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第三十一話 甘味の学院
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第三十一話 甘味の学院
北の朝は静かだが、工房の煙突だけは早くから息をしている。白い蒸気が澄んだ空に立ちのぼり、凍てつく石畳に甘い香りが落ちる。私はその匂いを吸い込みながら、広場の一角に立てられた木札を見上げた。
――北糖製造学院 設立。
砂糖は奇跡ではない。奇跡のように見えるのは、体系化されていないからだ。偶然の発見や、誰か一人の閃きに頼れば、やがて止まる。止まれば、北はまた「辺境」に戻る。
「公爵令嬢様、本当に“学院”を?」
工房長が問う。
「ええ。製糖、乾燥管理、品質検査、粉体保存、そして焼成。全部、学問にします」
彼は目を丸くした。
「職人の勘と経験を、紙に?」
「勘は尊いですが、共有できなければ国にはなりません」
私は設計図を広げる。講義室、実験室、乾燥室、氷室の観測小屋。湿度計の目盛り、結晶の粒度を測る篩、ワイン澱から酒石酸を精製する小型装置。ベイキングパウダーの混合比を板書するための黒板まである。
入学希望者は想像以上だった。農家の次男、工房の娘、港の荷役人の息子。皆、白い粉の向こう側にある未来を見ている。
「読み書きが不安です」
「最初は計量から始めましょう。数字は嘘をつきません」
私は笑う。甘味は、算術と仲が良い。
開校式の日、王都からも視察団が来た。関税優遇と引き換えに、王家はこの学院を支援する。専売制は退けたが、協働は拒まない。甘味は独占よりも流通で輝く。
「湿度が高いと、粉はどうなりますか?」
最初の講義で私は問いかける。
「固まります」
「勝手に反応します」
答えが飛ぶ。
「正解。だから北は有利。低温で乾燥。天然の冷蔵庫。けれど、油断すればどこでも失敗します」
実験室で、卵白に砂糖を加え、メレンゲを立てる。重曹と酒石酸を混ぜた粉を加え、焼成。ふわり、と膨らむ。
硬いパンしかなかった世界に、ふわふわのパンケーキ。
見学に来た老職人が、ぽつりと呟く。
「……魔法だ」
「いいえ、手順です」
私は首を振る。魔法にすれば、再現性が失われる。再現性こそが産業だ。
授業は多岐にわたる。てんさいの糖度測定、煮詰め温度の管理、結晶の育て方。じゃがいもから取るデンプンの乾燥法。湿気を避ける瓶の改良。輸送用の乾燥パンケーキ粉の配合。
北の空気は冷たく、乾いている。結晶は白く締まり、乳は氷室で守られる。王都ではできない条件が、ここにはある。
昼休み、広場では学生が即席の屋台を出す。砂糖シロップのかかった薄焼き菓子。見た目は質素だが、甘い。
「庶民が買える値段で」
私は言う。
甘味は特権ではない。日常に降りるからこそ、力を持つ。
夕刻、父が訪れた。
「王都は焦っている。北が“学問”まで持ち始めたと」
「焦りは、真似の前兆です」
「真似されても良いのか?」
「良いのです。真似されるほど、私たちは先へ行きます」
父は笑う。
「お前は王冠を捨てたが、別の冠を被ったな」
「冠は不要です。ただ、仕組みを残したいだけ」
夜、学院の灯りが一つ、また一つと消える。黒板には今日の式が残る。
重曹:酒石酸:デンプン=1:2:1
湿度は三十%以下。乾燥三日。
白い粉は、誰のものでもない。だが、扱い方を知る者の味方だ。
翌朝、王都の新聞が届く。
――北のお菓子の国、学院設立。
私は記事を畳む。
甘味は国境を越え、いまや学問になった。産業は教育を生み、教育は未来を生む。
婚約破棄の日、私は価値を奪われた。
けれど今、私は価値を分け与えている。
甘味の学院。
それは白い砂糖よりも、長く残るものだ。
窓を開けると、冷たい空気が頬を撫でた。
「次は、保存ですわね」
長距離輸送でも湿気に負けない包装。遠方でも膨らむ粉。南方の気候でも溶けない砂糖。
