示さなかった。
寒い土地。
地味な芋。
貧しい北。
だからこそ、盲点だった。
私は改めて皿を見つめる。
たった一粒の結晶。
だがこの一粒が、流れを変える。
「精製を重ねます。白く、もっと白く」
「白く……?」
「ええ。王都の貴族が驚くほどに」
砂糖細工を誇示していた彼らに、北の砂糖を突きつける。
甘味を、利権から解放する。
やがて私は、厨房へ向かった。
小麦粉。
卵。
牛乳。
そして――自家製のてんさい糖。
まだ少量だが、試作には足りる。
生地に混ぜる。
泡立てる。
焼く。
ふわりと立ちのぼる甘い香り。
まだ膨らみは足りない。だが王都の硬いパンとは違う。
焼き上がったそれを、皿に乗せる。
表面に、てんさい糖のシロップを垂らす。
見た目は質素だ。
生クリームも、果実の飾りもない。
だが一口食べれば。
厨房長が、息を呑む。
「……甘い」
それは、北の地では初めて味わう種類の甘さだった。
安価で。
十分に甘く。
日常に届く味。
私はゆっくりと微笑む。
王都で絶望したカフェの夢。
それは、ここで形を持ち始めている。
寒さは敵ではなかった。
乾燥は欠点ではなかった。
北は、甘味の死地ではない。
むしろ。
甘味の揺りかごだ。
私は窓の外の灰色の空を見上げる。
やがてこの地は、こう呼ばれるだろう。
北のお菓子の国。
その始まりは、地味な根菜と、たった一粒の結晶。
芋女と笑われた私の。
最初の反撃である。
研究室と呼ぶにはあまりにも素朴な、屋敷の裏手の小部屋。
石壁に囲まれ、北向きの小窓から冷たい風が差し込む。火を入れなければ、室温は外気とほとんど変わらない。冬には氷が張るこの部屋を、私はあえて選んだ。
砂糖は、湿気に弱い。
前世の記憶が、淡くよみがえる。製糖工場の映像。遠心分離機。真っ白な結晶。――あれほどの設備は望めない。だが原理は同じだ。
甘い汁を取り出し、濃縮し、結晶化させる。
それだけ。
「家畜用の根菜を、こんなに……?」
厨房長が不安げにてんさいを見つめる。
「ええ。全部は使いません。まずは十本だけ」
私は刃を取り、皮を厚めに剥く。泥を落とし、細かく刻む。すり潰し、布で包み、圧をかける。
じわり、と透明な汁が滲み出た。
それを鍋に集め、弱火にかける。
甘い香りが、ほのかに立ちのぼる。
てんさいの糖度は高い。だが同時に、不純物も多い。濾過しなければ濁ったままだ。
私は灰を水で溶き、簡易的な濾過材を作る。布を重ね、汁をゆっくりと通す。
透明度が、わずかに上がる。
「これで……甘くなるのですか?」
「なります。きっと」
自分に言い聞かせるように、私は頷いた。
火加減を調整しながら、ひたすら煮詰める。
時間がかかる。
単調で、地味で、根気のいる作業。
婚約破棄のあの日、大広間で浴びせられた嘲笑を思い出す。
芋女。
甘い夢を語る愚か者。
カフェなど幻想。
王都では、私は現実を知らない令嬢だった。
だが。
私は知っている。
甘さは、作れる。
やがて鍋の中身は、とろりとした琥珀色の液体になった。
これが第一段階。
まだ砂糖ではない。
私はそれを浅い皿に移し、冷気の強い部屋へ置く。
夜。
外気温は十度を下回る。
この寒さが、結晶を助けるはずだ。
翌朝。
私は誰よりも早く研究室へ向かった。
皿を覗き込む。
琥珀色の表面に、わずかな白い粒が見えた。
息を止める。
指先でそっと触れる。
固い。
砂糖の結晶だ。
「……できた」
思わず、笑いがこぼれる。
ほんの少量。
不揃いで、粗い粒。
だが確かに、砂糖だ。
私はそれを舌に乗せた。
甘い。
蜂蜜とは違う、澄んだ甘さ。
王都で高値で売られていた南方の砂糖に、決して劣らない。
「本当に……甘い」
厨房長が、目を丸くする。
家宰も、無言で粒を舐め、驚愕の表情を浮かべた。
「これを……この地で?」
「ええ。まだ改良の余地はありますけれど」
不純物は残っている。色も茶色い。だが精製を繰り返せば、より白く、より純度の高い砂糖へと近づくはずだ。
私は鍋を見つめながら、静かに計算する。
畑の面積。
収穫量。
糖分含有率。
労働力。
燃料。
輸入砂糖にかかる関税と輸送費を引けば。
十分、勝てる。
王都の商人ギルドは、南方航路を握っている。
だが彼らは、この地の根菜には興味を示さなかった。
寒い土地。
地味な芋。
貧しい北。
だからこそ、盲点だった。
私は改めて皿を見つめる。
たった一粒の結晶。
だがこの一粒が、流れを変える。
「精製を重ねます。白く、もっと白く」
「白く……?」
「ええ。王都の貴族が驚くほどに」
砂糖細工を誇示していた彼らに、北の砂糖を突きつける。
甘味を、利権から解放する。
やがて私は、厨房へ向かった。
小麦粉。
卵。
牛乳。
そして――自家製のてんさい糖。
まだ少量だが、試作には足りる。
生地に混ぜる。
泡立てる。
焼く。
ふわりと立ちのぼる甘い香り。
まだ膨らみは足りない。だが王都の硬いパンとは違う。
焼き上がったそれを、皿に乗せる。
表面に、てんさい糖のシロップを垂らす。
見た目は質素だ。
生クリームも、果実の飾りもない。
だが一口食べれば。
厨房長が、息を呑む。
「……甘い」
それは、北の地では初めて味わう種類の甘さだった。
安価で。
十分に甘く。
日常に届く味。
