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12. 五月十八日:夫婦水入らず、そして―――
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その日の夜。信長は一人天守の最上階で葡萄酒を飲んでいた。元々下戸で酒を飲んでも口を付ける程度だが、今宵は無性に酔いたい気分だった。
肴は置いていない。あるとすれば、昼間この国の未来について語り合った余韻か。外を眺めながら、ゆっくりと杯を傾ける。
葡萄酒には硝子製の無色透明なギヤマンの杯がよく映える。その見た目も洗練されて美しいが、眺めているだけでも遥か遠く先の南蛮に思いを馳せることが出来る。
一口葡萄酒を含むと、舌の上で果実の爽やかな風味とまろやかな酸味が広がる。南蛮からの渡来品でなかなか手に入らない品だが、清酒よりも飲みやすくて信長は好きだった。ふわふわとした気分なのは酒に酔っているのか、見果てぬ夢に酔っているからか。ただ、ここ暫くで一番心地いい。
「あらあら、珍しいですね」
一人の時間を満喫しているところに、濃姫が侍女を伴わず一人でふらっと入ってきた。
濃姫は自然な流れで信長の向かいにある椅子に腰を下ろした。その席は昼間信忠が座っていた場所だったな、と信長はぼんやりと考える。
「私もお相伴しても宜しいですか?」
おっとりとした口調で訊ねた濃姫に、信長は無言で首肯する。ちょうど一本目を空けたところだったので、小姓を呼んでギヤマンの杯と一緒に葡萄酒を持ってくるよう命じる。
届けられたギヤマンの杯を濃姫に手渡すと、信長は葡萄酒の栓を開けて濃姫の杯に注ぐ。
葡萄酒の赤紫色は血を連想するせいか嫌煙する者も多いが、濃姫は物怖じすることなく一息に飲み干した。男勝りな飲みっぷりに信長は惚れ惚れと眺めていた。
自らの杯にも葡萄酒を注いで一口飲むと、ポツリと呟いた。
「俺も、老いたわ」
先日の武田征伐から帰ってきた際も濃姫に同じ台詞を口にしたが、今回は前と比べてやや軽い感じだった。
「老いるのは嫌なことだとばかり思っていたが、案外楽しいのかもしれない」
杯を手の中で弄びながら呟くと、信長は杯に視線を向けながら続けた。
「今日、信忠と話し合った」
「はい」
「なかなか面白い議論を交わして、信忠に後事を託しても大丈夫だと分かった。すると、途端に肩の荷が少し軽くなった」
「それは良うございました」
濃姫がニコリと笑うと、信長も釣られて頬が緩んだ。葡萄酒を一口含むとさらに続けた。
「俺も今年四十九。この先どれだけ生きられるか分からんが、将来を担う者の為に何か残してやりたいという気持ちを初めて抱いた。無論、余生は好きなようにやらせてもらうが、後を継いだ者がやりやすいように下地は整えてやろうと思う」
自分は神でも仏でもなく、一人の人間だ。いつか必ず寿命が尽きる時が訪れる。老い先短い者が未来ある者のやりやすいように繋ぐのも、先達の役割だと気付いた。
そういえば父も俺を後継と決めたら、俺のやりたいようにさせてくれた。見えない所で俺が好き勝手出来るよう配慮していたのかと考えると、感慨深い気分になる。
「それで宜しいと存じます」
濃姫は鷹揚に応えた。葡萄酒を一口含むと果実の甘味と酸味が口の中で弾けた。
毛利を従えれば、その先に梃子摺りそうなのは九州の島津のみ。それでも、秀吉に中国筋の兵を授ければ二年程で片付けてくれるだろう。四国も渡海して足場固めを済ませればあっという間に平らげられる。北陸の上杉は風前の灯、関東の北条も辞を低くして接してくるから条件次第で配下同然に扱える。そう考えれば、東国は奥羽を残すのみ。中国で秀吉と光秀を争わせたように勝家と一益を競わせれば、東国も早く片付けられる。全て換算すれば早くて三年、遅くとも十年以内には天下布武を果たせる。
