つれづれなるおやつ

蒼真まこ

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兄とソフトクリーム

兄との別れ

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 ほどなくして、兄は母と共にアパートから引っ越していくことになった。
 父と母はケンカすることなく、互いに協力しながら出発の準備をしている。
 常に助け合う父と母だったら、私と兄も離れなくてよかったのに……。やるせない思いで両親を見つめていた。
 お母さんの手助けをしながら、兄は黙々と荷物を運んでいる。

 兄のことを「大嫌い」と言ってしまった手前、引っ越しの手伝いをする気になれなかった私は、押し入れの中に隠れていた。
 少なくなった布団の中に潜り込み、その暖かさにまどろんでいると、私を呼ぶ声が聞こえた。

「七海」

 兄が、私を呼ぶ声だった。聞き慣れた優しい声。いつもなら、すぐに飛び出していくのに。

「七海、そのままでいいから聞いてくれ」

 兄は私を、追い入れから無理に引っぱりだそうとはしなかった。

「七海、兄ちゃんはもう行くことになったから、最後に伝えておく」

「最後」という言葉に、体がぞくりとした。幼い私には、馴染みのない言葉だったから。

「七海、この間はごめんな」

 私のことを初めて怒った日のことだろうか。あの日以来、私と兄は共に過ごすことはなくなっていた。
 不思議に思っていると、押し入れの向こうから、聞き取れないほど小さな声で兄はささやいた。

「兄ちゃんは、七海のこと……だよ。じゃあな」

 なに? お兄ちゃんは私に、なにを伝えようとしたの?
 七海には、聞こえなかったよ、お兄ちゃん。

 兄が去っていく足音が聞こえる。

 お兄ちゃんが私に何を言おうとしたのか聞きたくて、慌ててふすまを開けようとした。ところが、ひとりだけの力では内側からうまく開けられず、ふすまをがたがたと揺らすだけとなってしまった。ようやく開けれたときには、兄の姿はとっくに消えていた。

「お兄ちゃんっ!」

 靴を履くことも忘れ、慌ててアパートの外へ飛び出した。
 走りながら周囲を見渡すと、道路を走るトラックが見えた。テレビのCMで見る、引っ越し社のマークがついている。その後に続くように、タクシーが走っているのを確認できた。
 あれだ、あれにお兄ちゃんが乗っているんだ。

「お兄ちゃん、まって!」

 無我夢中で駆けだした。かけっこは苦手だけれど、今はそんなこと気にしている場合ではない。
 右足と左足を前後に動かし、力の限り走った。息が苦しくなるほど懸命に走ったのは、その時が生まれて初めてだった。

「あっ!」

 しばらく必死に走っていたが、曲がり角のところですてんと転んでしまった。

「いた……」

 右の膝がじんと痛んだ。そっと確認すると、たらりと血が流れている。それでも兄を追いかけようとしたが、なぜか立てなかった。

「え……?」

 素足で外に飛び出し走ってしまったせいで、足の裏があちこち擦りむけて血が出ている。立とうとすると血で足が滑るのだ。どうにか立とうとしたが、痛みでもう起き上がることができなかった。

「いたいよぅ、お兄ちゃん」

 いつもなら兄が私を助けにきてくれるのに。
 ほら、乗りなって背中を向けてくれるのに。

「おにいちゃん、血がでてるよ。たすけてよぉ……おにいちゃん……」

 頼もしい兄の背中はここにはない。差し伸べてくれる手も、優しい笑顔もない。

「おにいちゃぁぁん」

 道路に寝そべり、兄を呼びながら泣いた。呼び続ければ、優しい兄はきっと来てくれると願いながら。
 けれど兄は来てはくれなかった。どれだけ泣いても叫んでも、兄は戻ってきてくれなかった。

「おにい、ちゃん……」

 道路で泣き叫ぶ私を助けてくれたのは、兄ではなく父だった。ダンゴムシのように丸くなった状態で泣き続ける私を抱き上げてくれたのだ。
 お父さんはきっと私を叱るだろうと思った。父はいつだって、怒ってばかりだったから。
 ところがお父さんは私を怒ったりしなかった。黙って私を連れ帰り、静かにケガの手当てをしてくれた。包帯でぐるぐる巻かれた状態だったので、上手な手当てとはいえなかったが、父の思いは感じられた気がした。