私はゆっくりと微笑む。
王都で絶望したカフェの夢。
それは、ここで形を持ち始めている。
寒さは敵ではなかった。
乾燥は欠点ではなかった。
北は、甘味の死地ではない。
むしろ。
甘味の揺りかごだ。
私は窓の外の灰色の空を見上げる。
やがてこの地は、こう呼ばれるだろう。
北のお菓子の国。
その始まりは、地味な根菜と、たった一粒の結晶。
芋女と笑われた私の。
最初の反撃である。
1
あなたにおすすめの小説
勝手に勘違いして、婚約破棄したあなたが悪い
猿喰 森繁
恋愛
「アリシア。婚約破棄をしてほしい」
「婚約破棄…ですか」
「君と僕とでは、やはり身分が違いすぎるんだ」
「やっぱり上流階級の人間は、上流階級同士でくっつくべきだと思うの。あなたもそう思わない?」
「はぁ…」
なんと返したら良いのか。
私の家は、一代貴族と言われている。いわゆる平民からの成り上がりである。
そんなわけで、没落貴族の息子と政略結婚ならぬ政略婚約をしていたが、その相手から婚約破棄をされてしまった。
理由は、私の家が事業に失敗して、莫大な借金を抱えてしまったからというものだった。
もちろん、そんなのは誰かが飛ばした噂でしかない。
それを律儀に信じてしまったというわけだ。
金の切れ目が縁の切れ目って、本当なのね。
旦那様、そんなに彼女が大切なら私は邸を出ていきます
おてんば松尾
恋愛
彼女は二十歳という若さで、領主の妻として領地と領民を守ってきた。二年後戦地から夫が戻ると、そこには見知らぬ女性の姿があった。連れ帰った親友の恋人とその子供の面倒を見続ける旦那様に、妻のソフィアはとうとう離婚届を突き付ける。
if 主人公の性格が変わります(元サヤ編になります)
※こちらの作品カクヨムにも掲載します
陛下を捨てた理由
甘糖むい
恋愛
美しく才能あふれる侯爵令嬢ジェニエルは、幼い頃から王子セオドールの婚約者として約束され、完璧な王妃教育を受けてきた。20歳で結婚した二人だったが、3年経っても子供に恵まれず、彼女には「問題がある」という噂が広がりはじめる始末。
そんな中、セオドールが「オリヴィア」という女性を王宮に連れてきたことで、夫婦の関係は一変し始める。
※改定、追加や修正を予告なくする場合がございます。ご了承ください。
ご安心を、2度とその手を求める事はありません
ポチ
恋愛
大好きな婚約者様。 ‘’愛してる‘’ その言葉私の宝物だった。例え貴方の気持ちが私から離れたとしても。お飾りの妻になるかもしれないとしても・・・
それでも、私は貴方を想っていたい。 独り過ごす刻もそれだけで幸せを感じられた。たった一つの希望
あなたが捨てた花冠と后の愛
小鳥遊 れいら
恋愛
幼き頃から皇后になるために育てられた公爵令嬢のリリィは婚約者であるレオナルド皇太子と相思相愛であった。
順調に愛を育み合った2人は結婚したが、なかなか子宝に恵まれなかった。。。
そんなある日、隣国から王女であるルチア様が側妃として嫁いでくることを相談なしに伝えられる。
リリィは強引に話をしてくるレオナルドに嫌悪感を抱くようになる。追い打ちをかけるような出来事が起き、愛ではなく未来の皇后として国を守っていくことに自分の人生をかけることをしていく。
そのためにリリィが取った行動とは何なのか。
リリィの心が離れてしまったレオナルドはどうしていくのか。
2人の未来はいかに···
白い結婚だったので、勝手に離婚しました。何か問題あります?
夢窓(ゆめまど)
恋愛
「――離婚届、受理されました。お疲れさまでした」
教会の事務官がそう言ったとき、私は心の底からこう思った。
ああ、これでようやく三年分の無視に終止符を打てるわ。
王命による“形式結婚”。
夫の顔も知らず、手紙もなし、戦地から帰ってきたという噂すらない。
だから、はい、離婚。勝手に。
白い結婚だったので、勝手に離婚しました。
何か問題あります?
虐げられた皇女は父の愛人とその娘に復讐する
ましゅぺちーの
恋愛
大陸一の大国ライドーン帝国の皇帝が崩御した。
その皇帝の子供である第一皇女シャーロットはこの時をずっと待っていた。
シャーロットの母親は今は亡き皇后陛下で皇帝とは政略結婚だった。
皇帝は皇后を蔑ろにし身分の低い女を愛妾として囲った。
やがてその愛妾には子供が生まれた。それが第二皇女プリシラである。
愛妾は皇帝の寵愛を笠に着てやりたい放題でプリシラも両親に甘やかされて我儘に育った。
今までは皇帝の寵愛があったからこそ好きにさせていたが、これからはそうもいかない。
シャーロットは愛妾とプリシラに対する復讐を実行に移す―
一部タイトルを変更しました。
平民の方が好きと言われた私は、あなたを愛することをやめました
天宮有
恋愛
公爵令嬢の私ルーナは、婚約者ラドン王子に「お前より平民の方が好きだ」と言われてしまう。
平民を新しい婚約者にするため、ラドン王子は私から婚約破棄を言い渡して欲しいようだ。
家族もラドン王子の酷さから納得して、言うとおり私の方から婚約を破棄した。
愛することをやめた結果、ラドン王子は後悔することとなる。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる