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第三十二話 湿度三十パーセントの野望
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第三十二話 湿度三十パーセントの野望
北の朝は澄み切っている。吐く息が白く、工房の窓は曇らない。私は温湿度計の針を確かめ、静かに頷いた。
「二十八。今日も理想的ですわ」
湿度三十パーセント以下――それが、粉を守る境界線だ。王都のしっとりした空気では、ベイキングパウダーはすぐに死ぬ。重曹と酒石酸が勝手に反応し、ただの白い灰になる。だが、ここでは違う。北風は乾き、冷気は天然の冷蔵庫となる。
「令嬢様、試作第二十七号、焼き上がりました」
若い職人が鉄板を運ぶ。ふわり、と膨らんだパンケーキ。表面は黄金色、内部はきめ細かい気泡。硬いパンしかなかった世界に、雲の断片のような柔らかさ。
私は指先で割る。湯気が立ち、甘い香りが広がる。
「合格。湿度対策の粉も安定しています」
この第二十七号は、遠方輸送を想定した“乾燥強化配合”。てんさい糖の結晶粒度を均一にし、じゃがいも澱粉を遮断剤として増量。粉体の流動性を保つため、乾燥室で三日寝かせる。手間はかかるが、王都の梅雨にも耐える。
「本当に、王都で売るのですか?」
工房長が低く問う。
「ええ。湿気の都で、湿気に勝つ粉を」
北は“条件が良い”から成功した。だが、それだけでは帝都の市場を取れない。条件が悪くても成功する仕組みを作る。それが、次の野望だ。
学院では新講座が始まっている。“粉体工学・初級”。名は仰々しいが、やることは地道だ。乾燥、篩分け、再結晶。ワイン樽の澱から酒石酸を精製し、再結晶の透明度を上げる。ガラス瓶の口に革と蜜蝋の封を施し、湿気を遮る。蜜蝋は高いが、砂糖で得た収益が背を押す。
「封緘の角度は三十度。空気の層を作るの」
私は学生の手を取って示す。白い粉は繊細だ。だが、繊細さを制御できれば、強い。
昼、広場に屋台が並ぶ。学院生の実習販売。北産てんさい糖のシロップをかけた薄焼き菓子、乾燥粉を使った即席スコーン。値札は王都の半分以下。甘味が日常に降りる音がする。
「……芋女が、国を変えたな」
かつての嘲りを、今は笑い話にできる。公爵芋の名はブランドとなり、ポテトチップは旅人の携行食になった。だが本流は、白い結晶だ。
夕刻、王都からの使者が到着する。黒い外套、湿気を帯びた空気を連れて。
「王都菓子組合より。北の粉の販売に関し、協議を」
私は応接室へ案内する。テーブルにはパンケーキ。彼は一口で目を見開いた。
「……柔らかい」
「湿度三十の恩恵ですわ」
「王都は五十五を下回りません」
「だからこそ、封緘と配合を改めました。第二十七号。三日間、王都の湿度で保管しても膨らみます」
使者は黙り込む。彼らは知っている。王都には“スイーツの出せるカフェ”がない。茶のみの店ばかり。生乳は傷み、砂糖は高く、粉は死ぬ。だからこそ、北は輝いた。
「価格は?」
「庶民が週に一度、甘味を買える程度に」
「……革命ですな」
「いいえ、流通です」
協議は長引いた。関税、独占、配合比の秘匿。私は譲るところと譲らぬところを分ける。専売は拒む。だが、共同の乾燥庫建設には協力する。王都にも“湿度三十の部屋”を作らせる。北の設計で。
夜、学院の屋上で星を見上げる。空気は澄み、遠くの氷室が月光を返す。
「令嬢様、南方への輸出船が出ます」
書記が報告する。南は湿度が高い。だが、封緘と配合がある。北で鍛えた粉は、遠くでも膨らむはずだ。
私は頷く。
「甘味は、気候に縛られない」
婚約破棄の日、王都は私に“居場所はない”と言った。ならば、居場所を作る。湿度を測り、温度を下げ、粉を守る。条件を整えれば、不可能は消える。
翌朝、新聞が届く。
――北の粉、王都に進出。
広場がざわめく。学院生たちが抱き合う。
「湿度三十の野望、成就ですわ」
私は微笑む。だが、野望はまだ続く。次は保存性のさらなる強化。長距離でも、季節が変わっても、膨らむ粉。
北のお菓子の国は、いまや“条件を設計する国”だ。
白い砂糖は、ただ甘いだけではない。冷たい空気と、乾いた風と、計量と、封緘と、学問の結晶。