「七海は、お父さんと一緒に暮らそうな」
「うん……」

 黙ってうなずくことしかできなかった。

 兄はもう私を守ってくれない。だってお兄ちゃんは私のことを、大嫌いと言ったのだもの。

「私がわがままだから、お兄ちゃんは七海を嫌いになったんだ」

 父と暮らすことになった私は、お父さんにまで嫌われないように気をつけた。わがままは一切言わないようにしたのだ。
 父の言うことは何でも素直に従い、笑顔で家の手伝いをした。学校の勉強もひとりで頑張った。おかげで学校の成績は常に良く、父は私を怒ったりはしなかった。

「七海はいい子だなぁ。さすがはお父さんの娘だ」

 父にほめられることが、私のただひとつの誇りだった。

 父が仕事でいない間は、家でひとりで過ごす。
 新しい家の中では怒鳴り声もケンカする声も聞こえなかったけれど、代わりに何の音も感じられなかった。しんと静まり返った家の中は、不気味なほど静かで、恐怖と孤独感で体が震えてくる。

「我慢しなきゃ。わがままいったら、お父さんにも嫌われる。お兄ちゃんみたいに……」

 兄の航のことを思い出すと、涙がじわりとあふれてくる。兄とはもう、何年も会ってない。

「お兄ちゃん……」

 兄がここにいてくれたら、どれだけ良かっただろう。絵本を読んでくれたお兄ちゃんの声が懐かしい。

「勉強するんだ。もっとお父さんにほめてもらうために」

 涙を手で拭いとり、ひとりで勉強を続けた。


     *


 私が中学生になった頃、父は再婚を決めた。
 付き合っていた女性との間に子どもができたという。
 これからは会ったこともない女性を、「お母さん」と呼び、共に暮らさなくてはいけないのだ。

「おめでとう、お父さん」

 本当は嫌だった。父と二人だけの生活を続けたかった。そうしたらいつか、お兄ちゃんが来てくれるかもしれないもの。

「ありがとうな、七海。おまえなら、そう言ってくれると思ったんだ」

 父の笑顔を曇らせてはいけない。お父さんが不愉快な気分になったら、きっと怒りだしてしまう。幼い頃に母とケンカしていたように。
 
 いつしか私は、自分の本当の思いを笑顔で隠すことだけ上手くなってしまった。
 どれだけ嫌なことがあっても、辛いことがおきても、笑顔でやり過ごせば、いずれ平気になる。涙を流すことがあっても、いずれ乾いてしまうことも経験で知った。永遠に泣き続けることなんて、できやしない。
 心の痛みも悲しみも、いずれ忘れてしまうんだ。

 新しい母親がやってきた我が家は、急に明るい家となった。
 私の義姉妹となる妹が生まれ、父と新しい母親が幼い妹を溺愛したのだ。
 父が私をほめることもなくなり、私は家の中でひとりで過ごすことが多くなった。

「別にいいよ。今までだって、ひとりだったし」

 新しい母親は私を邪険にしたりはしなかったけれど、特に興味もない様子だった。食事の支度や家事をしてくれたから、それだけでも良かったかもしれない。
 新しいお母さんとは一定の距離を保ちながらも、表面上は問題のない家族として共に暮らした。

 大学受験を見据え、本格的に受験勉強を始めようとした頃、お父さんに告げた。

「お父さん。私、大学生になったら一人暮らしを始めてもいいかな?」

 父は、「そうか」とだけ答えた。反対することも、引き留めることもなかった。
 お父さんはもう私には興味がないのだろう。今の父にとって大切なのは、新しい妻とその娘なのだから。

 無事に希望大学に合格した私は、自分ひとりで暮らす場所を決め、一人暮らしを始めた。
 就職するまでは父に学費と生活費を送金してもらうことになっている。

「さぁ、今日から新しい生活の始まりだ」

 ひとりぼっちなのはこれまでと変わらないのに、心は不思議と希望に満ちあふれていた。




 
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