異世界スロースターター

宇野 肇

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四章 清算

閑話: 新しい門出の前に・前

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 年が変わり、雪解けを待つばかりになった頃。約束事のためにジンに許可をもらって、二日、休みにした。
 侯爵家では仰々しいと、ジンがタウンハウスで活動しているのは聞いていたから、その玄関に立ち、ノッカーで戸を叩く。
「よっ」
「おはようございます。今日と明日、ギルをお借りしますね」
 朗らかに、そして気易く挨拶をしたジンは、身支度もまだのようだった。ギルがいなくてもできる仕事を片付けると言っていたから、家に籠もるつもりなのかも知れない。
「ギルの支度なら終わってるぜ……っと、」
 狭い玄関だ。ジンを押しのけるようにして出てきたギルが俺を見下ろした。
「おはよう。今日と明日はよろしく」
「ああ……。おはよう」
 静かに頷く顔は変わりないように見える。流石にびゅうびゅうと雪が吹きすさぶ時期は過ぎたからか、やっと見慣れ始めた厚着姿は、少しだけ嵩が低くなったように見えた。
「ジンが家に籠もるなら、何か食べ物でも買ってこようか」
「要らねえよ。ってか、外泊デートでそれはねえだろヒューイ」
 茶化されて言葉に詰まる。思わず顔を赤くしてしまった俺に、ギルがジンの肩を叩いた。
「いて」
「精々美味いものを食うんだな。行ってくる」
「おー」
 ジンに見送られ、どちらともなく歩き出す。天気も良く、寒いことは寒いが日差しは多少暖かい。良い日になればいいと思う。


 ユーディスによるバージョンアップの告知日から一ヶ月経っていた。借りていた家のことも、シズと共に私物を片付けつつ、次の入居者を探している。最悪、ジンの伝手で借家自体を冒険者向け賃貸物件として扱うそうなので安心だ。シェアハウスのような形だけど、部屋ごとに格安で貸し出すので個人の負担はさほど変わらない。
 ロゼオとブルーノは俺やシズが王都を出て行く……というか、王都に腰を落ち着けるつもりがないのは感じていたようで、比較的落ち着いていた。それぞれの生活を営む為のリズムはこの半年で大分できたと思う。二人は、ギルに関する記憶がなくなっていた。正確に言えば、冒険者としてのギルの名は聞いたことがある、程度になっていた。
 アデルベルタ嬢から端を発する一連の出来事は、彼女の中にいた『誰か』について、一切の痕跡を残していなかった。
 ギルは彼女ではなく、彼女に一方的に惚れ込んでいた一部貴族の奸計によって嵌められたことになっており、そもそも目をつけていたジンの尽力によりえん罪だったことが分かって無罪放免。俺と出会ったことは『あの』タイミングではなくて、どうやらギルが嵌められる時期がずれ込んだことによって、その前に、負傷してしまったところを助けたという扱いになっていた。それが縁で、ジンの協力者というポジションに納まっていて、二人共に面識はある状態だったらしい。未だに実感はない。
 ちなみにアデルベルタ嬢はその件が色恋沙汰によって引き起こされたことによって少なからずショックを受け、自ら神殿に入り、今では静かに祈りを捧げているという。他にも、ギルが義賊よろしく暴れ回ってめちゃくちゃにしたという悪徳貴族達は普通に正当な手段で裁判に掛けられ粛正、一掃されていた。そこでロゼオやブルーノは酷い扱いから開放されていた、と言うわけだ。俺はそのゴタゴタで空いた物件にそう言った人たちと一緒に住み、冒険者として身を立てられるようしばらくの間サポートする役回り。
 シズは俺の奴隷のままだった。ただ、前のギルに関する情報が全て抜け落ちていて、今のものへ変わっていた。アデルベルタ嬢に関わる部分がないから、多分奴隷から解放したとしてもなにも変わらないはずだ。

