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十一の月
7、【龍昇】陽帝宮にて
しおりを挟む十一の月も終わりに差し掛かったある日の午後。分担された作業の終わった雪華は外朝を自由に行動できることになった。
動きを怪しまれないよう適当な書類や書物を持って、さも届け物を頼まれているかのように回廊を歩く。そうこうしているうちに雪華の足は、見覚えのある一角にたどり着いていた。
(ここは――)
しんと静まり返ったその一帯には、歴史の重みを感じさせる壁画や調度品が並んでいる。回廊の最奥に見える重厚な扉の奥で、誰が働いているのかを雪華は知っていた。
「……いつの間に」
どうやら、皇帝の執務室近くまで迷い込んできてしまったようだ。さすがにここはまずいと、慌てて踵を返そうとしたそのとき。
「…ッ!!」
ふいに背後から口を塞がれ、何者かに動きを封じられた。
(何者…! 衛士か!?)
「ぐ…っ!」
女官姿であることを一瞬忘れ、とっさに肘鉄を喰らわせた。それはあやまたず背後の男に命中し、男が息を呑む。
だが、がっちりと雪華を封じた腕は力強く揺るぎなかった。男の強い腕に引かれ、回廊の影へと引きずり込まれる。
「この――、ッ!」
「雪華。待ってくれ…!」
「…!?」
再度の反撃を試みようとした瞬間、背後から漏らされた押し殺した声にぴたりと動きを止める。
それが誰なのか、最初は分からなかった。だが鼻先をかすめた匂い――伽羅の香りには覚えがある。
口を押さえつける手は大きく、見覚えがない。だがこの香りは……知っている。
(まさか――)
「どうして、あなたがこんな場所にいるんだ……」
そろそろと背後を振り返ると、腹を押さえた斎国皇帝が雪華を抱えたまま溜息と共につぶやいた。
「……放せ」
――見つかってしまった。
幾ばくかの諦めとともに、雪華は冷たく背後へと命じた。だが龍昇もまた厳しい表情を保ったまま、低く告げる。
「嫌だ。……こっちに来てくれ」
「…っ!? おい……!」
冷えた視線も意に介さず、龍昇は雪華の手首を掴むと重厚な扉に向かって引きずり始めた。雪華はにわかに焦り、その手を放そうともがく。
こんな腕は知らない。こんな強引で力強い腕は知らない。雪華が知っているのは、かつて自分の手を振り払った十三歳の少年の手だけだ。
「おい……! 放せ…っ」
「騒いでもいいのか? そろそろ衛士が見回りに来る時間だ。見つかったらまずくはないのか」
「……っ」
押し殺された低い声に、ひやりとする。沈黙を了承と取ったのか、龍昇は少し腕を緩めると静かに雪華を扉の中へと押し込んだ。
精緻な彫刻の施された黒檀の扉をくぐると、そこは大きな窓から差し込む光に彩られた皇帝の執務室だった。
部屋に入った瞬間、衛士に取り囲まれるのでは――という疑念は杞憂に終わったようだ。しんと静まり返った広い部屋には、雪華と龍昇以外の人影はない。
複雑な文様を描く窓枠、大きな机に落とされる影。膨大な歴史が積み重ねられたその空間に、雪華はかつてたった一度だけ入ったことがある。
当時と変わらぬその佇まいに、ふいに琴線が刺激され慌てて顔を上げる。そして、自分を強引に連れ込んだ男をキッと睨んだ。
「どういうつもりだ」
「それはこちらの台詞だ。なぜ、こんな場所にあなたがいる? 偶然見かけて……目を疑った」
「ならばそのまま見過ごしていれば良かったんだ。誰も声をかけろとは言ってない」
「答えになっていない。……また、仕事なのか?」
冷たく返すが、さすがの龍昇も今日ばかりは見逃してくれないらしい。こちらを問い詰める鋭い眼差しが不快で、雪華は目を逸らすと小さく頷いた。
「……そうだ。だが別に、城や人に害をなそうとして潜り込んでいるわけじゃない。あと数日もすれば終わる任務だ」
