氷の森で苺摘み〜女装して継母のおつかいに出た少年が王子に愛される話〜

おりたかほ

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第二十三章 ビョルンの屋敷

1 鏡の夢(義兄視点)

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1 鏡の夢(義兄視点)


 額にあたたかな感触。

 誰かが僕を呼んで、泣いている。

 体に力が入らない。僕はどうして寝ているんだっけ。誰が泣いているんだろう。いや、これは祈りの言葉? 額に触れたのは誰。僕はずっとこの感触を待っていた気がする。

 ああ、そうか。アリオト。君か。

 君が、帰ってきたのかい?

 君が夜の森に消えた後、僕は母さんと初めて大喧嘩をした。

 すぐに君を探し回ったけれど、あの後森には吹雪が吹き荒れて、急にイバラが生い茂って、僕は入ることができなかった。君の足跡もすぐにかき消された。森の周りをぐるぐると夜通しさまよって、とうとう僕は倒れた。

 君が消えてから、食べ物も飲み物も喉を通らない。いつも飲まされている薬も拒んだ。すると母さんはひどく困った顔をした。単に、僕を心配しているだけだったのだろうか。怪しいものだ。

 母さんを欺くために、薬だけは飲んだふりをした。飲んだふりをして、植木鉢に流す。こんな悪知恵を働かせたことは今まで一度もなかった。母さんを裏切るようなことは。だが、どういう心境の変化だろう。まるで身についた習慣だったかのように、僕は母さんの薬を捨てた。

 母さんのくれるそれらのものを口にしなくなった途端、頭にかかっていたもやが晴れていく。

 君が消え、薬を拒んだ夜を境に、僕の脳裏には、いつのものともしれない記憶がフラッシュバックするようになった。




********************




 まだ、森のほとりの屋敷に越してくる前の記憶だろう。

 僕は、見知らぬ街中を歩いていた。すると貧しい花売りがやってきて、僕に囁いたのだ。

「約束のものをください」と。

 僕は立ち止まって、花売りになんのことだと尋ねようとした。だが花売りは虚な目をして踵をかえし、街の雑踏に消えていった。垢のついた襟と青白い頬と薄青い瞳。乾いてひび割れた彼女の唇も、妙にくっきりと覚えている。

 そしてまた別の日の記憶。僕は埃っぽい道を歩いて、広場に向かっていた。フードを目深に被り、人混みの中を、何人かの男たちに囲まれて歩いている。やがて、広場の真ん中にたむろする人々の奥に、絞首台が準備されているのが見えた。近付こうとする僕を男たちが追う。

 処刑台の上には数人の罪人たちが並んでいた。皆一様に首に太い縄を括り付けられている。その中の一人の老いた囚人と、目が合う。

 大勢の群衆に紛れた僕に、まっすぐ視線を注いでいる。僕は固まったようになって老人と目を合わせ続けていた。やがて老人は言った。

「約束のものをください」と。

 次の瞬間、老人の体は宙に浮いていた。僕は吐き気をもよおしながら目を伏せた。僕は男たちに囲まれて、どこかへ連れ戻される。

 そしてまた日を置かずして、僕は街に出ようとしている。どこかは分からない。高い城壁に囲まれた場所から、僕は抜け出そうとしている。暑い日だ。人気の無い通りに出て、ぐいと服の裾を掴まれる。振り返ると、足元に、虐げられた異邦の民がいた。

「約束のものをください」と、その老婆は言った。

 僕はなんのことだか分からなかった。尋ねても、老婆は何も答えなかった。しばらくして、彼女は目も耳も聞こえないのだと気付いた。僕の聞き違いだったのだろうか。

 僕はそれでどうしたっけ………。

 そう、誰かに相談したんだ。確か、母さんに。だけど、記憶は曖昧だ。夢とも記憶ともしれない光景の中で、僕の話を聞いて嘆いているのは、見知らぬ美しい女の人だ。

 その人はただ悲しげに涙を湛えた目で僕を抱きしめる。ごめんなさい、と呟いただけで、苦しそうにその場を立ち去ってしまった。

 僕はその人を苦しめたくなかったから、もう何も聞くことはしなかった。その代わり、僕はまた街へ出て、貧しい人々にお金とパンと祈りを捧げた。だけどそれじゃあ何も解決しないってことはどこかで分かってた。