 あまりの変化に、原因による影響が強すぎるだろ、と思ったのは今でも変わってない。
 マレビトによる影響の話は? 不完全なインスパイアで割を食った現地人のフォローは? マレビトとして扱われなかったあっちの人間は全て帰されたのか?
 バージョンアップ直後は尽きない疑問があったものの、アズマやフィズィのようなマレビトたちの記憶や体験までが消えたり改竄されるようなものではなかったから、どうやら一部のマレビトは現地の人たちと一緒に法整備に乗りだしていることも分かってきた。ユーディスの神格が上がったことによって、恐らく今後、不完全な形でのインスパイアや、俺のようにユーディスの案内から零れるような人間は出てこないだろうという話も聞いた。
 そこだけ分かれば後は俺にできることもないだろうと思って、ゆっくりと王都を立つ準備をしていたのだが……まあその、一ヶ月前からしきりにギルに口説かれていて、ですね。
「え、ぁ」
「朝飯は食ったのか?」
 手を握られ、指先で口を撫でられる。その仕草が妙に甘くて狼狽えていると、穏やかな目線に更にまごついてしまった。

 この一ヶ月どころか、バージョンアップまでの半年間、俺とギルの関係は曖昧で、キスはおろかそう言うニュアンスで触れ合うこと自体がなかった。ギルはずっと俺と自分と、近況のことしか口にしなかった。
 ……最後に俺がギルを、キスを避けて、泣いてしまったからかもしれない。多分、ギルなりに考えてのことだったんだと思う。
 あの時、無理だと思った。とうに過ぎ去ったことをやり直すなんて、と。
 同時に、なかったことになるなんて、とも思った。それが自分のための悲しみだったことは否定できない。ギルの苦しみがなかったことになるのは歓迎すべきことだったのに、一方で俺と過ごした日々を、俺がギルと関わることで味わった感情を、ギルにとってなかったことにするなんてあんまりだと。
 それでも結局、俺はギルの所有権を返してバージョンアップを迎えた。ギルと俺の感情は歪だとフィズィは指摘したけれど、俺は『奴隷と主人』という関係が、俺達の感情を解きほぐすのを阻んでいるように思えたから。そこで漸く、ギルがある種の贖罪のためにその関係を望んだのではないかと思い至ったからだ。
 俺はずっとそれを無視し続けていた。ギルのそう言う気持ちを軽く見てはいなかっただろうかと自問することが増えた。勿論、一人で抱えてはいない。意見が対立していたアズマとフィズィにはそれぞれに相談してみたりもして、自分が納得できる形を模索していた。
 悪いのは本当にギルだけだったんだろうか? 最初がそうだったとしても、俺がそうなるのも当然だったとしても、相応だったかどうかは疑問だ。なまじ俺達の間に法が入るのが遅かっただけに、簡単な話ではなくなっていた。
 それだって、フィズィには『一般的に被害者の気持ちが加害者の贖罪の気持ちで完全に癒えることはないだろう? 法的な裁きと、理性によって被害者が加害者と距離を置くのが普通だろう。稀に被害者やその家族がそう言った加害行為をした相手の環境に対して行動することもあるだろうが』と懇々と言われた。俺の気持ちが、傷ついた心を守るために反応したものだということも。
 でも、バージョンアップの後のギルは……驚くほど言葉を惜しまなかった。フィズィもその様子を確認して、俺の様子を見るという方向に変えたようだった。
「ただ、君が前の記憶のために彼を傷つけたり、前とのギャップに君自身が苦しくなるようなら多少荒いことをしてでも離す。いいね?」
 そう言って、今度は俺に釘を刺すほど、フィズィの考えは軟化していた。俺からすれば自分以外がそうやって厳しい目で見てくれていること自体安心する側面があるけど、アズマは肩をすくめて
「お前とギルの問題なんだから基本は自分たちが納得ずくで、周りに害がないならそれでいい話だろ」
 と言ってくれたのも決定打になった。
 だから今日、俺の方からギルを誘ったのだ。

「軽くコーヒーなら。ギルこそ、食べたの?」
「いや。……なら、どこかで軽くつまむか」
「いいね」
 人通りはそこまで多くない。それでも確かに握られた手は温かくて、離しがたいものがあった。その気持ちのまま、俺からも指をギルの手に擦りつける。二人同時にそうしているのが可笑しくて笑い声を零すと、不思議そうな顔をされた。
「くすぐったかったか」
「ううん。大丈夫」
 ぎゅっと俺がギルの手を握り直す。案外気負うことなく笑って歩けるものなんだと思うと、肩の力が抜けるような気がした。