「誰からの依頼だ。……斎の官吏か? それとも、シルキアか」
「答える義務はないな」
剣呑に交わし合い、視線を落とす。そこで雪華はふと我に返った。……龍昇に、手首を握られたままだ。
手首を掴んだ腕は、当然ながら自分よりも太くたくましい。その対比から目を逸らし、雪華は龍昇を睨む。
「放せ」
「あ……、すまない」
今気付いたというように、龍昇が手を放す。思いきり掴まれて少し赤くなった手首に、はっとしたように龍昇が眉をひそめる。
「あ――。……大丈夫か」
「こんなの、どうということもない」
吐き捨てるように返すと、なぜか龍昇は痛ましげな表情を浮かべた。今の今まで珍しく自分に怒気を向けていたのに、この落差はなんだ。
雪華が見上げると龍昇もまた雪華を見つめ返し、室内にはしばし沈黙が落ちた。
「女官を、装ったのか……。あなたは何にでも化けるんだな」
「……人を狐や狸のように言ってくれるな。でも、まあそうだな。忍び込めないのなら、堂々と正面から乗り込むしかないからな」
「いつも、そうしているのか。そこで働く者たちの中に紛れ込んで――」
「答える必要はないが……ま、そうだと言っておく。人の中に混じることなど、そう難しくはない。慣れたものだ」
「混じる? ……いいや、混ざってなどいなかった」
「なに…?」
自分にとっては当然ともいえることを冷ややかに告げると、予想外にばっさりと否定されて雪華はムッと顔を上げた。……なぜ、いきなりこいつにこんなことを言われなくてはならない。苛立つ雪華には気付かぬ様子で、龍昇は淡々と続ける。
「あなたは、自分がどれだけ目立つか……きっと、分かっていない。この前の踊り子のときもそうだ。あなたは上手く潜入できたと思っていたのだろうが、結局はひどく目立っていた」
「…………」
「あなたが思うほど、あなたは周囲に馴染んでいない。……目を惹かれるんだ。良くも悪くも印象に残る。それではいつも危険が付きまとうだろう」
「何を言っているか、分からないな」
龍昇の言葉が、癇に障る。分かったような口をきく男を冷たく見やると、龍昇は嘆息していくぶんか表情を和らげた。
「ならば、あなたは美しいから目立つ、と言っておく。これなら通じるだろう」
「…………。は……?」
苦笑とともに言われた言葉は――先ほどの言葉以上に意味が分からない。しばらくしてどうやら一応は褒められたらしいと気付き、絶句した。なぜ龍昇に、こんなことを言われるのだろう。
「馬鹿じゃないのか……」
「本当のことだ。……女官姿もよく似合っている。女官身分を似合うと言われても、あなたは嬉しくないかもしれないが」
「いや、身分とかそういうのはどうでもいいが……」
なんとなく、話がおかしな方向に転がっている気がする。懐を探られるのは避けたいので好都合ではあるが、次にどうするべきか悩むところだ。そんな雪華の心情を知ってか知らずか、龍昇が話題を切り替える。
「あなたの属する組織では、密偵や要人警護を主に行っていると聞いたが……」
「『聞いた』じゃなくて調べさせた、の間違いだろ。……今さら、それがどうした」
「先ほどの話を蒸し返すようで悪いが、先日の依頼の件といい、あなたたちはシルキアに関係のある案件も結構引き受けていたりするのか?」
「……?」
問われて、その意図が最初は分からなかった。だが答える義務もないことに気付き、雪華は冷たく返す。
「それは、あんたに話すことじゃない。こちらにも守秘義務というものがある。しいて言うなら、シルキアから直接仕事を請け負ったりはしていないとだけ伝えてもいい。それ以上に話せることはない」
「シルキアのことを調べていたりするのか」
