天正十年五月、安土にて

佐倉伸哉

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11. 五月十八日:信長と信忠

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 翌十八日。
 家康の饗応役には側近の長谷川秀一を充て、子飼いの小姓達は中国攻めの命令を伝える為に各自出立していった。その中には光秀の元へ送られた蘭丸も含まれている。小姓達を送り出した信長は、安土城でとある人物の来訪を待っていた。
 この日も安土は晴天に恵まれ、気候も穏やかであった。お気に入りの場所である天守の最上階で外の景色を眺めながら一人で時間を過ごす。
「お待たせ致しました」
 相手の声が聞こえると信長はそちらの方に顔を向けた。現れた人物を一瞥すると「うむ」と小さく応じる。
 待っていたのは―――嫡男・信忠。
 信長は目で向かいの椅子に座るよう促し、信忠もそれに従い腰を下ろす。そこで目線の高さがあまり変わらないことに信長は驚いた。並の人間より背が少し高いと自覚していたが、信忠も相応の背丈であった。普段は一段低い位置で座しているので気付かなかったし、特に意識して見ることもなかった。
 一方の信忠は信長の驚きも露と知らず、静かに椅子に座っている。呼ばれた理由は推察出来るはずなのに、信長の口から明かされるのを待っている様子だ。
 やがて観念したように信長は切り出した。
「昨日、備中の秀吉から毛利が動いたと使者が参った。この機を逃さず、決着をつける」
 そう伝えてもなお、信忠は表情を変えない。その反応に内心怒りを覚え、舌打ちしたくなる衝動を何とか堪えて続ける。
「直ちに岐阜へ戻り、戦支度を整えて安土に来い」
「……承知致しました」
 信忠は事務的な返事をするのみで、その態度がまた気に喰わない。光秀の堅苦しさにも腹が立つが、信忠の淡々と答える対応も癪に障る。自分の考えを明らかにせず、何を考えているのか腹の底が読めない。それが不気味であり、苛々する。
 仕事面ではこちらの思惑通りに動いてくれる忠実な家臣であり、実績も着実に残している。それなのにどうして俺は信忠に不満を覚えるのか。
 その理由を自分の中で追求して、ようやく答えに行き当たることが出来た。
「信忠よ。お前、俺の後を継ぐのだよな?」
 唐突に飛び出した質問に、信忠は困惑したような表情を浮かべる。
「はぁ……上様より家督を受け継いでおります故、左様に心得ておりますが」
 織田家の当主の座は既に信忠へ譲っているが、重要な事項については信長が実権を握っていた。天下統一の目標はまだ道半ばなので、隠居する気はさらさら無いのだが。
 しかし、信長の目から見て、信忠に天下人の資質があるか甚だ疑問だった。
 天下人となれば様々な難題に直面する。政はどうするか、家中はどう治めるか、帝や朝廷とはどう付き合っていくか。誰にも頼れず自分自身で意思決定していかなければいけない。現状でも信忠は家臣の意見を幅広く耳を傾けてから物事を総合的に判断しているのに、天下人の重責に果たして耐えられるか。
 高みへ向けて着実に歩みを進めている信長でさえ、天下人の重圧に苦しんでいた。まだ道半ばにも関わらず全てを投げ出してしまいたい衝動に駆られるのに、これから頂に到達したらどれだけの重さになるのか。まだ見当もつかないし、考えるだけで気が滅入る。
 敦盛の一節にあるように俺の寿命が五十年しか生きられないのであれば、あと一年で織田家は信忠が引き継ぐことになる。天下人となる意識があまりに希薄で重荷を背負っていく覚悟があるのかも疑わしい。そんな奴に後事を託すなど、御免蒙りたいものだ。
「俺が居なくなれば、お前が俺の代わりをしなければならない。それは分かっているな?」
「はい、それは承知しておりますが……」
 話の真意が読めず曖昧な返事に終始する信忠に、信長はさらに畳み掛ける。