 屋台で買った野菜たっぷりのピタパンを囓りながら、ぶらぶらと歩く。気の向くまま店を冷やかしつつ、王都の中心部を目指す。雪解けの最中にある王都の路面は悪く、馬車などが走っている様子はまだない。つるつると滑るため、俺達は止むなく手を離した。
「……そろそろ旅支度をして発つんだろ?」
「王都よりも北にね。まだ見たことのない街や村もあるだろうし」
 ピタパンをくるんでいたキッチンシートを丸め、一旦インベントリへ放り込む。大通りは地熱を通しやすくする石を使っている影響で、かなり歩きやすかった。
 昼と夜は自炊予定だから、メニューを考えながら買い物を済ませていく。
「護衛は要らないのか? アドルフがいるとはいえ、お前達は戦闘向きじゃないだろう」
「移動ならアドルフに乗れば大丈夫。本当ならもっと大きい個体だから。それに、ゆっくり行きたいならキャラバンに混じらせてもらえばいいし」
 肉はもちろん、たっぷりの野菜と、米。パンも焼けたヤツを買っていく。堅パンだからスープも作らないと。あとはチーズと卵と……
「あと何が食べたい?」
「果物は?」
「いいね」
 ギルは甘いものはそんなに好きじゃなかったと思うけど、果物は別なのかも知れない。でも一緒にいた頃も果物を食べていたことなんてあったっけ?
 そう思いつつも、俺のために言ってくれたのかも知れないと思い至った。果物類は、出されたものは食べるけど、自分で進んで買う類いの食べ物じゃない。でも、食べるものの幅が広がるのは悪くない選択だ。
 そのまま食しても美味しいものをギルに教えてもらいながら、少しずつインベントリに食材が増えていく。
 買い物を無事に終えた俺達は、宿屋や高級住宅街の並ぶ区画の手前で足を止めた。一拍予定のゲストハウスは一見するとただの一軒家に見える。
 予め受け取っていた鍵を使って中に入ると、普段からこまめに世話をされているのか、かび臭さなどは一切なかった。少なくない金を払っているのもあるけど、少しほっとする。
 食材が痛まないので何も考えずにあれもこれも買ったが、足りなくて買い出しをし直すこともないだろう。
「じゃあ、始めようか」
 さて、じゃあ先に料理を完成させてしまおう。

