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第9章 東慶寺への寄進 編

第103話 聖地での乱行

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駿河大納言するがだいなごんこと徳川忠長の元に農民たちからの陳情が届いた。
それは賎機山しずはたやまに住まう猿が畑を食い荒らし、作物に被害が出ているという悲痛な叫び。

但し、この件を処理するには問題が山ほどあった。
まず、この賎機山では野猿は神獣と崇められていたこと。これは近くにある浅間神社あさまじんじゃにおいて、猿は神の使いとされていたことに起因していた。

また、この浅間神社は大権現・家康が元服した、いわば徳川家にとっての聖域に当たる。
この地に、何かを討伐するための兵を入れることは、通常、はばかられるのだ。

しかし、忠長は、そのような事情は些事と気にも留めない。
困っている領民を藩主が助ける。それ以上の大義は、他にないとうそぶいた。
止めるためにすがりつく家臣を足蹴にし、忠長は軍勢を率いて賎機山に入る。

「お主らが気にするのであれば、まず、私が神仏から許可を頂く」

忠長は、そう言うと浅間神社で参拝を行った後、その場で賎機山に生息する猿を成敗すると宣言した。
これには、神主も仰天する。すぐに思いとどまるよう懇願した。

神社はけがれを忌み嫌う場所。血を流す行為は、穢れの極致に位置するのだ。
しかも、その対象がこの山の神獣とあっては、尚更のことである。

だが、忠長の心には、どんな言葉も届かない。
領民から苦情が出ているだけに、自分が正しいと信じて疑わないのだ。

「では、宮司ぐうじ。猿の被害に合う農民を憐れとは思わんのか?」
「・・・しかし、この山で殺生だけは、ご容赦願えませぬでしょうか?」
「私も話して分かる相手なら穏便に済ます。だが、畜生相手では致し方なかろう」

神獣を畜生の一言で片づけるのは、いかにも忠長らしいが、これで神主は諦めた。
価値観が違う相手には、何を言っても無駄なのだ。

忠長は、浅間神社を後にすると、連れてきた手勢を指揮し、野猿の一斉確保の命令を出す。
この狩りで捕まえた猿の数は、なんと千二百匹以上を数えた。

「これで、我が領は安泰だな」

捕らえた野猿の全てを殺し、成果にご満悦の忠長は、喜色満面で駿府へと戻る。
ところが、その帰りに事件が起きた。

それは、神仏の祟りを恐れた駕籠の担ぎ手たちの動きが鈍かったのが事の始まり。
一向に山から下りられぬことに、忠長の上機嫌は、どこかに行ってしまうのだ。

そこで忠長は、まるで馬に鞭を使うように、担ぎ手の尻を叩く。手にしていたのは、鞘の中に入った脇差であった。
すると、担ぎ手たちは、たちまち速度を上げる。

「おお、やればできるではないか」

機嫌を取り戻した忠長は、尻たたきを繰り返した。その度に速度は上がるのだが、繰り返すたびに効果は薄れていく。
そこで、何を思ったのか忠長は、スッと鞘から脇差を抜いたのだ。

そして、露わになった抜き身を担ぎ手の尻にブスリ。
刺された担ぎ手は、その場で飛び上がるのと同時に駕籠を投げだす。

当然、乗っていた忠長も地面に放り出されてしまった。
強かに腰を打ち、顔をしかめる忠長。

普通に考えれば、非は忠長の方にあるのだが、その常識が通用する相手ではない。
命の危険を感じた担ぎ手は、その場から逃げ出すのだった。

しかし、それは取るべきでない最悪の悪手。
すぐに捕らえられると、忠長の前に引っ立てられた。
担ぎ手の男は、怯えながら平伏する。

「も、申し訳ございません。驚いてしまい、つい手を放してしまいました」
「つい?お前が担いでいたのは玉である。傷、一つついてはならぬ玉だ」
「そ、それは存じ上げております」

地に額を擦り付ける男を見下す忠長の目は冷たかった。その目が妖しい光を帯びる。

「では、分かっていて手を離したのだな」
「いや、それは・・・」
「殺せっ」

その一言で、この担ぎ手の運命は決まった。「お慈悲を」と叫びながら連れていかれた男は、忠長の見えぬところで処断される。

この乱行らんぎょうは、浅間神社の神主伝手で家光の耳に届いた。
初め、聞いた時は、唖然とするも、すぐに怒りが湧き上がる。

賎機山は、家光がこの世で最も尊敬する家康所縁ゆかりの聖地。そこでの神獣捕獲や罪なき者への殺人は、決して許されるものではない。

また、忠長は以前も、幕府の重要な防衛拠点、『越すに越されぬ』とも唄われる大井川おおいがわに無断で橋を架け、家光の逆鱗に触れるということがあった。

橋といっても、船を連ねた簡易的なものではあったものの、幕府の了承を得ていないのでは、どう答えても抗弁しきれない。
まるで自領のことは、自分勝手に決めるとでも言いだけに映るのだ。

これら忠長の度重なる傍若無人な振る舞いに、家光もそろそろ、堪忍袋の緒が切れそうになるのだが・・・
それでも、血を分けた弟と思えば、ギリギリのところで、何とか思いとどまるのだった。

兄としては、大御所である秀忠が動き出す前に、何とか改善を促したいと、一縷の望みをかけて文を送る。
それが功を奏したのか、忠長は、一時、大人しく政務につくようになった。

家光も胸のつかえがとれた思いをするのだが、そう思った矢先に忠長の運命を決定づける事件が起きる。
それは、賎機山の乱行の一年後、1631年のことだった。
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