「あんたの立場から見ればそう捉えられても仕方ないだろうが、シルキアにこだわっているつもりは毛頭ない。依頼があれば、シルキアだろうが斎だろうが調べる。依頼があれば、斎の城内も調べる。……それだけだ」
きっぱりと告げると龍昇はわずかに視線を下げ、思案する。だがすぐに顔を上げると、厳しい眼差しで告げた。
「……危険だ。深入りしない方がいい」
たった数秒の沈黙のあとに告げられたその否定に――冷たい怒りが頭をもたげた。雪華は感情を消した瞳で口を開く。
「そうか。……では聞くが、危険でない仕事などどこにある? 機を織ったら指を挟まれるかもしれない。鍛冶をすれば火傷するかもしれない。傭兵になれば、死ぬかもしれない。……どんな仕事にだって、多少はあれど危険がある。それでも誰もがそうやって生きている。それを危険だからやめろと言うのは、支配者の傲慢だな」
「……っ、そんなつもりで言ったのでは――」
「言ったんだよ。一瞬の感情で他人の生業を否定する、それのどこが傲慢でないと? 私たちのことなど何も知らないくせに」
「…………」
冷ややかに返すと龍昇が気圧されたように押し黙る。窓枠に切り取られた空を眺めながら、雪華は淡々と告げた。
「私たちの組織の連中のほとんどは土地を持たず、帰る家もない。何かを作ろうにも、場所も投資する資金もない。だけど技術があった。……それは農作物とか道具みたいに形あるものにはならないけれど、情報という財産を得ることができる。だからそれで報酬を得て、生計を立てることにした。それのどこが悪い?」
視線を戻して問いかけると、龍昇は唇を引き結んで目を逸らした。
……本当は、こちらの方が分が悪いはずだ。なぜなら組織の連中が土地や家を持たないのは、何かしらの罪を犯してそれらを失ってきたからだ。
生まれた土地や家に戻れない者が流れ着き、「暁の鷹」という組織を形作っている。深く尋ねることは滅多にないが、誰もかれもが後ろ暗い過去を持っているのだ。それは雪華とて例外ではない。
いわば自業自得であるのに、龍昇は雪華たちの在り方を否定することはできないらしい。それは君主としての責任感から来るのか、それとも彼個人の性格によるものか。龍昇は雪華を見つめ直すと、わずかに顔を陰らせて口を開く。
「だが……他にも仕事はあるだろう。なぜ、みすみす危険を冒すような生業を選ぶんだ」
「…………」
――癇に障る。自分の考えが正義と信じている男の眼差しに、苛立ちがつのっていく。内心の昂ぶりとはうらはらに、雪華は無意識のうちに冷笑を浮かべていた。
「それしか選べなかったんでな。……身元の保証もない女を、しかも平民になった時にはたかだか十かそこらだった少女を誰が雇う? 妓楼に身を売るか、物乞いをして生き延びるか道端でのたれ死ぬか。他に選べる道といったらそんなところだ。妓楼に入るには幼すぎたんでな。だからこうした。そうやって生きてきたんだ」
「…………」
冷笑で告げると龍昇は苦しげに目を閉じ、やがて苦渋の顔で口を開いた。
「父が……いや、俺たち胡家が、あなたたち朱家を陽帝宮から追いやったから――。あなたに、苦難の道を歩かせることになってしまったんだな……」
苦々しい口調で告げた男の顔を、雪華はゆっくりと見上げた。その表情が意味するところが分からず――いや、分かりたくなくて眉をひそめる。
「……どういう意味だ」
「父があなたの父上から皇位を簒奪したことを、間違いだと思ったことはない。けれど、あなたがこの十三年どうやって生きてきたかを考えると――朱朝が倒れなければ、あなたはもっと幸福な人生を歩んでいたのではないかと……考えた」
「…………」
男の声には、苦悩と懺悔するような響きが込められていた。その顔を見上げ、雪華は返す言葉を失う。
男の言葉に共感したからではない。男の表情に自分を労わる心を見て取り、感動した訳でもない。そんなものではない……!
