異世界スロースターター

宇野 肇

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四章 清算

閑話: 爪痕の影にあるもの

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三人称第二王子オーウェン視点。


 自室へ戻り、座り心地のよいソファへ身体を預けて漸く、彼は息らしい息をつけたような気がした。
 一大事が終わった。多くの善良な者はほっと胸をなで下ろすか、今後我らと神々の賓客たるマレビトとの間で不和が起こらぬようにするための法整備について、考えを巡らせていることだろう。
 己の先祖が勝ち取ったあらゆる権利について固執し、魔物はびこる現世において楽をして暮らそうと励む者の一部は既に失脚している。それが前向きなものであれば今でも一目置かれていただろうが、その殆どが守るべき土地と民を搾取するだけであったから、その席を引きずり下ろされたのは妥当だ。――方法はともかく。

「オーウェン様、お返事が来ております」
 紅茶の香りと温度を楽しみながら、執事が恭しく差し出した手紙を手に取る。さっと目を通すと、懐にしまい込んだ。
 どうやら件のマレビトは、アデルベルタの日記について触れない選択をしたらしい。深入りすると感情が乱されるからだろうが、もっともだなとオーウェンは深く息を吐いた。

 裁判における最高位の貴族という立場で臨むため、日記に目を通したオーウェンは気分が落ち込むのを止められなかった。
 そこには少女が自分のために記した、秘めたくも忘れたくもない事柄が美しい字で書き連ねられていた。
 そしてそれは、ある日突然人が変わったようになり、

『ここ、どこ?』
『調べた限りArkadiaっぽい。夢かなあ? でも夢にしては……お腹も減るし、トイレに行きたくなる。夢の中でトイレに行きたいって問題よね。リアルじゃ絶対おねしょ案件』
『……うーん、夢じゃ、ない?』
『帰りたい。どうしたら帰れるの』
『みんなに心配される。でも私の心配じゃない。この身体の子が心配なだけ』
『なんで? どうすればいいの?』

 ……そのうちに牙を剥くように世界を呪うものへ変わった。
 事情を知らなければ気が触れたと思うほどに口汚く、インクで汚れたその内容は正しく呪詛だったと言える。具体的な文章については、オーウェンはもう思い出したくもないが。
 神の気まぐれを呪い、それに端を発する理不尽な境遇を呪い、神々の正式な客人たるマレビトを呪い、アデルベルタの置かれた清く美しかった環境を呪った『存在』は、最も身近で手頃だったアデルベルタを苛んだ。魅了の力を自分本位に振りかざし、マレビトでなくても人として許されざる行為を働き、アデルベルタの声を聞きながらも無視し続け、彼女の肉親に手をかけても良いと脅迫さえして、全てを傷つけ続け、そして最後には

 ――だったら、一緒に死んでよ。

 不気味なほど極めて静かな文字で、日記にはそう綴られていた。それが最後に遺されていた文章で、その後のことはオーウェンも知っている。アデルベルタを一途に思っていた下男の存在が、逆に最後の一押しになったことは本人の口から聞いた話だ。
 彼女の日記を見てしまえば、憐憫が慈悲を呼び、この世にこれほどの理不尽があって良いのかと憤りもするだろう。
 事実、オーウェンは日記を読んだ後、いても立ってもいられず本人の話を聞きに牢へ向かったのだから。

