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第一章 家出をした先で

一月後

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「ああ、やっぱり! 私が思っていた通りでしたわ! とってもお綺麗です、ミリアム様!」
「あ……ありがとう、ございます……?」
「あとはこちらをこうして――」

 興奮気味に声を弾ませるテレシア――私の世話係の侍女――の勢いに気圧されながら、私は鏡台の前に座って、化粧が施されていく自分の姿を呆然と眺めていた。一体どうしてこんなことになっているのかと、少々遠い目をしながら。

 早いもので、エイナーが王子だと知ったあの日から、一月近くが経過していた。
 その間、医師からの絶対安静の指示が安静へと変わり、燻ぶるように続いていた発熱もようやく収まって、数日前からは室内を動き回れるまでに私の体は回復していた。

 それもこれも、全ては至れり尽くせりの看護のお陰だ。
 朝から晩までテレシアがそばについてくれて、一日一度は医師が診察に訪れてくれる。勿論、体調に異変があった時にも医師はすぐに駆けつけてくれた。傷に巻かれた包帯も毎日清潔なものに取り換えてもらえたし、衣服も毎日洗い立てのものを着せてもらえた。何より、一度目を閉じると朝までぐっすり眠れるベッドの力は偉大だった。

 お陰で、疲労による顔色の悪さや隈は見事に消え去り、一時はまるで幽霊のようにも見えていた私の顔は、随分健康を取り戻した。傷の方も、鉈で斬りつけられたものと、荷馬車が落下する際に腹部に負ったもの以外はほぼ完治して、激しく動かなければ痛むこともない。
 若干、食事に関しては胃の中に詰め込まされていたような気がするけれど、それはきっと、これまでの私の食事量があまりにも少なすぎたから。最初に出された食事の時から私があまりに少量しか食べないので、テレシアには随分心配されてしまった。

 傷が癒え、体力が回復していくにつれて自然と食事量は増えていったものの、それでもまだまだ平均的な量には及ばないので、最近は毎食テレシアの監視付きで完食することを求められて、胃がはちきれそうな日々である。
 そんな、一日の殆どをベッドの上か、そうでなければソファに座って過ごす日々は信じられないくらいに穏やかで、けれど、不思議と退屈することはなかった。

 一つには、なんと言ってもテレシアの存在のお陰だ。
 いつも明るく朗らかで、お喋り好きの情報通でもあるテレシアは、私よりも四つ上。その彼女のお陰で、私はこの部屋にいながらにして、随分この国のことに詳しくなったように思う。

 例えば、国王の子供達について。
 兄弟の歳が離れているとは思っていたけれど、二人の間には王女が一人いたのだとか。けれど、彼女は四歳になったその年に、病で亡くなってしまった。その二年後に、エイナーが誕生。ところが、今度はエイナーが産声を上げるのと引き換えに、王妃が亡くなる悲劇に見舞われた。
 その所為で、エイナーは心ない言葉を投げられることも少なくなかったそうで、それが彼を部屋に引きこもらせ、随分と内向的な性格にしてしまったらしい。

 この二人の家族の死と弟への暴言は、キリアンを過保護にさせるのに十分だったことだろう。母と姉が注ぐ筈だった愛情を、代わりにキリアンが目一杯に注いだ結果、十一も歳が離れているにも拘らず兄弟仲は非常によく、その仲のよさは、王城内のみならず王都でもとても有名なのだとか。

 余談だけれど、初対面の人には勿論、少しでもエイナーに対して悪感情を持つ相手には決して心を開かないエイナーが、どこの誰とも知れない私のことを誰より心配してこの部屋へ足蹴く通う様は、王城内がどよめくほどの驚きだったらしい。
 私としては、毎日見舞いに来てくれて、その度に花を贈ってくれたり、図書館から本を借りてきてくれたり、いつもにこにこと楽しそうに話をするエイナーの姿がすっかり印象として根付いてしまっているので、反対に、部屋に閉じこもるエイナーの姿の方が驚きだったけれど。
 ただ、その話を聞いて、だからあの日のエイナーの頑張りに対して、周囲があれほどの暖かな眼差しだったのかと、私は改めて深く納得してしまったものだ。