龍昇の眼差しにあったのは、見当違いの後悔と――確かな憐れみだった。
(……っ)
思考が白く染まる。頭の芯が熱くなり、どろどろとしたものが喉の奥へと沈んでいく感じがする。
これはなんだ。これは――怒りだ。
衝動的に右手を振りかぶると、苦渋を浮かべるその頬を雪華は平手で打ち据えていた。
「…っ!」
「あんた……誰に向かって、ものを言っている」
「え……?」
乾いた音が響いたあと、低く低く――絞り出すような声が、喉の奥から漏れた。
口を開けば怒りがほとばしりそうだ。それを押さえつけ、雪華は目を見開いた目前の男に問いかける。
「あんたが話しているのは、誰だ? ……李雪華か? それとも朱家の姫…香紗か?」
「何を、言って――」
「答えろ。あんたは今、誰と話をしている?」
打たれたままの姿勢で固まっていた龍昇が、呆然と雪華を見下ろす。その顔を睨みつけ、返答を促すと龍昇は戸惑いを浮かべた顔で口を開く。
「それはもちろん、今のあなた……李雪華だ」
「そうか。……だが本当にそうか? あんたはどうやら、それを理解していないようだが」
押し殺した声が震えた。
……限界だ。雪華は両手で龍昇の胸倉を掴み、力任せに引き付けた。
「……ッ! 姫…!?」
「……っ、ふざけるな……! 朱香紗など、もういない。あんたはいつまで幻想を見ている!?」
「…っ!」
「朱朝が倒れなければ幸福な人生を歩んでいた? ……馬鹿じゃないのか? 朱朝は倒れた。それはもう動かしようのない事実だ! 仮定の話など無意味。こうだったら良かったと今さら思ったところで、何が変わる? そもそもあんたに、何が分かると言うんだ!」
頭で考えるよりも早く、唇から激情がほとばしる。叩きつけるような言葉は止まらない。龍昇の襟を揺さぶりながら雪華は叫んだ。
「十三年だ。分かるか? 城にいたのはたかだか十年。記憶があるのなど、せいぜい五年! それよりもずっと長い時間を私は外で生きた! ……城を追われてから、私は幸福ではなかったか? この十三年、私は幸福ではなかったか!?」
「……っ」
「分かるか? ……分からないだろうな。今の私のことなど何一つ知らないあんたに、分かるはずがない。……分かったような口をきくのはやめろ。私を憐れむのなど、お門違いもいいところだ。偽善者じみて虫唾が走る…!」
「!」
龍昇の襟を突き放すと、着物の袖に仕込んだ匕首を抜いた。突如として現れた凶器に龍昇の全身に緊張が走る。それをゆっくりとかざすと、端正な頬にぴたりと押し当てた。
「別に、殺す気はない。……見ろよ、これが私の仕事道具。他にもあるぞ? 短剣、縄、暗器のたぐい……。今まで何をやって生き長らえてきたか知りたいか? だったら気が済むまで、そのお綺麗な頭に吹き込んでやろうか」
「…………」
「あんたがどんな情報を仕入れたかは知らないが、本当はきっともっと暗くて……汚い。私はそういう仕事を生業にする人間だ。香紗姫など、もうどこにもいない。ここにいるのはただの薄汚れた女だ。……幻想を押し付けるな」
「……っ」
手入れした匕首の刃をゆっくりと引くと、龍昇の頬にごく薄く赤が滲んだ。龍昇は息を詰めたまま動かない。静かに匕首を離し、それを懐に収めた。
なめらかな頬に一筋の血が流れる。その色と悔やむような眼差しを目に焼き付け、雪華は踵を返した。重い扉を開き、回廊へと出る。
「……っ! 待っ――」
自分を引き留める、その声が聞こえる前に――扉を閉ざした。
「……っ……」
黒檀の扉に背を預け、天井を仰ぐ。華麗な装飾が目にうるさく、雪華は瞳を閉じた。誰かに見られるかもという意識はすでに頭から抜けていた。
鼓動が速い。久々に声を荒げた喉が乾いている。気を落ち着かせようと深呼吸をすると指が震え、背にした扉に爪を立てた。
この扉の奥で、龍昇はどんな顔をしているのだろう。まだ呆然としているのか。それともなんと無礼な女だと怒っているだろうか。それを確かめたいとは思わないが、扉越しに確かな彼の気配を感じる。
だがこの扉が、幾多の皇朝と皇帝を見届けてきた厚い扉が――今、自分と龍昇の間に横たわる距離だった。
体も、心も――すでに、交わることがないほどに遠く隔たっていた。
龍昇が見ているのは、皇女・香紗という幻だ。幻と重ねて見られるには、雪華は体も心も汚れきってしまっていた。龍昇の目にこれ以上映されることに耐えられなかった。
怒りと共にたしかに感じたのは悲しみだ。もう自分の人生に関わりなき男の言葉に、なぜ悲しまなくてはならないのか。自分を突き動かした、わけの分からぬ衝動に混乱する。
「…………。戻ろう……」
それ以上もう何も考えたくなくて、雪華は額を押さえると重い足取りで官舎へと戻った。
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