「では訊ねるが、お前が天下人になったらこの国をどうするつもりだ!!」
 このまま無事に天下統一を成し遂げれば、俺が死んだ後は必然的に跡継ぎの信忠が次の天下人となる。この国の将来を民達に示していかなければいけない立場で、信忠は一体どういう形で導いていくつもりなのか。その気概を信長は質したかった。
 しかし、信忠の答えは信長にとって予想外のものだった。
「それはまだ申し上げられません」
 あまりに無責任な言動に怒号が喉まで上がってくるが、それを制して信忠は間髪入れず言葉を続ける。
「私はまだ、上様から天下布武を果たした後のことを伺っておりません。それを踏まえた上でお答え致します」
 思いがけない指摘に信長は言葉に詰まった。確かに、言われてみればその通りである。何人かには『こうありたい』と話した記憶はあるが、信忠に話していない。何も知らないのに叱責するのは筋が違う。
「……良かろう。ならば話してやる」
 信長は一度瞼を閉じて大きく息を吸い込み、静かに細く吐き出して心を整える。こちらも生半可な状態で伝えられない。ゆっくりと、ゆっくりと時間をかけて意識を集中する。
 そして覚悟が固まると目を開いて、信忠と正対して告げた。
「天下布武を果たした後は数年の準備期間を経て、異国へ兵を送る」
 まさか日ノ本を飛び出して海を渡るとは夢にも思っていなかったらしく、信忠は驚きで目を丸くした。
「信忠よ。異国では宣教師が切利支丹を増やした後に、本国から軍隊を送り込んでその国を乗っ取るやり方が横行しているそうだ」
「な……!」
 信長から明かされた衝撃の真実に、信忠は言葉を失った。
「まさか……奴等はあくまで布教が目的で、そんな魂胆を隠しているとは思えませぬが」
「その敬虔な聖職者が、裏で商人と通じて我が国の民を奴隷として送り出しているらしい」
 さらなる事実を突き付けられ、信忠は息を呑んだ。信長も苦々しく顔を歪める。
「皆、目先の利益にばかり目が眩んで奴等の本当の目的が見えておらぬ。隙を見せている者が悪いが、このまま放置しておけば近い将来に南蛮の属国へ成り下がってしまう。それだけは是が非でも避けなければならない」
「しかし、天下布武を成し遂げたとしても、兵や民が疲弊していては外敵に攻め込まれても対応出来ませんが」
「だからこそ、一刻も早く戦を終わらせて我が国を一つにまとめる。全国バラバラな暦も統一し、為替を固定し、非効率な市や座を廃し、関所を取り払う。国が潤う仕組みを日ノ本の隅々まで行き渡らせ、その間に大筒や鉄砲を大量生産させ、大船を建造させ、全てが万事次第に一気呵成で出撃する」
「なれど、我等が海を渡る大義は無いように思いますが……」
「相手が攻めて来るのを待っていれば、いつか必ず押し込まれる。我が国を守りたいのであれば一歩でも外へ出て戦う、これが織田の流儀ぞ」
 信長は尾張を治める地方大名の時代から、これまで一貫して領地の外に出て戦ってきた。攻め込まれれば例え相手を退けたとしても、損失ばかりで得るものは一つも無い。その行動哲学は現在に至るまで変わらず、天下人までのし上がった原動力となっていた。
「南蛮の者共がそうしたように、我等も大船を仕立てて攻勢に出る。それこそ我が国を守る唯一の手段だ」
 全て言い終えた信長は、胸の内に何とも言えぬ高揚感が満ちてくるのを感じた。こんなこと、初めての経験だ。
 こうして誰かに対して、この国の未来について真剣に語ったことは一度もない。ずっと一人で考え、一人で悩み、一人で答えを探し求めてきた。日ノ本でこれだけはっきりとした構想を抱いているのは俺以外に存在しないと自負している。
 天下布武はあくまで通過点に過ぎない。明日にも南蛮の軍隊を乗せた大船が大挙して押し寄せてくるかもしれないのだ。全ては、この国を守るためである。
 争いに敗れれば、その後に待っているのは悲惨な現実だ。女子は飢えた獣と化した男共に欲望の捌け口にされ、人民は家畜のように売買され、財産も穀物も根こそぎ奪われてしまう。狭い島国の中で行われている小競り合いでもこのような状況なのだから、外国に侵略されれば規模も比例して拡大するのは明白だ。
