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【ジーク】紛い物でしかない

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 か、完全にやらかした。

 朝起きて一番に目に入ってきた光景に、一瞬で血の気が引いた。

 何故なら俺の目の前でスヤスヤと眠るコハクの白く細い首には、昨夜俺が付けたであろう痛々しい咬み傷が残されていたからだ。
 昨夜は理性が完全に飛んでいて気付かなかったが、かなり強い力で噛んでいたらしい。そこは、皮膚の下が見える程深く傷付けられ全体的に赤く腫れていて、寝ている間も血が出ていたのだろう、所々に乾いた血の塊が付いていた。

 ――この欲だけは一生抑え込むつもりでいたのに

「す、すまなかった!」
「ぅえ⁈な、何いきなり!」

 俺は慌ててベッドから降りると、コハクが目を覚ますと同時に床に頭を押し付け、謝罪の言葉を放った。

「お、お前何してるんだ⁈」

 その俺の突然の奇行にコハクだけでなくクシェルまでもが目を丸くする。

 しかし俺はそんな二人の戸惑いも構わず、床に頭を付けたまま更に謝罪を吐き連ねた。

 初めから全部間違いだったんだ。焦りと不安に任せて行為を強要したことも、怒りと欲に任せて乱暴にしたことも、そして何より本能に負けてコハクに痛みを与え傷を付けてしまったことも、昨夜の行為全てが間違いだった!俺は許されない事をしてしまった。謝って済む話でないことは分かっている。だが、ただどうか今後もそばに居ることだけは許してくれないだろうかーーと

「え⁈わ、わたし強要されたとか思ってないし、少し乱暴にされた事も傷つ……項を噛まれた事も全然怒ってないよ!む、むしろ余裕がなくなるほど強く愛してくれて、甘えてもらえて……う、嬉しかったし」

 顔面蒼白な俺とは対照的に、コハクは赤く染まった頬に手を添え、恥じらうように微笑んだ。

 その笑顔に、更に心が痛む。

 昨夜の俺は初めから最後まで自分のことしか考えていなかった。コハクを他人に取られないためには、繋ぎ止めておくためにはどうすれば良いか、そればかり考えていた。
 そこにコハクを思いやる気持ちなんてない。完全に私利私欲の為に行動していた。コハクに吐いた言葉の数々も、コハクに甘い快楽を与えたのも、全てはそのための手段でしかなかった。

 何が「俺はコハクがどんなになろうと離れたりしない」だ。何が「おかしくなっても嫌いになんかならない、ずっと好きでいる」だ。そうやって、俺無しじゃ生きていけないように誘導してるのは俺自身だろうが。

 昨日の事を思い出すと自分に対する憎悪と嫌悪感で吐き気がする。

「っ……こんなつもりじゃなかったんだ」

 本当はこんな形で最後を迎えるつもりじゃなかった。本当はもっと慎重に準備して、前戯にももっと時間をかけて丁寧に、挿入れる時も出来る限り苦痛無く。そして最中もーー

「もっといっぱい愛を囁いて、甘やかして可愛がって、快楽と幸福感だけで満たしてやるつもりだった」

 初めては尚更、大事に大事に優しく宝物のように扱って、甘い甘い夢のような時間を過ごさせてやるつもりだったんだ。

「傷付けるつもりなんてなかった!項も、本当なら一生噛むつもりなんてなかったんだ!」

 どうしてもコハクに痛みと傷を与えてしまうこの欲だけは一生抑え込むつもりでいた。

 俺は悔やむ気持ちをぶつけるかのように絨毯を握りしめ、床に頭を押し付け涙を流した。

「……でも、わたしは嬉しかったんだよ?」

 するといつの間にかコハクが隣に来ていて、優しく背中を撫でられた。それに驚いて顔を上げると、今度は両手で頬を掴まれ目を合わせられる。

「ジークお兄ちゃんのことを、勿論クシェル様のことも責める気持ちは微塵もない。ちゃんと、気持ち良かったし、幸せで満たしてもらえたよ?それでもダメなの?昨日のことは間違いだったって言うの?」

 俺の瞳の奥を覗き込むようなコハクの真っ直ぐな目と淡々とした声に、コハクの静かな怒りを感じた。

「し、しかし……」
「項を噛んだのだって何か理由があったんでしょ?噛みたいと思う理由が……ね?教えて」


 俺はコハクの問いに、嘘偽り無く全てを正直に話した。

 昨日のように、二人の存在を一つにした状態で、獣人族の男が女の項を噛むことで、初めて本当の意味での番になれること。
 しかし、獣人として半端者の俺が同じ事をしても所詮それは紛い物で、疑似的な行為に過ぎない。本来だったら番の証として残るはずの噛み跡も、俺が付けたそれはただの咬み傷でしかなく、普通に治り消えてしまうこと。