 米を炊き、スープをつくり、肉を焼いて……パンを温めるのは直前で良いか。
 男二人で肩を並べ、包丁やナイフを握りながら、レシピがあるようなないような料理を作っていく。調味料はゲストハウス内のものを使って良いと言うことだったし、基本的な塩と胡椒、ハーブ類が抑えてあったのでかなり助かった。
 毎日ではないものの自炊していたから、ギルと食事の準備をするのにも苦労はなかった。ギルも冒険者としてのキャリアのおかげか、危なげなく刃物も火も扱っていたから食材をダメにすることもなかった。
 元々おいてあった調理器具を洗って干して、作ったものは米以外敢えてインベントリには戻さずに置いておく。米は俺が炊きたてを食べたいってだけだし、俺が寝てる間にギルが何か食べたくなったら食べられるように、だ。最悪俺を起こしてくれれば良いし。
「……さて、そろそろここに誘った理由でも教えてもらおうか。泊まるだけならジンのタウンハウスか、お前んとこの借家でよかったろ」
「うん……」
 ギルと俺は一度腰を落ち着けようとダイニングの椅子に座った。元々夫婦が使っていたというこのゲストハウスのキャパは二人まで。手配をしたのは俺だけど、自然と近くなる距離に落ち着かなくなる。
「……俺は期待するが。いいのか?」
「う、……うん……」
 バージョンアップ後のギルは、なんというか……言葉数が増えたり、殊更に甘い言葉を言うでもなかったものの、明らかに俺への好意があります、と率直に伝えてきていた。
 ギルの中で、俺がギルに対して何の見返りもなく助けたことが随分と美化され……いや、軽く見るのはやめよう。とにかく、俺に助けられたことが物凄く嬉しくて、ずっと忘れられなかったと言う。バージョンアップ後に初めて会ったときに本人の口から聞いた。
 ジンも、ギルが俺と関わっていこうとする様子を見て、情操教育的な部分で良い影響があるだろうと何かにつけて俺とギルが接点を持てるようにしていたようだ。この一ヶ月の遭遇率はそれまでに比べて格段に上がった。三日に一回くらいの頻度で顔を見かけたり、声を掛けられたり。
 そのどれもが人目のあるところで、ボディタッチは一回もなかった。妙に近い距離になることも。ただ、ギルの目は熱を帯びることがあって……さりげなく俺に同行したいと言ってみたり、恋人はいるのかとか、家庭はあるのかとか……もっと近づきたいとか。ゆくゆくは、特別な関係になりたい、とか。
 普段静かで穏やかな瞳がぎらりと光る度、俺の身体は応えるようにざわざわとして落ち着かなかったものだ。
「その、……そう言う場所だとなかなか距離が……近づかないというか」
 やばい。物凄くドキドキしてきた。絶対に物凄く顔が赤い。
 俺がどういう風に伝えるのが良いか苦慮していると、
「……大丈夫か?」
 気遣わしそうなギルの瞳とかち合った。
「う……その、」
 自分からこういうことを伝えるのって、こんなに難しかったっけ?
 目を合わせ続けるのも難しくて、俺は自分の目線が彷徨った末に下がっていくのを止められなかった。
「今日返事が貰えるってことか? 良い返事が」
「ん、……と、」
「俺に身体を許してもいいと?」
「そっ……! そ、さ、最終的には……」
 率直な物言いだけど、別に間違いでもない。
 今俺が住んでいる場所は人の気配がしすぎるし、フィズィの胸中が未だに複雑なのは俺だって分かっている。口に出して言われていないだけで、フィズィの結論としては、ギルの中に俺との体験がなくなっていても、俺とギルは離れた方がいいと思っているからだ。
 まあ、何が原因であるにせよ苦しくなったり思い悩むことがあれば『できるだけ早く』、『必ず』誰かに相談したり、打ち明けたりするようにと結構きつめに言われている以外は、今はもう静かだとはいえ、俺が敢えて見せつけるように振る舞う必要はなくて……――とにかく。
 俺の部屋はギルとゆっくり過ごすことには不向きだからダメ。ワープポイントでどこかへいくにしても、まさかウィズワルドのホームやフィズィの隠れ家を選ぶのも気が引けた。だから、いざとなればジンのようなワープポイントが使えない人でも、用事が出来れば直ぐに来られる場所としてゲストハウスを選んだのだ。宿の部屋だと自炊は出来ないし、その、……今日は、俺からギルにいろいろと考えていることを伝えて、それで……
「確認だけど、ギルはその、俺が……好きって言うのは、その、そう言う意味で、であってる?」
「……ああ。キスもしたいし、その先もしたい。ヒューイを独占したい」
 迷いなく返ってきた言葉に胸が跳ねた。同時に、ほんの少し安堵もする。
「俺も……ギルがすき、だと思うから……今日は、いろいろしてみたくて……」
 絞り出すように伝える。ギルの反応が気になってぐっと目線をあげると、軽く目を見開いて驚く顔が見えた。
「急ぐ必要はない」
「いやまあ、それはそうだけど」
「……フィズィというマレビトから、お前は昔男に乱暴されたことがあるから、くれぐれも無理強いはするなと釘を刺された」
「はあ?!」
 思わず大声が出たが、ギルは首をかしげるだけだった。
「違ったのか?」
「いや……ち……違わないこともない、けど……」
 いつの間にそんなことがと思うものの、流石にその男が誰なのかとか、経緯は話されていないようだ。そりゃそうか。
 まごつく俺に、ギルの手がゆっくりと伸びてくる。じっとそれを待っていると、頬を撫でられた。
「なら、無理はするな。お前に無理をされても、我慢を強いても意味がない」
 頬に添えられていた親指が、俺の唇をふにふにと押し、そっと滑る。その感覚にぞわりと快感が湧き立って、俺は腰が疼くのを感じた。
「む、むりなんて……とにかく、その、今日はギルと……あ、いや、じゃあ言い方を変える! 俺に、色々させてくれる?」
 ギルの手に自分の手を重ねる。俺の言葉が終わると再び唇に伸びてきた親指を迎え入れて少し舐めて、ちゅぷ、と吸い付いて見せると、ギルの目に劣情が浮かぶのが分かった。穏やかだった表情が少し強張って、掌に一瞬力がこもったのを頬と手で感じた。
「……俺は手を出すなと?」
「ギルが、俺が無理をしてると思うなら」
 少し意地悪な言葉だったかも知れない。でも、ぎこちなくベッドへ誘うと、ギルは頷いた。
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