 他には、クルードと言う黒竜と、それにまつわる王家の話なども、テレシアから大変興味深く聞かせてもらった。

「エイナー様の御髪が深い黒なのは、エイナー様を思う王妃様のそのお心に、クルード様が応えられたからだろうと言われているのですよ」

 俄かには信じられなかったけれど、テレシアが言うには、当初、エイナーの髪色は王妃と同じ深い藍色だったのだそうだ。それが、間もなくキリアンと同じ「クルードの黒」と呼ばれる色に変わっていったのだとか。
 他国の人間であり、個人的に神の存在を信じていない私には、黒竜の実在自体がそう簡単に信じられるものではないのだけれど、未開の聖域と交流のある国ならば、そんなこともきっと当たり前に起こって不思議はないのだろう。

 ちなみに、髪色の変わったエイナーを見たキリアンが、自分がクルードの愛し子ならば、エイナーは「キリアンの愛し子」だと言っていたとかいないとか。
 それを聞いて、あの王子なら言いそうだなと即座に思ってしまった私は、その感情が顔に出ていたのか、テレシアに随分笑われてしまった。
 そんなことを思い返している内に、私の顔はすっかり化粧を終えて、次は髪を整えられようとしていた。

「ああ……やっとこの御髪を結えますわ……! 初めに見た時はあまりに痛みが激しくて大変驚きましたけど、とても鮮やかなお色だと分かったら、何が何でも綺麗にしたくなってしまって。頑張った甲斐がありました!」
「いつもありがとうございます」
「いえいえ。こんなにも美しいのは、元々の美しさあってのことですわ。なんて羨ましいのかしら……」

 夢見心地のように呟きながらも丁寧に髪を梳かし、着々と髪を結っていくテレシアの手際のよさに感心しつつ、私は彼女が背後に回ったことではっきり見えるようになった私自身の顔を、まじまじと見た。

 まだ若干青白い肌が、今日は実に血色のいい明るい色だ。頬や目元に薄っすらと乗せられた薄紅色だけで、みすぼらしく平凡な顔が見違えるほど華やかに彩られている。
 流石は、王城勤めの侍女。ほんの少しのことなのに――ほんの少しと見せて、実はそこには私の及びもつかない技術が詰まっているに違いない――自分の顔が驚くほど変わってしまって、彼女の腕のよさには目を瞠るしかない。それと同時に、私はある事実に気付いて愕然とした。

(……もしかして私、今生で化粧をするのは今日が初めてでは……?)

 エリューガルは少し文化が違うとのことだけれど、アルグライスでは十六歳と言えば一人前と認められ、貴族であれば社交界に出る年齢だ。当然そこには着飾った男女が集うわけで、令嬢であれば化粧をするのは当たり前どころか、化粧についての知識も豊富でなければならないとされている。
 貴族でなくとも、女神を信仰する国に住む女性と言うのは、女神のように美しくあらんと平民でも化粧をするのが一般的なので、この年齢になるまで化粧をしたことがない人生は、極めて稀だ。

 もっとも、あのままあの家で下女生活をしていたら、この年齢どころか一生化粧とは無縁だったかもしれないけれど。
 そのお陰か、いつも以上に化粧で変わっていく自分の顔に新鮮さを覚えてしまった。
 そもそも、これまでずっと黒に染めていた所為で、緑色の髪自体、いまだにどうにも面映ゆく見慣れないのだ。そこから更に変化されては、最早それは私ではない。

「さあ、できましたよ!」

 実に満足気なテレシアの一声に、私は化粧だけに注目していた視線を引いて、目を瞬いた。
 可憐で清楚な女性。
 そう表現するしかない姿が、そこにあった。

「どうです? 見違えましたでしょう?」
(……これは誰だろう? 本当に私かな?)