北はもう、辺境ではない。
甘味の国は、知の国へと歩き出した。
北の朝は静かだが、工房の煙突だけは早くから息をしている。白い蒸気が澄んだ空に立ちのぼり、凍てつく石畳に甘い香りが落ちる。私はその匂いを吸い込みながら、広場の一角に立てられた木札を見上げた。
――北糖製造学院 設立。
砂糖は奇跡ではない。奇跡のように見えるのは、体系化されていないからだ。偶然の発見や、誰か一人の閃きに頼れば、やがて止まる。止まれば、北はまた「辺境」に戻る。
「公爵令嬢様、本当に“学院”を?」
工房長が問う。
「ええ。製糖、乾燥管理、品質検査、粉体保存、そして焼成。全部、学問にします」
彼は目を丸くした。
「職人の勘と経験を、紙に?」
「勘は尊いですが、共有できなければ国にはなりません」
私は設計図を広げる。講義室、実験室、乾燥室、氷室の観測小屋。湿度計の目盛り、結晶の粒度を測る篩、ワイン澱から酒石酸を精製する小型装置。ベイキングパウダーの混合比を板書するための黒板まである。
入学希望者は想像以上だった。農家の次男、工房の娘、港の荷役人の息子。皆、白い粉の向こう側にある未来を見ている。
「読み書きが不安です」
「最初は計量から始めましょう。数字は嘘をつきません」
私は笑う。甘味は、算術と仲が良い。
開校式の日、王都からも視察団が来た。関税優遇と引き換えに、王家はこの学院を支援する。専売制は退けたが、協働は拒まない。甘味は独占よりも流通で輝く。
「湿度が高いと、粉はどうなりますか?」
最初の講義で私は問いかける。
「固まります」
「勝手に反応します」
答えが飛ぶ。
「正解。だから北は有利。低温で乾燥。天然の冷蔵庫。けれど、油断すればどこでも失敗します」
実験室で、卵白に砂糖を加え、メレンゲを立てる。重曹と酒石酸を混ぜた粉を加え、焼成。ふわり、と膨らむ。
硬いパンしかなかった世界に、ふわふわのパンケーキ。
見学に来た老職人が、ぽつりと呟く。
「……魔法だ」
「いいえ、手順です」
私は首を振る。魔法にすれば、再現性が失われる。再現性こそが産業だ。
授業は多岐にわたる。てんさいの糖度測定、煮詰め温度の管理、結晶の育て方。じゃがいもから取るデンプンの乾燥法。湿気を避ける瓶の改良。輸送用の乾燥パンケーキ粉の配合。
北の空気は冷たく、乾いている。結晶は白く締まり、乳は氷室で守られる。王都ではできない条件が、ここにはある。
昼休み、広場では学生が即席の屋台を出す。砂糖シロップのかかった薄焼き菓子。見た目は質素だが、甘い。
「庶民が買える値段で」
私は言う。
甘味は特権ではない。日常に降りるからこそ、力を持つ。
夕刻、父が訪れた。
「王都は焦っている。北が“学問”まで持ち始めたと」
「焦りは、真似の前兆です」
「真似されても良いのか?」
「良いのです。真似されるほど、私たちは先へ行きます」
父は笑う。
「お前は王冠を捨てたが、別の冠を被ったな」
「冠は不要です。ただ、仕組みを残したいだけ」
夜、学院の灯りが一つ、また一つと消える。黒板には今日の式が残る。
重曹:酒石酸:デンプン=1:2:1
湿度は三十%以下。乾燥三日。
白い粉は、誰のものでもない。だが、扱い方を知る者の味方だ。
翌朝、王都の新聞が届く。
――北のお菓子の国、学院設立。
私は記事を畳む。
甘味は国境を越え、いまや学問になった。産業は教育を生み、教育は未来を生む。
婚約破棄の日、私は価値を奪われた。
けれど今、私は価値を分け与えている。
甘味の学院。
それは白い砂糖よりも、長く残るものだ。
窓を開けると、冷たい空気が頬を撫でた。
「次は、保存ですわね」
長距離輸送でも湿気に負けない包装。遠方でも膨らむ粉。南方の気候でも溶けない砂糖。
北はもう、辺境ではない。
甘味の国は、知の国へと歩き出した。
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