 裁判を前にして、『それ』は落ち着いていた。あれだけの騒ぎを起こし、マレビトに手をかけた大罪人。しかしオーウェンの目に映るのは、噂に聞く苛烈な姿ではなかった。ギフト無効化のための手枷足枷をされ、ただ柔らかな椅子に腰掛けて虚空を見つめるだけ。否、見つめてすらいないのだろう。目を開けているだけだった。
 人は心に抱いた感情を吐き出しきると、あるいはどうあがいたところで何の意味もないのだと己の無力を噛み締めると、こうなるのだろうか。力持つオーウェンには理解し得なかった。
「力ある者が上に立つというのならば、どうして私のギフトは『力』だと認められないのですか」
 会話が始まったのは突然だったが、彼は落ち着いた声で返した。
「認められていないはずはない。だからこそ当主はアデルベルタ嬢に自分を厳しく律するよう求めた」
「納得できません」
「それはアデルベルタ嬢の言葉のつもりか? やめておけ。そなたが何を言おうとも、彼女の尊厳が損なわれることはもうない」
 オーウェンの言葉が正しく『それ』に対して紡がれたものだと気づいたのか、瞬くだけだった瞳がそこで漸くオーウェンを認めた。
「そなたの不用意な力の行使で、乱れたものはあまりにも多い」
「では完璧に使いこなせればよいと?」
「完璧に使いこなせた者が名を残すことはないし、そうでないならそなたのように罪人となるだけだ。そして……アデルベルタ嬢だけがギフトを使わないよう、己を律するように教育されるわけではない。そなたには理解し得ぬ話だろうが、別に珍しいことではないのだ」
 はくはくと、彼女の唇が動く。何を言うわけでもなかったが、一度強く引き結ぶと、もうオーウェンの方を見ることもなかった。
「そういう人たちの『良い心』に頼ってるなんて不健全だわ」
「そうだな。否定はしない」
 薄々感じていたが、『それ』は恐らくアデルベルタよりも幼い。そして『自分』というものを抑えるように育てられていないのだろう。自分の気持ちを言語化するのが難しい子どもの癇癪かと思いきや、口にする言葉はそれなりだ。
 そんな人物が、己がやったことの程度を知らないはずはない。
「……そなたが裁判にかけられるのはギフトのためではない。そなた自身の行いによるものだ。そしてアデルベルタ嬢はそなたの心ない振る舞いによって不当で理不尽な裁きを受けるだろう」
 オーウェンは、『それ』の表情を見ないことにした。どれほど渇望しようが、死を誰かと共に迎えることなどできない。
 その場に居続けるほど感情がかき立てられるような気がして、オーウェンはその場を後にした。彼女の手枷と足枷にはギフトを無効化する力があるはずで、彼自身も魅了を無効にする薬を服用していたが、意識していなければ同情的になる心を止められそうになかった。

 彼女のギフトの力は凄まじいものだった。並大抵の薬や装備品では防げないと思うほど、じわじわと心に染みこんできて気づいた時には魅了のこと自体を忘れそうになるほどに。
 身を清めて部屋に帰る頃にはくたくたになっており、部下に渋い顔をされたことを思いだし、オーウェンは再び深く息を吐いた。
 手強すぎる。あのギフトを自分の心だけで御していたアデルベルタ嬢は人ができすぎだろう。
「……くそっ」
 外に出すことのできない言葉の代わりに、幼い悪態が漏れた。

******

 断髪をしたアデルベルタは社会的には死んでいる。彼女は神殿預かりとなった後、『あの存在』のために、自分を愛でた女神のために祈っていた。美しい令嬢はそのかんばせに輝きを取り戻し、彼女の父を安堵させた。