 だから昨夜のは本当に、コハクに痛みと傷を与えただけのーー

「俺の勝手な、自己満足に過ぎない。意味のない行為だったんだ」
「なに、それ……」

 俺が説明を進めるに連れ、コハクの顔が下がって行き、ついには肩が震え始めてしまった。

「ほ、本当にすまなっ「嬉しいーっ!」
「…………は?」

 傷を付けてしまっただけでなく、コハクを悲しませてしまったことに対して改めて頭を下げようとしたら、コハクの喜ぶ声が聞こえてきた。

 それが信じられなくて、恐る恐る顔を上げるとーー

「っ~~どうしよう嬉し過ぎてヤバい!もう、もうっ本当どうしよう!あぁ~っ嬉し過ぎて死にそう!!」

 コハクは、俺の噛み跡がある項を指で撫でながら、嬉し涙を浮かべ歓喜に震えていた。

 その光景に、今までとは違う暖かい涙が頬を伝う。

「じ、ジークお兄ちゃん⁈」

 その涙は瞬く間に量を増し、拭っても拭っても次々と溢れてきて、コハクに心配をかけてしまう。しかし、泣き声を抑えることに必死で言葉を返す余裕もない俺は、ただただ頬に添えられたコハクの温もりに縋ることしかできなかった。


 自分の唯一が、自分が付けた番の証を愛しそうに撫でながら頬を染め、幸せそうに微笑み「嬉しい」と涙まで流して喜んでくれる。獣人族の男にとってこれ以上幸せなことがあるだろうか?
 しかも、コハクは最初この行為の意味も分からない状態で受け入れてくれていたのだ。そしてその行為の意味も俺が相手では意味を示さない紛い物でしかないと知って尚、ここまで喜んでくれている。

 こんなの、泣かない方がおかしい。

「ありがとぅっ、本当に、ありがとうコハク。こんな紛い物でも喜んでくれてありがとう」

 どうにか涙を抑え込み、やっと喋れる状態になった俺は、真っ先に感謝の気持ちを伝えた。

「うん。わたしこそありがとう。番いたいって思ってくれて、噛みたいって思ってくれて……実際に番えるかとか、それに伴う傷や痛みだとか、そんなことどうでもよくなるくらい強く強く想ってくれてありがとう」
「こ、コハク?」

 頬に添えられていたはずの手が離されーー

「わたしはジークお兄ちゃんのその想いが嬉しいの」

 立ち上がったコハクに、頭をそっと抱きしめられた。

「だから紛い物なんて言わないで。ジークお兄ちゃんに噛んでもらうことに意味があるんだから。他と比べる必要なんてない」

 そして、ゆっくりとあやすように頭を撫でられる。

「それに、治って消えちゃうならまた付ければ良いんだよ」
「……え?」
「ううん、付けてほしい。ジークお兄ちゃんの番だっていう証。消えて無くならないように、何度でも……ね?」

 そう言って、俺の顔を見下ろすコハクの蜜色の瞳の奥には甘い熱が灯っているように見えた。

 その熱に魅入られた俺は、無意識に喉を鳴らす。

「っ……ぃ、良いのか?」
「うん。あ、でも今度からはまだ頭がハッキリしているうちに前もって言っておいてほしいかな。やっぱりちょっと心の準備というか、覚悟がいるから」
「っ!さ、昨晩は本当にすまなっ!」

 噛まれた時の痛みを思い出してか、コハクの身体が強張る。そのコハクの反応に改めて自分のしでかした事の愚かさを思い知った俺は、ほぼ反射的に謝罪の言葉を口にしていた。
 しかし、その言葉はコハクに両頬を強く押さえられ遮られる。

「っもう!だからわたしは全然怒ってないんだってば!」
「し、しかし……」

 コハクが怒っていなくても俺は、コハクを傷付けた自分自身をどうしても許せない。

「むぅ、頑固だなぁ……あ!じ、じゃあ」

 俺の繰り返される謝罪に、不機嫌に口を尖らせるコハク。と思ったら急に顔を真っ赤にして、恥じらうように目線を逸らされーー


「今度はもっといっぱい甘やかして、可愛がって、ください」

 耳元でそう俺だけに聞こえる声で囁かれた。

「っ~~!!え?は⁈こ、コハクそれはどういう」
「き、昨日はジークお兄ちゃんのお願いを聞いたから今度はジークお兄ちゃんがわたしのお願いを聞く!こ、これでおあいこでしょ?それでもうこの話は終わり!」
「え⁈ちょっ、まっ!」
「終わりったら終わり!!」

 そのお願いを言うのが相当恥ずかしかったのか、コハクは耳まで真っ赤にして俺から離れる。その際離れて行くコハクの腕を掴み引き留めようとするが躱され、扉の方へ逃げられてしまう。

「また昨日の事謝ったりしたら許さないからね!」

 そして、扉まで辿り着いたコハクは座ったまま動けないでいる俺の方を振り返り、そう叫ぶと寝室から出て行ってしまった。




 この後俺一人だけ遅れて朝食に向かった事、そして、その日一日仕事が全く手に付かなかったことは言うまでもない。

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