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序章
しおりを挟む視界はどす黒く濁っていた。それが雨のせいか、頭から流れる血のせいかはわからない。
「いたぞ、追え!」
「断じて逃すな!」
「十野は裏切り者だ!全員殺せ!」
蓮が持つ刀は血で赤く染まり、毒のついた手裏剣はあたりに散らばっていた。苦無はどこに行っただろうか。最後の武器を砂利に投げ捨て、膝をついた。
「十野の生き残りは、貴様で最後よ。この松河家を裏切った罪、その命で償え」
「……知らない。償うも、拙は、拙ら十野は……裏切ってなど……っ」
血と水が溜まる地面に膝をつかされる。頭を踏まれ、口に入った、泥水に咽せた。
腕は縄できつく結ばれ、周囲には数十の武人が刀を構えている。逃げるという選択肢はない。里も、同胞たちも皆、無残に殺された。逃げたとしても、もう自分の居場所はどこにもないのだ。
無力。体を起こす力すらもうない。
髪を捕まれ、刀が首に添えられ、蓮は目を瞑った。変な真似はするなよ、と男が言う。その声は少し震えていた。ここにいる人間たちのことはよく知っている。それであれば自分のことも知っているのだろう。十野が今までなにをしてきたか、蓮という男がどういう存在なのか。
十野は松河に忠実な忍。蓮はその中でも最悪だった。命じられるがままに、感情もなく殺す。十野の中でも汚れ仕事に長けた男だった。色素の薄い髪と赤みを帯びた瞳、色白の肌に痩身。背もそれほど高いわけではない。蓮という男がここまで若いと知っていたのは十野の主である、松河の城主くらいだろう。
「今更、逃げはしない。理由もない。こんな命でよければ、あげよう。でも、最後に教えてよ。誰が、十野が裏切ったと、言ったのか」
「ふ、死人に教えて何になる。……やれ」
男の声は嘲笑が含まれていた。周囲の者たちからも卑下た声が漏れる。「親方さまが裏切ったと言ったのだ」「邪魔だから消される」「出る杭は打たれる」――彼らは、蓮には聞こえていないと、そう思っているのだろう。
息を吐いて、腹を括る。もう良い。この世に未練はない。守るべきものもない。最初から、何も持っていなかったのだ。
十野は蓮を殺戮人形としてしか見ていなかった。良いように使われて、使えなくなったら処分される。戦が本格化してからは、感情を殺して、ずっと血に塗れていた。笑った記憶もなく、泣いた記憶もない。
どうせなら、この首掻っ切ってやろうか。そう思ったが刀は投げ捨ててしまった。
雨の空を鴉が飛んだ。その鳴き声は早く死ねとでも言っているようで自嘲する。
その羽ばたきを見ていると、ふと、声を思い出した。何故この声が、言葉が脳裏に浮かぶのか。走馬灯というやつなのだろうか。
『蓮、我の名を呼べ。必ずや、お前の元に現れ、力になろう』
風変わりな少年の、落ち着いた声。彼に会ったのは何年も前だ。ほんの少しの間一緒にいただけで、最近は思い出すこともなかったというのに。
今となってはその記憶は幻のようだ。
呼んだところで、戦場に現れることなど皆無だろう。それでも。最後にその名を口にする。
「――宵藍(しょうらん)」
その名は、雨音に消されることなく広がった。
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