天下布武を成し遂げた後は、全国津々浦々に楽市楽座を広め、暦から貨幣、枡に至るまでバラバラになっている仕様を統一。差異のある価値を共通にして、売買を円滑に行えるように改めよう。関も廃して水運の通行料も禁じれば、人や物の行き来が活発になる。商いを奨励させて庶民に戦乱の世が終結したことを印象付ければ、固く締めていた財布の紐を緩めて銭を使うようになる。新たな銭で商いは盛んになり、実入りも増えて生活も豊かになる。利益から利益を生む好循環が整うわけだ。
その為には、今の段階から先を見据えて動かなければいけない。貨幣や枡の規格は豪商に協力を求めれば何とかなるが、問題は宮中の役人が管轄である暦だ。旧来のやり方を頑なに踏襲するばかりで改善しようという気概すら持たない無能者の集まりと言っていい。宣教師の話では南蛮では我が国で使われているものとは全く異なるやり方を用いているとか、唐でも以前から使われているものを誤差が少ないやり方に改善が進んでいると聞く。古くから非効率な方法を革新する意思を強く示さなければいけない。……今度上洛する際に帝へ上申してみるか。
「そういえば、濃は京を見たことはあったか?」
ふと思いついたことを聞いてみると、濃姫は静かに首を振った。
「いいえ。私は清洲と岐阜と安土だけですね」
「……何処か行ってみたい場所はあるか?」
まずい質問をしたと思い信長は尋ねると、濃姫は即答した。
「私は上様と一緒の世界を見れるだけで満足です」
真っ直ぐな言葉で返されて信長は頬を赤らめる。色白な肌に朱が差すと一目で分かる。
そう言われると、濃姫が知らない世界を見せてあげたくなるではないか。
「……ならば、その望みを叶えてやろう」
杯に残っていた葡萄酒を一気に呷ると、濃姫の瞳を見つめながら続けた。
「まず手始めに、京だ。千年王都と呼ばれるだけあって、流れる水や薫る風も趣を感じられる。毛利攻めから戻ったら必ず招く」
「まあ。そのお言葉、信じていいのですか?」
思いがけない提案に目を輝かせる濃姫に、信長は力強く頷く。
「当然だ。俺がこれまで約束を違えたことがあったか?」
聞かれて、濃姫は首を振る。思い返せば、信長は濃姫が嫁いできてから、ずっと約束したことは絶対に守ってきた。公的には伊勢長島一揆の際に偽りの誓約を結んで皆殺しにしたが、私的な時に限れば交わした約束は必ず果たしてきた。世間では信長を冷酷と評するけれど、付き合ってみれば温かみのある優しくて律儀な人だと濃姫は思う。
政略結婚という形で濃姫が織田家にやって来て間もない頃、信長は意識して濃姫の部屋へ足繁く通った。市中の噂や馬鹿話を仕入れてきては身振り手振りを交えて話したり、遠乗りの途中で見つけた可憐な野花を摘んで渡したり。今となっては、良い思い出だ。
「待っておれ、濃。毛利攻めから帰ってきたら、俺は一旦骨休めする。その時は必ず濃が知らない世界を見せてやるからな」
はっきり宣言した信長は、不意に濃姫の顔に急接近して―――優しく唇を重ねた。
事後にどうして俺はこんな衝動的な行為をしたのか、自分でもよく分からなかった。
「南蛮では愛する者に接吻すると聞く……嫌だったか?」
「いえ、まだ上様から愛されていると思い、濃は嬉しゅうございます」
直後、瞬く間に信長の顔は真っ赤に染まった。葡萄酒を呷った酔いが急激に現れたものではないのは明白だった。
初な反応に濃姫は「うふふふふ」と楽しそうに笑う声が、二人だけの部屋に響いていた。
五月二十九日、信長は合流した信忠の兵と共に安土を出発。この時、信長の手勢はおよそ百人、信忠の手勢も二千程度と、普段と比べて極端に少なかった。
信長一行は琵琶湖を船で横断して当日中に上洛、宿所の本能寺へ入った。本能寺は法華宗の寺であるが、信長が毎回京都を訪れた際に滞在する為、堅牢な造りに改装されていた。
翌六月一日には朝廷へ参内。予め武家伝奏の勧修寺晴豊にその旨を伝えてあった。帝と対面した際に、全国各地で使われている暦を一つに統一するよう要請した。これはこの先の天下統一を果たした後のことを見据えての提言であった。一方で、帝や公家衆は信長から突然の要請に困惑した……とされる。
