つれづれなるおやつ

蒼真まこ

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兄とソフトクリーム

きっと大丈夫

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 襖の向こうから、いがみ合う声が聞こえる。
 2DKのアパートで、父と母がケンカしているのだ。

 父と母がケンカを始めると、物が飛び交い始めるので、私と兄は押し入れに避難する。
 押し入れなら、布団をかぶることで音を遮断できるからだ。

 ガチャンという音と共に、襖に何かがぶつけられた。襖が大きく揺れている。
 声が聞こえにくいといっても、押し入れのほうにも物は飛んでくるから、衝撃が伝わってこないわけではない。

「お兄ちゃん、怖いよぅ」
「大丈夫だ。兄ちゃんがいる。じっとしてれば収まるから」

 兄の言う通り、しばらくすると近くの部屋から声がうるさいという苦情が入り、父と母はやむなくケンカを止めることになる。
 罵声が聞こえなくなった頃を見計らって、私と兄は押し入れからそっと抜け出す。あちこちに物が散乱した家は居心地が良いとは言えず、私と兄は身を寄せ合うように隅で座っていた。
 父と母は互いの姿が目に入らないよう、できる限り距離を置いている様子だった。
 ケンカを止めたといっても、父と母が仲直りしたわけではなく、狭いアパート内で冷戦状態なのだ。

「七海、絵本読んでやろうか?」
「うん……」

 泣きそうになっている私を見かねたのか、兄が私に絵本を読み始めてくれた。何度も何度も読んでもらった絵本だったが、それでも私は嬉しかった。

「……おい、うるせぇぞ。もう少し声を小さくしろ」

 突然、ぞっとするほど冷たい声が響いた。私と兄の体が、びくりと揺れた。いまだ怒りが収まらない父が発した声だった。

「七海に、本を読んでやってるだけ、だよ」
「そんなことはわかってんだよっ! ただ、もう少し小さい声でやってくれって言ってんだ。おまえの声が、頭に響くんだよ、ガンガンとな」

 なぜ兄の声が父の頭に響くのか、当時の私にはわからなかった。
 兄は美人と評判だった母によく似ていたから、母への苛立ちを兄にぶつけていたのかもしれない。

「わかった。小声でやる……」

 ささやくように、兄は絵本を読み始めた。絵本をもつ兄の手はかすかに震え、その目には涙がたまっている。
 どう声をかけていいのかわからず、私は兄の服の端をそっとつまむことしかできなかった。

 
 父や母に八つ当たりされることはあったけれど、両親にぶたれたりすることはなかった。それがせめてもの救いだったかもしれない。


 家にいても気が休まらないせいか、私と兄は外にいることが多かった。父や母の仕事が休みになる日曜日は、わずかなお昼ご飯代をもらって、ほぼ一日中外にいたと思う。気晴らしとばかりに、両親も外に出掛けてしまうからだ。

 お昼は安いパンやおにぎりなどで済ませ、残ったお金でおじさんの売店に行き、ソフトクリームを買った。

「七海、見ろ。今日のソフトクリームも変な形だぞぅ!」
「ほんとだぁ!」

 妙な形のソフトクリームを受けとっては、兄と一緒に大笑いする。
 ソフトクリームを作ったおじさんは、小さな売店の中で、恥ずかしそうに笑っている。
 おじさんが作る、いびつな形状のソフトクリームは形がいつも違い、何度購入しても飽きないのだ。おまけに、そのおかしな形ゆえに量が多めなので、子ども二人で分け合っても十分楽しむことができる。
 おじさんの作るソフトクリームは、その頃の私と兄にとって、ただひとつの救いだった。

「お兄ちゃん、今日のソフトクリームは、ながいお首をひょろんと下に曲げたキリンさんみたいだね」

 細長く伸びた部分が、キリンの首のように見えた。太陽の光を浴びて、てろりと曲がっている。

「キリンかぁ。確かにそんな風に見えるな」
「でしょぉ?」

 兄も同じように感じていたことが嬉しくて、得意気に小さな胸を張る。

「キリンはいいなぁ……。ながーい首を空に伸ばせば、嫌なことを見なくていいもんな」

 兄は青い空を眺め、ぽつりと呟いた。
 高みを求めて遥か遠くを見つめる兄の顔は、今にも飛んでいってしまいそうだった。
 不安になった私は、兄の手を必死につかみ取る。
 兄の背中に翼が生えて、羽ばたいていくと思ったのだ。人間が空を飛べるはずもないのに。

「どうした、七海」
「お兄ちゃん、どこにもいかないよね? 七海をおいていかないよね?」
「七海……」

 兄の航は、私の顔を黙って見つめている。いつもならすぐに笑ってくれるのに、その日はなぜか黙ったままだった。

「大丈夫」

 しばらくして、兄はやや小さな声で答えてくれた。笑顔はなかった。

「きっと大丈夫だ、七海」

 何が大丈夫なのか、幼い私にはわからなかった。

「うん……」

 兄は私を見てはいなかった。青い空を見つめたままだった。
 「きっと大丈夫」という言葉にすがるように、私は兄の体にしがみつくことしかできなかった。

 

 
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