 そのような惨劇を防ぐ手立ては、ただ一つ。国全体が一丸となって他国からの侵略を撥ね返す力をつけることだ。早期の目標実現の為ならば、多少の犠牲もやむを得ない。
「……上様のお考えは、よく分かりました」
 信忠はそう言うと、口を閉ざしてしまった。よく見ると肩は強張り、小刻みに震えている。どうやら俺の苦しみの一端に触れたようだ。
 さて、俺の考えは包み隠さず話した。その上で、信忠はどういった答えを返してくるのか。それを楽しみに待っている自分が居て、とても不思議な気分だった。
 信忠は暫く俯き加減に考え込んでいたが、やがて意を決したように信長と正面から対峙した。
「真に壮大な計画だと思います。実現すれば我が国は海の向こうにも領地を有する、南蛮にも劣らない強くて豊かな国になりましょう」
 実の息子から絶賛され、率直に嬉しかった。信忠にも俺が思い描いているこの国の未来像が見えているのだ。共感を得られた喜びで、頬が緩むのが自分でも分かる。
「―――ですが」
 信忠はそこで一度言葉を区切ると、一つ呼吸を入れてからはっきりと告げる。
「私は、上様の夢を受け継ぐつもりはありません」
 信長は一瞬、何を言っているのか分からなかった。固まる信長に構わず、信忠はさらに続ける。
「長きに渡り戦乱の世が続いた影響で、人民は疲弊しきっています。私が後を継いだ後は、まず商いを奨励させ、荒れた田畑を蘇らせ、失った国力の回復を優先して行います」
「ならば、南蛮への手当ては如何する。明日にも海を埋め尽くす大船の軍団が押し寄せるかもしれないのだぞ。その対策こそ喫緊の課題ではないのか!」
 真っ向から反論されて、つい声を荒らげてしまった。こうして人と話して熱が入るのは……生まれて初めてのことかもしれない。振り返ってみれば、俺を慕い従ってくれる人は大勢居たが、同じ土俵に立って向き合う人間は存在しなかった。自分の思いを打ち明けたり、互いの夢について語れる、対等の立場で話し合える存在。それが齢四十九になって出来るとは夢にも思わなかった。しかも、相手は俺の息子だ。
 信長の短気、そして感情的になれば手を出す、場合によっては刀の柄に手を掛けることもあるのは家中の内外に広く知れ渡っている。怒れる信長を前にしても、信忠は動じることなく堂々と対峙する。
「なればこそ、国を豊かにして敵に付け入る隙を無くすことが先決です。敵も“与しにくい”と判断すれば、攻めることを躊躇しましょう。刃を隠しながら外国と上手に付き合うことこそ肝要と私は考えます」
 感情的にならず、それでいて思いの込もった熱弁を振るう。その振る舞いや受け答えに、信長は驚きを隠せなかった。
 これまでの信忠は自分が命令されるままに動くだけの駒とばかり思っていたが、いつの間にか具体的な方向性を内に秘め、それに見合うだけの見識を備え、この俺と同等に渡り合うまでに成長を遂げていた。その姿に信長はただただ驚かされた。
 正直、信忠を後継に指名したものの、期待より不安の方が圧倒的に大きかった。何を考えているのか分からず、資質も愚かでないだけで秀でているとも思えない。織田家の将来を託すことへの不安は常に抱いていたし、織田家が潰えないよう神経を使った。
そんな時、ある噂を耳にした。同盟相手の徳川家の嫡男・信康は『粗暴さはあるが、父をも凌ぐ器量の持ち主』と評判だと言う。俺自身も何度か対面したが、自らの若かりし頃と重なって見えることも度々あった。『いつか信康は信忠を上回る』、そう判断した俺は信康を危険分子と認定した。だが、相手は俺の長女の旦那であり、徳川の未来を担う将来有望な跡取り。簡単に手は出せない。
しかし……三年前、信康はその母・築山殿と共に武田家に内通しているという疑惑が浮上した。この機を逃さず、家康殿に信康の切腹を命じた。他家からの内政干渉ということで徳川家家中の反発も大きかったが、家康殿は要求を呑んで信康を切腹させた。