そして日付は変わり、信長にとって運命の日を迎える―――
(了)
肴は置いていない。あるとすれば、昼間この国の未来について語り合った余韻か。外を眺めながら、ゆっくりと杯を傾ける。
葡萄酒には硝子製の無色透明なギヤマンの杯がよく映える。その見た目も洗練されて美しいが、眺めているだけでも遥か遠く先の南蛮に思いを馳せることが出来る。
一口葡萄酒を含むと、舌の上で果実の爽やかな風味とまろやかな酸味が広がる。南蛮からの渡来品でなかなか手に入らない品だが、清酒よりも飲みやすくて信長は好きだった。ふわふわとした気分なのは酒に酔っているのか、見果てぬ夢に酔っているからか。ただ、ここ暫くで一番心地いい。
「あらあら、珍しいですね」
一人の時間を満喫しているところに、濃姫が侍女を伴わず一人でふらっと入ってきた。
濃姫は自然な流れで信長の向かいにある椅子に腰を下ろした。その席は昼間信忠が座っていた場所だったな、と信長はぼんやりと考える。
「私もお相伴しても宜しいですか?」
おっとりとした口調で訊ねた濃姫に、信長は無言で首肯する。ちょうど一本目を空けたところだったので、小姓を呼んでギヤマンの杯と一緒に葡萄酒を持ってくるよう命じる。
届けられたギヤマンの杯を濃姫に手渡すと、信長は葡萄酒の栓を開けて濃姫の杯に注ぐ。
葡萄酒の赤紫色は血を連想するせいか嫌煙する者も多いが、濃姫は物怖じすることなく一息に飲み干した。男勝りな飲みっぷりに信長は惚れ惚れと眺めていた。
自らの杯にも葡萄酒を注いで一口飲むと、ポツリと呟いた。
「俺も、老いたわ」
先日の武田征伐から帰ってきた際も濃姫に同じ台詞を口にしたが、今回は前と比べてやや軽い感じだった。
「老いるのは嫌なことだとばかり思っていたが、案外楽しいのかもしれない」
杯を手の中で弄びながら呟くと、信長は杯に視線を向けながら続けた。
「今日、信忠と話し合った」
「はい」
「なかなか面白い議論を交わして、信忠に後事を託しても大丈夫だと分かった。すると、途端に肩の荷が少し軽くなった」
「それは良うございました」
濃姫がニコリと笑うと、信長も釣られて頬が緩んだ。葡萄酒を一口含むとさらに続けた。
「俺も今年四十九。この先どれだけ生きられるか分からんが、将来を担う者の為に何か残してやりたいという気持ちを初めて抱いた。無論、余生は好きなようにやらせてもらうが、後を継いだ者がやりやすいように下地は整えてやろうと思う」
自分は神でも仏でもなく、一人の人間だ。いつか必ず寿命が尽きる時が訪れる。老い先短い者が未来ある者のやりやすいように繋ぐのも、先達の役割だと気付いた。
そういえば父も俺を後継と決めたら、俺のやりたいようにさせてくれた。見えない所で俺が好き勝手出来るよう配慮していたのかと考えると、感慨深い気分になる。
「それで宜しいと存じます」
濃姫は鷹揚に応えた。葡萄酒を一口含むと果実の甘味と酸味が口の中で弾けた。
毛利を従えれば、その先に梃子摺りそうなのは九州の島津のみ。それでも、秀吉に中国筋の兵を授ければ二年程で片付けてくれるだろう。四国も渡海して足場固めを済ませればあっという間に平らげられる。北陸の上杉は風前の灯、関東の北条も辞を低くして接してくるから条件次第で配下同然に扱える。そう考えれば、東国は奥羽を残すのみ。中国で秀吉と光秀を争わせたように勝家と一益を競わせれば、東国も早く片付けられる。全て換算すれば早くて三年、遅くとも十年以内には天下布武を果たせる。
天下布武を成し遂げた後は、全国津々浦々に楽市楽座を広め、暦から貨幣、枡に至るまでバラバラになっている仕様を統一。差異のある価値を共通にして、売買を円滑に行えるように改めよう。関も廃して水運の通行料も禁じれば、人や物の行き来が活発になる。商いを奨励させて庶民に戦乱の世が終結したことを印象付ければ、固く締めていた財布の紐を緩めて銭を使うようになる。新たな銭で商いは盛んになり、実入りも増えて生活も豊かになる。利益から利益を生む好循環が整うわけだ。
