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10 蠢めく陰謀(2)
しおりを挟む「お母さま! お母さま!」
――夢を、見ていた。
幼いころの夢だ。真っ暗な空間で、俺は病床の母親に縋りついている。
二人の居る所だけがわずかな明かりに照らされていて、それ以外の周囲は真っ暗だ。でも、その心許ない明かりすら徐々に闇に侵されてきている……そんな夢だった。
「目を醒まして、ねぇお母さま!」
いくら身体を揺すっても、母は目を開けない。それどころか、徐々に彼女の足元から闇がせりあがって来ていて、幼い俺は悲鳴を上げる。
「嫌だ! あっち行け、この!」
振り払っても振り払っても、影の侵攻はやまない。徐々に母の身体は闇に沈んで行って……。
「お母、さま……?」
決して離すまいと、かたく抱きしめていたはずの母の身体は、腕の中で跡形もなくとけていった。
そして、俺は一人になる。
「お母さま! お母さま……! ねぇ、誰か居ないの……? 誰か……」
暗闇に溶けていく自分の声は、己が一人であることをどうしようもなく思い知らされる。
闇の中で蠢く何かが取り残された自分をじっと見ている……そんな感覚に耐えきれず、へなへなと地べたに崩れ落ちた。
――ああ、これから自分はずっと独りなのだ。頼れる者も、心を預けられる者も居ない。助けを求めても、誰も気にしてなんかくれない。
そんな状況を、今更ながらに悟った。認めたくなかったけれど、気づいてしまえばその結論は妙に納得感があって、胸の内にすとんと落ちる。
――そうか。これからはずっと、僕は独りなのか。
昏い絶望に囚われて、そっと目を閉じる。ひんやりとした影が足元から這い上ってくるのを感じたけれど、もうどうとでもなれという気持ちだった。
――その時。
「ワオォォオオーン」
突然、暗闇を切り裂くように聞こえる狼の遠吠えが、辺り一帯に響き渡った。希望の朝を告げ、闇を切り裂く美しい声。
(……この、声は)
すべてを諦めたはずなのに、気がつけばそっと目を開けていた。
闇に沈んだジークの世界を、誰かが温かな光で照らしだそうとしている。何も見えない真っ暗な世界で、ほのかに輝く銀色の髪。
その喜びを、どう言い表したら良いのだろう。
(ああ……俺にはまだ……)
まだ、あの光が見えている。
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
「お久しぶりです。王都はいかがでしたか」
「困ったことになった。そのために、まずは君に話をしなければと思ってね」
父の訃報を受け取ってから、ひと月あまり。
王都での役目を終えて帰ってきた伯爵は、旅の疲れを癒すこともせず真っ先にジークを呼び寄せた。その慌ただしさに嫌な予感がこみあげてくる。
「しかしジーク君、少し痩せたんじゃないか」
「ずっと部屋に押し込められていましたからね。そりゃ食欲もなくなりますよ。それで、困ったことって何ですか」
ちらりと嫌味を混ぜて返せば、伯爵は気まずそうな顔をしながらも「そのことだが」と単刀直入に話を始める。
「王妃から、君の引き渡し命令が出た。城から迎えをやるから、大人しく身柄を寄越せとのことだ」
「引き渡し命令、ですか……」
ああ、とため息にも似た声で相槌を打ち、伯爵はゆっくりと頭を振る。
「中央で、君のクーデター容疑のことを本気にしている者はほとんど居ない。皆、それが王妃の言いがかりだと暗黙のうちに理解している。私もそう予想したからこそ、君を辺境領にとどめたんだ。辺境で幽閉しているという建前を見せれば、当面は切り抜けられると考えていたから」
「ええ、理解しています。……父の葬儀に立ち会えなかったのは悔しいですが」
「ああ。君を守るためだったとはいえ、それは申し訳なく思っている。だが、そうして時間を稼げば、喪が明ける頃には新たな王の即位式だ。新しい王が立つ不安定なタイミングでそんな粗末な処分をしたら、周囲の反発は免れない。わざわざ不要な血を流して王の采配に疑念を持たせるような問題行動はとらないだろう――というのが、中枢部を交えた共通の見解だったのだが……」
やれやれ、と呆れたジェスチャーをとりながらも、伯爵の瞳には燃えるような怒りが滾っていた。
「あの女、よほどウチの可愛い妹が憎いものとみえる。自分を差し置いて王の寵愛を賜ったと見当違いな嫉妬を拗らせ、あまつさえその子の存在までも抹消しようとするとは……! 己の行動で王となる息子の権威が揺らぐというのに、それを顧みることのないその根性。実に愚かとしか言いようがない!」
憤懣やるせないと拳で机を叩き、伯爵は肩で息をついた。
「いや、取り乱してすまない。だが、君の母親は私の可愛い妹でもあるんだ。あの女の所為で、妹のすべてが踏みにじられることが耐えられなくてね」
そう言って、疲れたように伯爵は目を閉じる。しばらくそうしていた後、「ジーク君」と彼は気を取り直したように背筋を伸ばした。