私は階段を下り、工房へ戻る。第二十八号の試作が待っている。
甘味は、止まらない。
北の朝は澄み切っている。吐く息が白く、工房の窓は曇らない。私は温湿度計の針を確かめ、静かに頷いた。
「二十八。今日も理想的ですわ」
湿度三十パーセント以下――それが、粉を守る境界線だ。王都のしっとりした空気では、ベイキングパウダーはすぐに死ぬ。重曹と酒石酸が勝手に反応し、ただの白い灰になる。だが、ここでは違う。北風は乾き、冷気は天然の冷蔵庫となる。
「令嬢様、試作第二十七号、焼き上がりました」
若い職人が鉄板を運ぶ。ふわり、と膨らんだパンケーキ。表面は黄金色、内部はきめ細かい気泡。硬いパンしかなかった世界に、雲の断片のような柔らかさ。
私は指先で割る。湯気が立ち、甘い香りが広がる。
「合格。湿度対策の粉も安定しています」
この第二十七号は、遠方輸送を想定した“乾燥強化配合”。てんさい糖の結晶粒度を均一にし、じゃがいも澱粉を遮断剤として増量。粉体の流動性を保つため、乾燥室で三日寝かせる。手間はかかるが、王都の梅雨にも耐える。
「本当に、王都で売るのですか?」
工房長が低く問う。
「ええ。湿気の都で、湿気に勝つ粉を」
北は“条件が良い”から成功した。だが、それだけでは帝都の市場を取れない。条件が悪くても成功する仕組みを作る。それが、次の野望だ。
学院では新講座が始まっている。“粉体工学・初級”。名は仰々しいが、やることは地道だ。乾燥、篩分け、再結晶。ワイン樽の澱から酒石酸を精製し、再結晶の透明度を上げる。ガラス瓶の口に革と蜜蝋の封を施し、湿気を遮る。蜜蝋は高いが、砂糖で得た収益が背を押す。
「封緘の角度は三十度。空気の層を作るの」
私は学生の手を取って示す。白い粉は繊細だ。だが、繊細さを制御できれば、強い。
昼、広場に屋台が並ぶ。学院生の実習販売。北産てんさい糖のシロップをかけた薄焼き菓子、乾燥粉を使った即席スコーン。値札は王都の半分以下。甘味が日常に降りる音がする。
「……芋女が、国を変えたな」
かつての嘲りを、今は笑い話にできる。公爵芋の名はブランドとなり、ポテトチップは旅人の携行食になった。だが本流は、白い結晶だ。
夕刻、王都からの使者が到着する。黒い外套、湿気を帯びた空気を連れて。
「王都菓子組合より。北の粉の販売に関し、協議を」
私は応接室へ案内する。テーブルにはパンケーキ。彼は一口で目を見開いた。
「……柔らかい」
「湿度三十の恩恵ですわ」
「王都は五十五を下回りません」
「だからこそ、封緘と配合を改めました。第二十七号。三日間、王都の湿度で保管しても膨らみます」
使者は黙り込む。彼らは知っている。王都には“スイーツの出せるカフェ”がない。茶のみの店ばかり。生乳は傷み、砂糖は高く、粉は死ぬ。だからこそ、北は輝いた。
「価格は?」
「庶民が週に一度、甘味を買える程度に」
「……革命ですな」
「いいえ、流通です」
協議は長引いた。関税、独占、配合比の秘匿。私は譲るところと譲らぬところを分ける。専売は拒む。だが、共同の乾燥庫建設には協力する。王都にも“湿度三十の部屋”を作らせる。北の設計で。
夜、学院の屋上で星を見上げる。空気は澄み、遠くの氷室が月光を返す。
「令嬢様、南方への輸出船が出ます」
書記が報告する。南は湿度が高い。だが、封緘と配合がある。北で鍛えた粉は、遠くでも膨らむはずだ。
私は頷く。
「甘味は、気候に縛られない」
婚約破棄の日、王都は私に“居場所はない”と言った。ならば、居場所を作る。湿度を測り、温度を下げ、粉を守る。条件を整えれば、不可能は消える。
翌朝、新聞が届く。
――北の粉、王都に進出。
広場がざわめく。学院生たちが抱き合う。
「湿度三十の野望、成就ですわ」
私は微笑む。だが、野望はまだ続く。次は保存性のさらなる強化。長距離でも、季節が変わっても、膨らむ粉。
北のお菓子の国は、いまや“条件を設計する国”だ。
白い砂糖は、ただ甘いだけではない。冷たい空気と、乾いた風と、計量と、封緘と、学問の結晶。
私は階段を下り、工房へ戻る。第二十八号の試作が待っている。
甘味は、止まらない。
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