その為には、今の段階から先を見据えて動かなければいけない。貨幣や枡の規格は豪商に協力を求めれば何とかなるが、問題は宮中の役人が管轄である暦だ。旧来のやり方を頑なに踏襲するばかりで改善しようという気概すら持たない無能者の集まりと言っていい。宣教師の話では南蛮では我が国で使われているものとは全く異なるやり方を用いているとか、唐でも以前から使われているものを誤差が少ないやり方に改善が進んでいると聞く。古くから非効率な方法を革新する意思を強く示さなければいけない。……今度上洛する際に帝へ上申してみるか。
「そういえば、濃は京を見たことはあったか?」
ふと思いついたことを聞いてみると、濃姫は静かに首を振った。
「いいえ。私は清洲と岐阜と安土だけですね」
「……何処か行ってみたい場所はあるか?」
まずい質問をしたと思い信長は尋ねると、濃姫は即答した。
「私は上様と一緒の世界を見れるだけで満足です」
真っ直ぐな言葉で返されて信長は頬を赤らめる。色白な肌に朱が差すと一目で分かる。
そう言われると、濃姫が知らない世界を見せてあげたくなるではないか。
「……ならば、その望みを叶えてやろう」
杯に残っていた葡萄酒を一気に呷ると、濃姫の瞳を見つめながら続けた。
「まず手始めに、京だ。千年王都と呼ばれるだけあって、流れる水や薫る風も趣を感じられる。毛利攻めから戻ったら必ず招く」
「まあ。そのお言葉、信じていいのですか?」
思いがけない提案に目を輝かせる濃姫に、信長は力強く頷く。
「当然だ。俺がこれまで約束を違えたことがあったか?」
聞かれて、濃姫は首を振る。思い返せば、信長は濃姫が嫁いできてから、ずっと約束したことは絶対に守ってきた。公的には伊勢長島一揆の際に偽りの誓約を結んで皆殺しにしたが、私的な時に限れば交わした約束は必ず果たしてきた。世間では信長を冷酷と評するけれど、付き合ってみれば温かみのある優しくて律儀な人だと濃姫は思う。
政略結婚という形で濃姫が織田家にやって来て間もない頃、信長は意識して濃姫の部屋へ足繁く通った。市中の噂や馬鹿話を仕入れてきては身振り手振りを交えて話したり、遠乗りの途中で見つけた可憐な野花を摘んで渡したり。今となっては、良い思い出だ。
「待っておれ、濃。毛利攻めから帰ってきたら、俺は一旦骨休めする。その時は必ず濃が知らない世界を見せてやるからな」
はっきり宣言した信長は、不意に濃姫の顔に急接近して―――優しく唇を重ねた。
事後にどうして俺はこんな衝動的な行為をしたのか、自分でもよく分からなかった。
「南蛮では愛する者に接吻すると聞く……嫌だったか?」
「いえ、まだ上様から愛されていると思い、濃は嬉しゅうございます」
直後、瞬く間に信長の顔は真っ赤に染まった。葡萄酒を呷った酔いが急激に現れたものではないのは明白だった。
初な反応に濃姫は「うふふふふ」と楽しそうに笑う声が、二人だけの部屋に響いていた。
五月二十九日、信長は合流した信忠の兵と共に安土を出発。この時、信長の手勢はおよそ百人、信忠の手勢も二千程度と、普段と比べて極端に少なかった。
信長一行は琵琶湖を船で横断して当日中に上洛、宿所の本能寺へ入った。本能寺は法華宗の寺であるが、信長が毎回京都を訪れた際に滞在する為、堅牢な造りに改装されていた。
翌六月一日には朝廷へ参内。予め武家伝奏の勧修寺晴豊にその旨を伝えてあった。帝と対面した際に、全国各地で使われている暦を一つに統一するよう要請した。これはこの先の天下統一を果たした後のことを見据えての提言であった。一方で、帝や公家衆は信長から突然の要請に困惑した……とされる。
そして日付は変わり、信長にとって運命の日を迎える―――
(了)
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