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第三十五話・妊婦健診

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 混み合うのが嫌で早めに家を出たはずが、産婦人科医院の駐車場はすでにいっぱいだった。全部が外来の患者の車という訳ではなく、入院中の人やその見舞い客の物も含まれているとは思うが、それでもかなり多い。
 受付でも少し並んだ後、検尿カップを持ってトイレの前でも並ぶ。ツワリが出始めた体調ではなかなか辛い。待合室のソファーでは自販機で買ったばかりのミネラルウォーターを一口ずつ飲みながら耐え忍んだ。

 2回目の妊婦健診ではさらに大きくなった胎嚢の中に、胎芽と呼ばれる胎児の影がエコー画面で確認することができた。有希にはまだ自覚は無かったがちゃんとお腹の中では雅人との赤ちゃんが育っている。

「また2週間後の診察を予約して帰ってね。次で心拍が確認できれば、母子手帳の交付してもらえるから」

 前回と同じく自動で開脚する椅子に身を任せた下半身が露わな体勢のまま、副院長から優しく声を掛けられる。木曜の午前診療がいつも混み合っているのは、単に希少な女医さんだからというだけではない。穏やかな物腰が、不安だらけの初妊婦にはとても安心できる。

 着替え終えてからの看護師の説明で、母子手帳には妊婦健診で使える補助券が付いていると聞いて、有希は次には必ず心拍の確認ができるよう、まだ大きさの変わらない下腹を撫でて祈る。補助券が貰えるまでは、全ての診察は実費なのだ。なかなかな出費だ。

 ――しっかりと大きくなってね。

 産院の駐車場で車に乗り込むとすぐ、貰ったエコー画像をスマホのカメラで撮影する。雅人に送信すれば、即レスだった。あまりの早さに仕事の妨げになってるんじゃないかと心配になってくる。

『再来週の休みに顔合わせのリベンジしたいんだけど、どうかな? お母さんに都合聞いといて』
『有希の体調が良ければ、土曜にお店の下見に行こう』

 立て続けに2件のメッセージが届く。有希も雅人に話したいことはいっぱいあるが、今は『了解』の二文字だけを送信する。

 予定外の妊娠のおかげで、有希達の入籍は確実に早まろうとしていた。年始に5月以降にと宣言していた雅人だったが、今では一日も早く家族の形を作ろうと急いている。

 ――生まれる前からこんなに歓迎されてるんだから、この子はきっと幸せになる。

 やや温くなってしまったミネラルウォーターを一口飲むと、有希は車のエンジンを掛けた。何となく胃がすっきりしない日はずっと続いていたが、冷たい飲み物を口にすればしばらくは平気だった。悪阻というにはまだ軽いので、妊娠初期症状ってやつだろうか。

 家に帰るとリビングのコタツでノートPCを立ち上げる。自室に籠り切りになると母が心配して何度も様子を見に来てしまうので、最近はもっぱら1階で仕事することが多くなった。父が居た時のように昼間もずっとコタツが点いている状況は、猫達にとっては願ったり叶ったりだろう。

「みゃーん」

 リビングのドアの向こうでクロの声が聞こえ、有希はコタツから立ち上がってドアを開きに行く。入って来た白黒猫はするりと有希の足に擦り寄ってから、当然のようにコタツへと潜り込んだ。
 立ったついでに空になったグラスへ麦茶を入れ直し、父の愛用していた座椅子へと腰を下ろす。コタツの中では帰って来たばかりのクロが寝場所を求めてウロウロしているらしく、猫達が場所取りで小競り合いしている声が漏れていた。

「ナァー」

 母猫に寝場所を奪われたピッチがコタツを飛び出し、そのまま外に出たがってドアにカリカリと爪を立てながら鳴いた。慌てて駆け寄った有希がドアを開けてやると、ピッチは軽快な足取りで廊下を走り去っていった。

「全然、仕事になんないわ……」

 猫が順番に出たり入ったりするから全然寝れん、とぼやいていた父のことを思い出し、確かにそうだと小さく噴き出す。順調に作業しているところを良いタイミングでぶった切られるのだ、父もきっとウトウトと眠りつきかけたところを猫達に起こされていたのだろう。

 熱にのぼせたクロとナッチがのそのそとコタツから這い出て、掛布団の上で完全に伸びきっていた頃、仕事で出ていた母が帰宅した。何かを話しながら玄関を入ったのに有希も気付いてはいたが、その時は特に気にも留めていなかった。

「有希! ピーちゃんが怪我してるみたい、ちょっと来て」
「え?!」

 母が話していた相手は猫だったようだ。玄関のドアを閉めている母よりも先に、ヒョコヒョコと廊下を歩いてくるピッチは、よく見ると右前足を浮かせた三本足歩行だった。上げられたままの右前足から出ているのだろうか、玄関のたたきから廊下へと等間隔で血痕が続いていた。

「ピーちゃん、どうしたん? ちょっと見せて」

 ピッチを抱き上げると、有希は猫の前足を確認する。傷みからか嫌がってはいたが、容赦なく足裏をひっくり返して見てみると、その肉球には長く伸びた爪が深く突き刺さっていた。

「え、何でこの爪だけ長いの?」

 他の爪はきちんと指の中に納まっているのに、真ん中の爪だけが出たままでそれが肉球に深々と刺さったまま引っ掛かっていた。引っ張って抜こうとすれば痛がるし、長く伸びた爪は内側に向かって曲がっているから抜いてもすぐに肉球の別の箇所を傷付けてしまう。猫の肉球は人間で例えれば、手の平や足の裏だ。そこに先の尖った爪が刺さり、歩く度に自分の体重が加わってさらに奥深く傷付けてしまう。

 急いでキャリーを用意して、有希は動物病院へと向かった。爪を切って抜くくらいは家でも出来たが、一本だけ異様に伸びている状況は初めてだったので心配だった。20年近く猫を飼っているが、こんなのは見たことがない。

 慌てて駆け込んだ動物病院で、獣医は猫の前脚を診ると、有希に向かってさらりと告げた。傷む脚を捕まえられてもピッチが暴れる様子はない。どこまでもお利口な、大人しい子だ。

「あー、爪とぎが間に合わなかっただけですね」
「一本だけ伸びるのが早いとかってあるんですか?」

 ニッパータイプの爪切りで肉球に刺さったままの爪を切り落とすと、獣医は抜いた後の傷口を消毒しながら「全部が同じ速度で伸びる訳じゃないから、たまにはそういうこともありますよ」と穏やかに笑って答えた。何か特殊な病気の予兆なのかと心配していた有希は、ほっと胸を撫で下ろす。

 せっかくだからと他の爪も全てカットして貰いながら、ピッチは不思議そうに獣医の顔を見上げていた。相変わらず、看護師や飼い主に抑え付けられることもなく治療は終わった。
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