 何度瞬いても、にこにこと笑う侍女に呆然とする私と言う二人の姿は、変わらない。
 化粧で印象が変わるとよく言うけれど、これは変わりすぎではなかろうか。いや、勿論、化粧だけが理由ではないけれど。

 昼食を終えた後、そわそわと言うより、うずうずと言った感じのテレシアによって着せ替えられた今の服は、普段の簡素な部屋着とは全く質の違う、生地が重なるとほんのりと青みを帯びる白の、大変に上等なワンピースドレスだ。
 私の体調や怪我を考慮してか、全体的にゆったりとしたシルエットで、締め付けられることがなく動きやすい。控えめなフリルがついた立襟なのは、微かに痣になってしまった、首を絞められた痕に対する配慮だろう。
 髪は全体を下ろし、広がりがちな左右を緩く編んでドレスと同色のリボンでまとめただけではあったけれど、テレシアの日々の手入れのお陰で見違えるほど艶めく美髪になった髪は、それだけでも十分美しく見えた。
 これまでは、体調の変化に備えていつベッドに横になってもいいようにと、さっと梳いて下ろしたまま特に何もしていなかったので、余計に新鮮だった。

「本当はもっと着飾って差し上げたかったのですが、式典などが催されるわけではありませんので控えめにしかできず……。残念で仕方がありませんわ」
「……い、いえ。十分、素敵にしていただけたと思います」
「次はぜひ、うんと豪華なドレスを着て、髪も素敵に結い上げましょうね、ミリアム様! 私が絶対、素敵に着飾って差し上げますから!」

 そんなことがあった日には、私は一体どこに連れ出されるのだろうか。
 両手を握り締めて意気込むテレシアとは反対に、私は少しばかり遠い目になってしまった。今はもう貴族の娘ではないのに、あの家から出たばかりに、なんだかとても貴族らしいことをしている気がしてしまう。

 一方、鏡越しのテレシアは本当に楽しそうだ。きっと、彼女はこうして誰かを着飾らせることが好きなのだろう。だとしたら、着飾らせてほしいと言ってくれるけれど、その素材が私と言うのは、なんだか申し訳ない気がする。
 髪だけは見違えるようになったものの、白い顔や肉付きの悪い体は不健康かつ貧相だし、灰色とも青とも藤色ともつかないぼやけた色の瞳はあまり綺麗でもないので、化粧映えもしないだろう。

 そんなことを考えながら、ふと鏡の中の自分の顔をまじまじと見て、私は小首を傾げた。
 今まで繰り返してきた色々な人生、私はどんな顔をしていただろう。
 あまりに人生を繰り返してきた為に、十歳でこれまでの記憶を思い出すとは言っても、十全ではない。ここ最近では、遥か遠い頃のことは、ごく印象深い記憶以外は随分と朧気だ。それでも、勿論覚えていることも多くある。それこそ、貴族令嬢として生きた人生で、侍女に初めて化粧を施してもらって気分が高揚したことは、すぐに思い出せるほど鮮明に記憶にある。

 それなのに、自分がどんな顔をしていたのかだけが記憶にない。どんな髪色だったのか、どんな瞳の色だったのか、どんな声をしていたのか、顔立ち、背の高さ、それら全てを、初めから何もなかったかのように覚えていない。ミリアム・リンドナーとなる直前の人生のものですら、全く。
 まさか、そんなことがあるだろうか。それではまるで、「私」と言う人間が存在しないようではないか。
 ぞわりと、背筋に得体の知れない悪寒が走った。

 それなら、「私」は一体――

「それでは参りましょうか、ミリアム様」

 化粧道具を片付けたテレシアに声をかけられ、私は、はっと意識を現実に戻した。

「あ、あの……どちらへ?」
「それは勿論、殿方にミリアム様の素敵なお姿を見せびらかしに、ですわ!」
「えっ!?」

 思わず大きな声を出してしまった私を、テレシアが至極楽しそうに見つめてくる。
 うふふと笑うだけでテレシアからはそれ以上詳細な説明がなされることはなく、私はそんな上機嫌な彼女に連れられ、胸に沸いた不安を一旦忘れて、この日、目覚めて以来初めて部屋の外に出たのだった。
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