この一件で友好関係に亀裂が生じる可能性は低くなく、これがきっかけで徳川が敵に転じる最悪の事態も覚悟したが、家康殿はよく辛抱してくれた。その恩は表に出せないが、今でも心の底から感謝している。
 ただ、今なら自信を持って言い切れる。信忠を後継に指名した判断は正しかった。
「……俺の構想と比べれば一回りも二回りも小さくなることに、他人はお前を“愚か者”“軟弱者”と嘲笑するであろう。それでも良いのか?」
「構いませぬ。国を滅ぼして惨めな思いをするよりも、何も知らぬ者から汚名を着せられる方が余程マシにございます」
 きっぱり断言した信忠の瞳には、相当な覚悟と決意が強く表れていた。
 事業を伸張拡大していく時には協力や賛同する者は多くても、逆に統合縮小する時には非難や反発を表す者が多い。その道が正しいと信じたからには誰からも理解されず、自分一人で謂われない中傷とこの国の未来を背負うことになっても、敢えて至難な道を信忠は選んだ。頼りないとばかり思っていた信忠は、いつしか強固で揺るぎない心を身につけていた。
 次々と明るみになる息子の知らない一面に圧倒されていると、信忠はさらに言葉を重ねた。
「例えるならば……上様は壊す人、私は均す人。元からある物を壊していくのは莫大な気力と確固たる信念が必要とされますが、私にそれがあると思えません。されど、壊した後の片付けには、最後までやり遂げる根気一つあれば充分です。それくらいなら私のような凡愚な人間でも持ち合わせています。従って、身の丈を弁えて自分の器に合わせてやっていく所存」
 まだ二十六歳とは思えない、落ち着いた物言いだ。しかも私情を一切挟まず、それでいて自分を冷静かつ客観的に捉えている。
 俺みたいな変わり種は百万人に一人存在するか否かの稀有な特殊例だが、信忠みたいな奴は集団に必ず一人は居る。俺を親に持ちながら普遍な自分と対比して、資質の違いまで見極めるとは大した奴だ。
 そして何より凄いのは、その“普通”な所だ。癖のない個性だから他の者の個性を邪魔せず、逆に他人には違和感なく受け入れられる。それもまた一つの強みだと、今初めて気付かされた。
 俺とは系統が異なるが、信忠も天下を任せられる資質を有していた。悔しいが、その器量を認めなければいけない。
「……最後に一つ問う。お前が目指す国の姿は、どう映る?」
「万民が戦に怯えることなく、安心して暮らせる世が見えます」
 繁栄より平穏を望む、か。実に信忠らしい答えだ。世代の違いか、それとも歩んできた道のりの違いか。
 思い起こせば、俺は家督を継ぐ前から他人と戦ってきた。嘲笑する者を見返し、害する人に抗い、行く手を阻む者は倒した。俺という存在と価値が世の中で生き残る為に。争いの中で積み重ねてきた半生と表現して過言ではない。信忠の言葉を借りれば“壊してきた”人生だ。
 だが、壊した後には瓦礫や屑が塵芥となって堆積して散らかっている。例えるなら荒れ地を開墾しても石ころや木の根が残っている状態だ。実りを生み出す田畑へ変える為には余計な物を取り除き、土に栄養を与え、作物を育てる下地を整えなければいけない。それには単純に壊すよりも数倍手間も時間も労力も必要とされる。だが、誰かがやらなければ始まりは訪れない。その面倒で煙たがる仕事を、信忠は自ら手を上げるというのだ。
 何とも物好きな男だ……まぁ、俺が親だから酔狂な性格をしているのは当然か。
「良かろう。天下統一を果たした暁には、お前にこの国を任せる。自らが目指す理想へ向けてしかと励め」
「はっ、承りました」
 信忠は体を折り曲げて深々と頭を下げた。信長が信忠を自らの後継として認めた決定的瞬間だった。
 ……子とは親の知らない間に大きくなるのだな。目の前で平伏する息子の姿を眺めながら、信長はしみじみと実感していた。
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