「シャンティ」
「お父様……!」

 ルートヴィヒ家当主ハイドリヒが、娘と面会が出来たのは裁判から一ヶ月以上経ってからのことだった。関係者の心は乱れており落ち着く時間が必要であったし、彼女が死んだことを確かなものにするために必要な時間だった。
 アデルベルタにはシャンティという新しい名前が与えられた。神殿の奥深く、司祭の許可なく立ち入ってはいけない敷地の中で静かに過ごしている。
 ハイドリヒはまめに筆を執り、様々な人を介して手紙のやりとりを行っていた。決してシャンティとの関係が明らかにならないよう、文面に気を配り、届け方もシャンティの面倒を見ている司祭宛てにし、内容をシャンティに明かすかどうかも全て委ねた。
 そうして遅々として進まないように思えた、シャンティとの面会が叶うこととなった。オーウェンはその立会人であり、監視のために同行した。
 この面会に限り、ほんの僅か親子として振る舞うことが許された彼らはしばし互いの身体を労るように抱擁しあっていたが、それを解くと目を合わせた。
「お痩せになりましたか?」
「それはお前の方ではないか?」
「私は皆様のおかげで恙無く、穏やかに過ごしております」
「そうか……。そうか、……」
 僅か離れた場所で、静かに二人を見守る。オーウェンは気配を殺すようにして二人の会話を聞いた。
「私が未熟だったばかりに、お父様には要らぬ苦労をおかけし続けることになってしまい、申し訳ないと思っております……」
「いいや、お前は悪くない。いや、誰も悪くないことだった。お前は立派だったよ。父として……もっとお前に、できることがあったのではないかと思うばかりだが」
「そんなことは……!」
 相も変わらず出来た娘だ、とオーウェンは思う。ルートヴィヒ家の愛娘。愛妻家であった当主が、その娘を可愛がっていたことは近しい家の者ならば誰でも知っていた。彼女を見初める男の多さを思えば、当主が外に出したがらなかったことは当然のように思えるほどだった。
「王子殿下。この度はこのような場を設けていただき、誠にありがとうございます」
「礼には及ばん。尽力したのはハイドリヒ殿だ」
 肩をすくめて答えると、シャンティはそれでもです、と膝を曲げ、頭を下げた。
「やめてくれ。神職の者に頭を下げられる立場ではない」
 恐縮する、とオーウェンが言うと、シャンティは困ったように笑みを見せたが、姿勢を正すことで応えた。
「そなたたちには気になる話のはずだから今言っておこう。下手人の男だが、厳しい刑に処されるだろう」
「……そうでしたか……」
 ギフト関係なく彼女に思いを寄せ、結果凄惨なテロを行った男。ギフトの効果による行動ではなかったことが、罪の重さに拍車をかけた。正気のままであったこと、男の生死、今後彼がどうなるのかについては知っておいて良いだろうと司祭の許可が出ている。
「愛というものは、優しく穏やかなままではいられないものなのでしょうか」
「苛烈な姿があるというだけで、本来は寛容を伴うものだと理解している」
 ここで人生の先達たるハイドリヒに水を向けることは出来る。だが、オーウェンはそれを飲み込んだ。
 アデルベルタの持つギフトの力の強さを感じたオーウェンだからこそ、ハイドリヒが愛を語るにはまだ時間が必要だと感じたからだ。
「そなたが『あれ』に掛けてやった情と時間が愛でないというのなら、愛というものはたいしたものではないだろうよ」
 日記に残る幼い言葉たち。あまりにも強い怨嗟の言葉に圧倒されながらも、恨み辛みにまみれながらも一つだけ、オーウェンが最も『子ども』なのだろうと感じた部分があった。
 恐らく彼女は『あれ』に寄り添ったのだと思うのは、裁判の最中、彼女が流した涙が誰のものだったのか思いを馳せたからだ。『あれ』に振り回され、傷つき、辛い思いをした全ての者達に対してだけだっただろうか。そうではないはずだ。
 あれ以来、シャンティが『あの存在』に関して憐れみをこぼしはしても、自分が被害者であるという主張をしたことはない。心の内は誰にも分からないものだったとしても、司祭をはじめ神官達が彼女を悪し様に扱うことがないのも調査で分かっている。シャンティは正しく、力持つ者として己の至らなさを粛々と受け止めている。
 であれば、この女性に根差す魂に、愛の女神が目を掛けたのも納得できよう。
「冬支度は進んでいるか? 今年は厳しい寒さになるようだ」
「身体を損なわぬよう気をつけて参ります」
「うむ。……では、ハイドリヒ殿」
「はい、殿下。……ではな、シャンティ。達者で」
 深々と頭を下げ、その場で身じろぎもせずに見送りの礼をとる彼女に、オーウェンは浅く息をついて踵を返す。名残惜しい様子で何度かハイドリヒが振り返るのも見ていたが、それを咎めることはなかった。
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