「約束のものをください」

 と、四回目に聞いたのは、ベッドの中だった。

 そう、ファラダが言ったんだ。

 ファラダ。僕の可愛い白い馬。僕の枕元にファラダの顔があった。ファラダの可愛い目は見開かれていて、その首から下はなかった。

 月明かりの中で、可哀想なファラダは首だけで喋ったんだ。

 僕はファラダの血で真っ黒に染まったベッドから起き上がると、金切り声をあげた。あげようとした。でも、いくらもがいても声は出ない。呼吸ができない。

 震えているところに、誰かがやってきて、僕を抱き上げた。

「父さんを、呼んで」

 僕はそう繰り返した。

「母さんはダメ。心配させる。父さんを、呼んで欲しい」

 やがて父さんがやってきた。ビョルンじゃない。多分、母さんが再婚する前の、僕の本当のお父さんだ。

 僕は父さんに今までのことを全て話した。父さんは静かに僕の目をじっと見つめて、話を最後まで聞いてくれた。

「僕はどうしたらいい? 約束のものって、なんだろう」

 情けなくも、僕は泣きじゃくっている。父さんは何も言ってくれない。僕は泣き疲れて父さんの顔を見上げた。鳶色の瞳はどこか悲しげだったけれど、優しく、僕だけを映していた。僕はそれでやっと落ち着くことができた。

「お取りなさい、と答えるんだ」

 父さんは長い沈黙の後で、そう言った。

「母さんを許し、救うことができるのは、おそらくお前だけなのだ」

 僕は首を傾げた。

「お前はきっとこれから、長い旅に出る。長い長いお使いだ」
「お使い?」

 父さんは頷いた。

「どこへ行こうと、自分が何者であるかを決して忘れてはいけない。そういう、お使いなんだ」

 そんな簡単なお使いでいいのかと、僕はほっとした。微笑む僕に、父さんは真剣な顔で言った。

「父と母に心から愛された人間であることを覚えていなさい。何があっても、お前のそばに居る人を愛し、その罪を許しなさい。それができたら、お前のお使いは……」

 父さんは声を切って横を向き、口元を覆った。今思えば、彼は込み上げるものを抑えていたのだ。だが僕は、それには気付かず笑顔で父さんの言葉を継いだ。

「そうすれば、お使いは終わるんだね?」

 それが、僕と父さんの最後の会話になった。

 血まみれの僕は浴室に連れて行かれた。いくつもの手で僕は体を清められた。白い新しいナイトガウンを着て、大きな鏡の前に立った。鏡は湯気で曇っていた。僕はそっと手のひらで鏡のくもりを拭いた。僕の黒い瞳と、赤い唇が見えた。

「約束のものをください」

 と、鏡の向こうの僕が言った。

「お取りなさい」

 と、僕は言った。

 湯気が僕と僕の顔の間に立ちのぼり、視界は真っ白になった。潮風が僕の髪をなぶった。ガウンが白い帆のようにはためいた。

 湯気だと思ったものは、朝日が広大な海原に乱反射する光だった。太陽は重たいまぶたのような夜の帳を海から引き剥がし、白い眼球を剥き出すようにして光っていた。光はすでに、僕を差し貫いていた。

 隣には母さんがいた。どうしてここにいるのだろう。僕は誰だろう。白い砂浜が光っていた。まぶしかった。母さんは顔をしかめ、泣き出しそうに見えた。

「大丈夫?」

 僕がいうと、母さんは、黙って僕を抱きしめた。たくましい腕に、長い爪。熊のようだと僕は思った。



********************


 
 それは多分、母さんと僕が二人きりで、まだアリオトと出会う前の記憶。いや……記憶にしてはあまり現実離れしている。どこからが夢で、どこからが現実なのだろう。

「うひゃあ!」

 ふと目をあげると、母さんの巨体が僕の方へぐらりと倒れんばかり。押しつぶされてはたまらない。僕は反射的に身を起こすと、母さんの背中を支えた。

「大丈夫?」

 奇しくも、夢の中のセリフとおんなじ事を僕は口にした。

「ホクトくん……!」

 その名前に、ふと違和感を覚えた。

 僕は、誰だ? 夢の中で、僕は違う名前で呼ばれていた気がする。


 自分が何者かを覚えていること。
 そばに居る人を愛し、その罪を許すこと。


 母さんは目をまん丸にして、僕を見上げていた。父さんの僕に課したお使いは、どうやら簡単なことでは無いようだった。








 

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