「私だって、あの女の横暴な振る舞いは腹に据えかねているんだ。君は、私の甥というだけではない。辺境領の発展の道筋を作った領地の恩人だ。我々の希望の星だ。そんな君をむざむざ殺されるために差し出すなんて、実に愚かしい。……そうだ。君が望むなら、ウチの兵を預けようじゃないか。君を守るためなら、兵たちも皆呼応する。理不尽な王都の連中の要求に応えることはない。返り討ちにしてしまおう。あの性根の腐った王妃の鼻を明かしてやれ。私が力になろうじゃないか」
伯爵の瞳は真摯で、それでいながら復讐の炎にぎらついていた。
「君に、それだけの権限を与えよう。――さあ、ジーク君。君は、どうしたい?」
伯爵に迫られ、ジークは瞳を彷徨わせる。緊張でカラカラになった喉に唾を飲み込んで、無理やりに口を開いた。
「俺は……」
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
「国賊ジークの引き渡し、本日、中天の刻に執り行ないたし! 辺境伯殿、ご対応願う!」
――王都からの使者は、それからわずか半月後にやってきた。しかも、一個師団を引き連れて。
兵の移動には、それなりの労力と時間が掛かる。辺境までこの規模の兵力を移動させたということは、伯爵が帰領するよりも早く兵士を動かしていたということで……王妃は本気だ。本気で、ジークを潰そうとしている。
「本当に、君の気持ちは変わらないのか」
腕に鎖をかけられながらも堂々と背筋を伸ばし前を向くジークに、伯爵はもう何度目かになる問いを投げた。今ならまだ間に合う、君を助けられると、無言のうちに雄弁なメッセージを籠めて伯爵はジークを見る。
それにいささかの迷いもなく、ジークはきっぱりと首を振った。
「ええ。伯爵の……叔父上の気持ちはありがたかったです。でも、俺は残念ながらそれだけのものを背負える器にない。多くの命を払ってまで立ち続ける覚悟も、未練も……ないんです」
伯爵は、戦になっても勝てると断言していた。おそらく、それは誤りではないだろう。辺境領の兵士は優秀だし、地の利もこちらにある。
だが、それでも犠牲は出てしまうのは避けられないのだ。辺境の兵士が秀でているのは魔獣相手の戦で、対人の経験は少ない。慣れない戦に、どれだけの命が失われることになるか。
そしてさらに言えば、この戦は……。
(得られるものが、何もない)
何度自身に問いかけようと、出される結論はいつも同じ。そのことに安心を覚えながら、己の中に迷いがないことを改めて確認する。
――そう。この戦、勝っても負けても王家と辺境領の関係性にヒビが入るだけ。双方にとって得はないのだ。
魔獣の侵攻を食い止める辺境領の力を王家が削いでしまえば、いずれ王都の地盤が揺らぐことになるだろう。だが、ここまでコトを大きくしてしまった以上、王家が退いたとしても彼らの威信に傷がつく。
王妃はそんなことすら考えていなかったのだろうかと、ジークは呆れた溜め息を吐き出した。
だが、この袋小路の状況を丸く収める選択肢がひとつだけ残されている――辺境領が、ジークを引き渡してしまえば良いのだ。そうすれば、対立しているのは王家とジークであって、辺境領は関係ないという理屈ができる。争いも起こらず、犠牲になるのはジークだけ。
(どれだけ考えても、やはりほかの選択肢は俺の命ひとつに釣り合わなすぎる)
自分一人が貧乏くじを引かされる現状に不満はあるものの、大局的に考えてこれが一番良い答えであることに間違いはない。
その確信があったからこそ、ジークは渋る辺境伯を説き伏せて自身を引き渡すことに同意させたのだ。
「君の気持ちは理解しているつもりだ。しかし……友人に会うこともなくここを発って本当に後悔をしないのか」
「ええ。お気遣い、ありがとうございます。でも、大丈夫です。未練はありません」
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「……そうか。王都の兵士たちは、街の外だ。引き渡しまでは、我々が護衛しよう」
複雑な感情を呑み込むように目を閉じて、伯爵はゆっくりと歩き出した。
「我々が付き添います。よろしくお願いします」
そう言って礼をする兵士の一団は、皆見知った顔だ。大討伐で共に戦った者、訓練で一緒に剣を交えた者、こっそりと愚痴をこぼし合った者――いつの間にか、ジークの周りにはこんなにも親しい者たちが増えていた。
誰もが何とも言えない気持ちを瞳に浮かべながら、ジークを囲む。
「ありがとう。では、行こうか」
その表情に気がつかないフリをして、静かに部屋を出た。
一年近くを過ごしたこの部屋とも、今日でお別れ。そんな些細なことひとつひとつが胸を締めつけてやまない。
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